7「それを――望む方向に変える」

 さて。

 アリーサは施設に移り、刺繍や編み物をして過ごしているらしい。とりあえず選手時代に加入していた競技者保険のおかげで、施設はおそらく結構なババアになっても入居していられるお金はあるらしい。


 なんの心配もしなくていいくらい、アリーサは前を向いて暮らしている。

 その相棒のあたしは、ずーっと、アリーサはつらくないだろうか悲しくないだろうか、と、実はつらくて悲しんでいるのは自分なのに、無駄な心配をしている。


 ふつうのタクシーの仕事もそこそこあるなか、休みの日にアリーサの暮らす施設を訪れた。手土産に、デパートの北方物産展で買ったお菓子を持って行く。


 とても解放感があって明るくて、思っていた施設とぜんぜん違った。もっとこう、全体的に灰色で、夜は幽霊が出るような施設を想像していたのである。


 大きな天窓から明かりがとられ、たくさんの人が楽しそうなお喋りをしたり絵を描いたりそれこそ刺繍や編み物をしたりしている。介護のひとがその間を動き回って、車いすを押したりしている。


 アリーサの部屋は二人部屋で、「アリーサ・マクスウェル」と書かれたプレートの隣は「メルチェデス・バルテルミ」とある。……どこかで聞いた名前。


 ドアを開けると、アリーサは嬉しそうに、

「よっす」と声をかけてきた。ベッドではなく窓べりの机に車いすに乗って向かい、細かい刺繍を作っている。その向かいには、シングル競技の伝説の老魔女がいて、ビーズ細工を作っていた。――やっぱりあのメルチェデス・バルテルミだったか……。


 メルチェデス・バルテルミ。あたしらより二世代前、シングル競技で最速の名をほしいままにした『神速の魔女』。確か普通に引退したはずだけれど、どうしてここにいるんだろう。


「おや。相棒の訊ねてきてくれるタンデムはいいわね」

 メルチェデス・バルテルミはそう嫌味を言うと、ビーズを通した紐を結んだ。アリーサは苦笑して、

「チェルさん、こいつはただの寂しがり屋です。寂しいから来てるだけです」

 と、ぐうの音もでない観測を伝えてきた。まあその通りなのでなんの反論もできない。


「メル、チェルさんは引退なされてから頭の血管の病気になって、ここにいるんだって。そのころうちら飛ぶのでいっぱいいっぱいだったからよく知らなかったんだよ」

「あ、ああ……そうなんだ。相棒がお世話になっております」

「なんにも世話なんかしてないわよ。それにあなたがた、コンビ解消したんでしょう?」

「ええまあそうですけど……なんせアリーサとは初等学校のころからの相棒なので。黒板消しをドアに挟むいたずらとか、そういう悪いことをいっぱいやった間柄でして」


 笑ってへこへこそう答える。さすがに大先輩となるとこのリアクションも致し方ない。


「いいわね。友達……仲間。そういうものが欲しかったわ」

 メルチェデスさんはそう言うと、ビーズ細工の紐の始末を始めた。アリーサが、

「ここじゃうるさいしカフェにいこう。手土産に北方物産展の袋があるのはバレている」


 と、そういって車いすをきこきこ回し始める。あたしが押す。

「ここ、ずいぶん自由なんだね。病院はお菓子の持ち込み禁止だったけど、ここはOKだって聞いて、北方物産展でお菓子買ってきちゃった」

「うん。いいところだよ、看護師さんたち優しいし、ドクターもロマンスグレーの素敵なおじ様だし、介護士さんもそう悪くないし」


 ああ。アリーサは新しく生きていく場所を見つけたんだ。

 もう、あたしの知ってるアリーサじゃないんだ。

 そう思ったら唐突に涙が出てきた。アリーサがびっくりする。


「ど、どしたのメル。なんか嫌なことでもあった?」

「ううん。アリーサは新しく生きていく場所を見つけたんだなーと思って。あたしばっかり、なんも進歩しないで悲しい顔してる」

 アリーサはアハハハと陽気に笑うと、

「あのねえメル。そんな大層なことじゃないんだよ。メルだってきっと、楽しいことが待ってるんだよ」


 にわかには納得しかねる。とにかくカフェとやらに着いた。コーヒーや紅茶の自販機と、質素なテーブルと椅子があるだけの静かなところだ。


「で、その北方物産展の中身なに? レーズンバタークッキー? ホワイトラバーズ?」

 レーズンバタークッキーもホワイトラバーズもどっちも北方物産展の花形のお菓子である。がさごそっと袋から取り出したのはそのどちらでもなく、最近人気の切り株ケーキだ。人間の国では「バウムクーヘン」と呼ばれるものらしい。珍しかったので買ってきた。


