風の向きは定まりなし
珀 ーすいー
プロローグ お告げ
香ばしい香りがした。焼き菓子の匂いだ。
玄関の外に居ても、確かに香った。
ママは料理が得意で、最近お菓子づくりにもハマっているらしい。
毎朝の朝食や家族そろっての夕食はもちろん、わたしもパパも大好きだけれど、たまに出てくる手作りのおやつは少し特別だった。
苦手な算数でいい点を取ったり、お手伝いでお風呂をピカピカに掃除したり、何かを成し遂げたときに、ママは嬉しそうにしてキッチンでお菓子をつくるのだ。
今日もきっと、わたしが帰宅をする時間に合わせて準備をしているはずだ。
だって、今日は……。
ガチャ――。
「ママ、ただいまぁ」
「おかえりなさぁい……あら、すこしはやかったのね」
「うん! だって、きょう、マラソンで、やくそくどおり、一位になれたんだもん。はやくママに、いいたかったの」
「ほんとに? すごいわ、ほんとうに一位だったのね」
「うん、ほんとうだよ」
ほら、やっぱり、ママが声をあげて喜んだ。
それから、手に着いた生クリームを石鹸で落として、エプロンにかかった小さめのタオルで拭き取ると、わたしの頭を優しく撫でた。
「おりこうさんね」
ママが喜ぶと、わたしも嬉しくなった。
「ママとやくそくしたから。ねぇ、おやつはまだぁ?」
「あと、もうすこしよ。あ、そうだ、さいごにもりつけを、してもらおうかなぁ」
「もりつけ、したい!」
「うん、じゃあ、おねがいするわね。あ、そのまえに、部屋着にきがえて、ちゃんとてをあらうのよ」
「うん」
「うがいもね」
「わかったぁ!」
そのままキッチンを通り過ぎて、部屋に入り、言われた通りに衣服を着替えると、すぐに洗面所へ向かった。蛇口をひねって、両手を濡らした。柑橘系の匂いがする石鹸を手に取って、泡を作った。
(えー、続いてのコーナーです)
つけっぱなしにしてあったテレビの音量が大きくて、洗面所の方まで聞こえてきた。映像は見えないけれど、きっと、夕方のあの番組だ。
わたしが学校から帰ってくるといつも流れているからすぐに分かった。
(いまから、およそ、百年以上も前、です、が……)
キッチンで鳴り響く音と、わたしが出した蛇口の水で、アナウンサーや気象キャスターたちの声が途切れ途切れになった。
ジャーアァァ――。
泡が落ちて、良い匂いがした。
石鹸の香りは、ママの匂いだ。そばに置いてあるだけで、なんとなく、自然と落ち着くのだ。
キュッ、キュッ。
蛇口を閉めて、後ろに掛かったタオルを握りしめた。
柑橘の匂いだけを残して、肘まで滴る水を軽く拭き取った。
「ねぇママ、てぇ、あらっ……」
と、不意に、ママの顔が視界に入ってきて、
(……)
何かを、言った。気がした。
なんて言ったんだろう。聞き取れなかった。確かに、口元が動いていたようなぁ……気の、せいかなぁ。
わたしはキッチンに戻り、
「て、あらったよ」
と言って、オーブンの前で焼き具合を確認するママを見つめた。
わたしは、「さっき、何か言った?」と、聞こうとして、それから、タイミングよくママが話だした。
「はぁい。じゃあ、なまくりーむをたっぷり、のせてほしいなぁ」
もうすぐ焼きあがるシフォンケーキを横目に、微笑みかけた。
やっぱり気のせいだったのかも。
既に焼きあがったシフォンケーキと、その隣には、わたしの好物である、たくさんの白い生クリーム。
「やったぁ」
「ほら、ふたつめのシフォンケーキもやけたよ」
ママがミトンを片手に表情を緩めた。
甘い香りと、香ばしい匂いがした。
もうすぐパパも帰ってくる時間だ。
「なまくりーむ、すきぃ!」
わたしはそのまま、エプロンに飛び込んで、ママに抱きついた。
(それでは、またあす。このコーナーでお会いしましょう)
気象キャスターの透き通った声が、よく知っている背景音楽と共に、静かに消えていった。
今日も、長いゴールデンタイムが、はじまった。
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