6「内心はどうかなって」

 病院で、アリーサと久しぶりにのんびり話をしようと思っていたら、アリーサと同じ病室に飛箒競技の箒手志望の女の子がいて、妙に楽しいおしゃべりになってしまった。いまどきの飛箒術の学校は、タブラエを持ち込んでも怒られないとか、男子の生徒もちらほらいるとか。世の中はいろいろ変わったが、飛箒術を勉強したいと親に切り出したときの定番リアクションである「そんなの勉強してたら嫁に行きっぱぐれる」というのはいまも変わっていないようだ。


「えっ、エスメラルダさんとアリーサさんってもう31歳なんです?」と、リリィ。

「そうだよー。三十路だよ三十路。結婚も諦めて二人で暮らそうって家まで買ったんだけどねー」アリーサは肩をすくめてみせた。アリーサは腰から下が動かないことを感じさせない元気さである。いずれそのうち家に戻ってくるんだろうなと、そのときは思っていた。


「あ、メル。来週からあたしそっちに見えてる施設に入居することになってるから、見舞いに来るときはあっちの建物よろしく」


 そう言ってアリーサは窓の外を指さす。指さしたのは障がいのある人向けの、簡単な仕事やリハビリのできる施設だ。そんなところにアリーサが入るなんて聞いていない。びっくりして、


「い、家に帰ってくるんじゃないの?」と訊ねると、

「だってあんたあたしのシモの世話できるわけ? 親友だからこそできないことってあるでしょ?」と、ぐうの音も出ない返事をされた。公私ともに相棒のアリーサとあたしであるが、互いのフィジカルのことには干渉しない、というルールを決めて、いままで飛んできた。そりゃ調子が悪いときは心配するけれど、それも治すのは個人の責任であるというスタンスを貫いてきた。


 そのアリーサが、だれか他人にシモの世話をしてもらわないと生きていかれない体だったなんて。いずれよくなって戻ってくるとばかり思っていたあたしは、びっくりして悲しくなってしまった。


 アリーサは、「いつまでも病院のベッド埋めとくわけにもいかないしさ。施設に入れば得意の刺繍で稼げるしさ」と笑顔だ。なんでそんなことを、笑顔で言えるんだ、アリーサ……。


 悲しい気分で帰り道を歩く。途中総菜屋さんでシチューパイとポテトサラダを買う。

 自宅でそれをぱくつき、魔鏡の実にくだらないバラエティ番組を見る。選手をやっていたころは忙しすぎて魔鏡どころじゃなかったので、芸人の顔がぜんぜん分からない。そういう、てっぺんにいる生活を五年も続けたんだなあ……。


 アリーサが暮らす予定だった部屋、下宿屋にでもするかな。

 冷めてしまってさっぱりおいしくないシチューパイをもぐもぐする。魔鏡では、タジル川の河口にある漁師町、ナラアトの鬼鯨漁の様子をやっている。鬼鯨は年に一度、ナラアトの沖に繁殖のため集まり、それをナラアトの漁師たちは命懸けで仕留めるのだ。鬼鯨は頭から上質な脂がとれ、肉もおいしい……らしい。山のなかのサラセラで育って内陸のブリジデルに出てきたあたしやアリーサは、ついぞ鬼鯨の肉なんか食べたことがない。スタジオの芸人たちは、その鬼鯨の肉の鍋料理をうまいうまいと食べている。


 こういうおいしいものを、アリーサと一緒に食べたかった。引退したら、二人でフラクトテミル王国じゅうの観光地を回ろう、もちろん箒で――という約束を思い出し、ぐすんと洟をすする。


 悲しい気分で布団に潜り込み、目が覚めて九月十四日。タクシーの仕事のために、あたしは時計台前に向かった。相変わらず気持ちは悲しいままだ。


 しょぼくれた顔で、アリーサが落箒したとき、「戻ってあたしを助けるな」と言っていたのを思い出していると、ごついカバンを抱えた立派な身なりの男性が近寄ってきた。

「あんたタクシーかい?」

 エスメラルダ・マッローネであるかと聞かれずタクシーかどうかを聞かれた。はい、タクシーですよ、と答えると、その男性は街はずれの高級住宅街に向かってほしい、と頼んできた。ブリジデルの街はビジネスをするエリアと暮らすエリアが大きく分かれていて、ふつうの労働者なら鉄道で中央に向かうが、この男性はタクシーで行き来する財力があるようだ。