 それを切り分けてぱくつきながら、

「あのさ、アリーサ。聞きたいことがいろいろあるんだけど」

 と、あたしはアリーサに真面目な顔で訊ねる。アリーサはあたしの真面目な顔を見て、


「メル、顔が怖いぞ顔が。そんな深刻な話? 家売るとか?」

 とほぐしにかかった。ううん、と言って、


「もし、これからの未来を捻じ曲げたら、アリーサは怒る? 傲慢だって怒る?」

「未来を、捻じ曲げる……?」


 あたしは頷いて、アリーサに答えた。

「箒でタクシーやって、いろんな人を未来とか過去に連れていった。病院であんたと一緒だったリリィ・ハーツちゃんの相棒の、シャウ・バダちゃんも、未来に連れてった。それで、現在の行動で未来は変わるんだってことが分かった」


 アリーサは、難しい顔をした。

「それは、落箒したときに戻って、あたしを助ける、ということ?」


「違うよ。それはやっちゃいけないってアリーサは言った。それが正しいとは認めたくないけど、アリーサが嫌ならあたしは絶対にやらない。そうじゃなくて、これから未来を変えるの」


「未来を変える……とは? 未来って不確定で変わり続けるものなんじゃないの?」

「そうね、未来は変わり続けてる。だから、それを――望む方向に変える」

「……メル、それは、ちょっと傲慢すぎない?」


 ああ、やっぱりそう思うんだ。だよね、世の中を変えるなんて、あっちゃならないことだもの。切り株ケーキを食べ進めながら、


「もしかしたら、未来には――アリーサを治せるお医者様がいるかもしれない。そういう未来を作るのって、やっぱり傲慢?」

「うん、傲慢だ」

 アリーサは即答した。


「未来っていうのは、みんなに平等に訪れるものなんだから、誰にとっても平等でなきゃだめだよ。あたしだけよくなる未来なんておかしいよ。そう思ってくれるのは嬉しいけど」


「――アリーサならそう言うと思ってた」あたしは半泣きの顔でため息をついた。

 論理とか倫理とかサッパリ分からないスピード馬鹿のあたしは、アリーサのように理知的に物を考えることができない。でも、アリーサの答えは納得できるものだった。


「あの広い家に一人で住んでるなんて寂しいよ……」

 あたしは小声でそう呟き、洟をすすった。

「下宿屋でも始めたら? あるいは男捕まえるとか」


「下宿屋はともかく男捕まえるほうは絶望的だよ。あたし31だよ、あんたもだけど。いまでもちょっと田舎に行けば17で結婚とかザラなんだよ!」

「アハハハーお肌の曲がり角をヘアピンターンだ」

「笑うなっ。こっちはド真剣なんだからな!」


 結局、アリーサと話し合ってわかったことは、やはり未来を変えることを、アリーサは傲慢だと思う、ということだった。


「……アリーサ、本気の本気で、心の底で米粒くらいとかでも、恨んでない?」

「恨んでないよ? メルは相棒だもん。女二人で暮らす覚悟するくらいの。初等学校からずーっと。犬や猫を飼うのと一緒だよ、最後には楽しい思い出だけ残るシステムさ」


 アリーサの明るい笑顔。本当に恨んじゃいないんだ。

 アリーサは切り株ケーキをぱくぱく食べて、


「これモサパサするね。おいひーけど」とかなんとか言っている。あたしは目のあたりを拭く。あたし一人悲しんでいるだけなんだ。アリーサは、前を向いて生きているんだ。


 下宿屋を始める準備をしよう。あたしはそう言った。アリーサもそれはいいねと言った。

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