 そのとき、あたしはその男性の右腕が、義手であることに気付いた。


 あたしの顔を知らなかったので(不名誉な理由で、あたしの顔はフラクトテミル王国じゅうに知られているのだ)、訊ねてみる。

「お客さんは飛箒競技はご覧にならないんですか?」


「あー、俺の故郷はつい数年前まで魔鏡が普及してなかったからね……子供のころ興味がなかったものって、大人になっても興味ないものだろ?」

 きれいな言葉遣いだが、どこかワイルドな口調だ。そして、


「あんた、飛箒競技の選手だったのかい?」と訊ねてきた。

「いちおう、エスメラルダ・マッローネっていう、そこそこ有名な選手やってたんですよ」


「へえー。そいつぁすごいや。まあ、ブリジデルのタクシーはだいたい元飛箒競技選手っていうのが多いね。俺の故郷のナラアトだとタクシーは馬の引く乗り合い馬車が普通だから」


 ナラアト。きのう魔鏡でやっていた、鬼鯨漁のナラアトだ。

「奇遇ですね、きのう魔鏡を見ていたらナラアトの鬼鯨漁をやっていて、鬼鯨鍋、おいしそうだなあと思って観てました」


「鬼鯨は、本当は刺身がいちばん美味いんですよ」

 刺身ってことは、あの肉を生で食べるということか。なかなか恐ろしい話である。


「仕留めてすぐの鬼鯨を、その場で解体して、特に心臓とか背中の脂身とかを刺身にして、トウガラシの入った魚醬で食べるのがね、そりゃあ美味いんだ。ブリジデルの百貨店で売ってる鬼鯨のベーコンなんて、鬼鯨の刺身を食べたことのある人間にはまあ味気ないものですよ」


 へえ。ご当地グルメというやつだ。それこそアリーサと食べてみたかった。


「おいしそうですね、食べてみたいなあ」

「昔から鬼鯨の刺身は船で出る漁師だけのご馳走だからね。村に来たお客や女子供の口に入るものじゃないんですよ。ごめんなさい」


「いや別に謝らなくても。昔、漁師だったんですか?」

「そうだとも。俺、ジムっていうんですけどね、ジムより上手い銛撃ちはいないって村中が言ってたんだ。でもご覧の通り、ヘビフカにやられて片腕になって、漁師を諦めたんですよ。義手をつけてても片腕の人間は船には乗せてもらえないからね。だからもう、一生あのうまい鬼鯨の刺身を食べることはないんですよ」


 いたってほのぼのと、そのジムという元漁師のビジネスマンは語った。

 その語り口は、まるで「もうメルとは飛べないよ、楽しかったなあ飛箒競技」と、怪我して容体が落ち着いてすぐのアリーサが言うようだった。


 思わず涙が出てきた。

「ど、どうしたんだい。なんで泣いているんだい」ジムはそう言ってあたしのことを心配した。あたしは、自分が飛箒競技の選手だったころ、後ろに乗せていた相棒を落として怪我させてしまったこと、その相棒の怪我は二度と歩けないほどのものだったことを話した。


「――俺の親父とおんなじ境遇だ。俺の親父はね、船におこぼれを狙うヘビフカが近寄ってくるのを、銛で追い払う仕事をしていて――船の真下にいるヘビフカに気付かないで、それで俺は片腕になったわけです」


 ぐすん。洟をすする。

「親父は俺が漁師を辞めた時、俺に何度も詫びました。でもね、俺ぁ親父は悪くないと思うんですよ。それはナラアトの女神さまのご加護が及ばなかっただけ、ってね。だからきっと、相棒さんも恨んじゃいないと思いますよ。ましてやスポーツの世界なんだから」


「……そうでしょうか」

 あたしがまた洟をすすると、ジムはハハハと笑って、

「もし相棒さんがあんたを恨んでたら、そう言うでしょうよ。病院に見舞いにいったりはしてるんですか?」


「はい。恨んでる節はなさそうに見えるんですけど、内心はどうかなって」


「相棒さんがもしかけらでも恨んでたら、見舞いにくるのも嫌がるでしょう。きっと、恨んじゃいないと思いますよ。相棒だったわけだし」


「……そう、でしょうか?」


 箒は次第に、指定された豪邸に近づいていた。見るからに立派な、それでいて嫌味のない家だ。ジムはハハハと笑うと、


「エスメラルダさん。タクシーの運ちゃんが、客に小言言われてどーすんです。いままで乗ったタクシーは、見事に全員小言をくれましたよ」


 ジムはそう言うと、左手で頭を掻き、

「片腕でも立派に生きて貿易商ができる。だからきっと、相棒さんも生きていくすべを見つけるはず」と、そう言って笑った。代金をあたしに握らせ、ジムは家に帰っていった。

 アリーサの、生きていくすべ。それは変な希望になって、あたしの胸の中に残った。

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