第19話 代償
「少し、歩きませんか」
宿の外に出たアルフレッドは、港の方角を指し示した。
「あんたと私の間にいったい何の話があるっていうのよ」
ラピスラズリは犬猿の仲であるアルフレッドの妙に紳士的な態度を、ひどく気味悪がった。依然、両者とも変化能力により人間の姿をまとっているため、人目を引くことはない。
道のわきには松明が等間隔に備えられており、海までの通りを照らした。ここのところ天気が良くなかった。夜空には雲が立ち込めている。頭上高くに見える月には雲がかかり、ほんのささやかな明かりを輪状に放つのみ。
海辺までくると、霧の中に停泊する商船の影がいくつか波に揺れていた。何やら文字が刻まれた銀のアーチが鈍く光り、その先には自分たちが下船した埠頭が見える。
ここに来るまでずっと無言だったアルフレッドは、ようやく振り返った。
「正直に言いましょう。あなたに話などありません」
腹を立てたラピスラズリはその胸ぐらをつかんだが、アルフレッドは抵抗する気配がないどころか、両手を上げて降参の格好をとった。
「ロゼに言われたんだから仕方ないでしょう。僕たちがあの場にいたら、彼らにとって話し辛いこともあったでしょうから。特にあなたの場合はね」
「あんた本当に何もわかってないわね。ケイトには私がいないとだめなのよ。私が守らなきゃ」
「それはご立派なことで。ならば、要らぬ気遣いでしたね」
「いつまでふざけたことを…」
ラピスラズリの言葉は突如途切れた。ぐらりとよろめき、胸を押さえては浅い呼吸を繰り返す。魔力が切れ始めたのだ。
アルフレッドはそのすきに距離を取り、乱れた襟もとを直した。
「ああ、ありましたね。話」
アルフレッドは膝を折ってうめく、ラピスラズリのことを静かに見下ろす。
「あなたたちの関係は間違ってますよ」
ラピスラズリは恨めしそうに見上げたが、もう反論する気力も残っていないようだった。
「ほら、もう動けないのですか。それで主人を守る?笑わせないで下さいよ」
アルフレッドの目はどこまでも冷徹に暗い色をたたえていた。
ラピスラズリは、それよりも自身の懐を探ることに必死だった。肌身離さず持っているはずの魔毒の小瓶がない。みるみるうちに心の焦燥が絶望の色に変わる。
「ああ、これですか」
アルフレッドは小指ほどの大きさの瓶をその頭上にかざした。色硝子の容器がきらりと光るのが見える。
ラピスラズリの目は一度大きく見開かれ、次の瞬間には口元をゆがめた。
「何が望みよ。あんた本当、聖獣様のくせして悪趣味が過ぎるわ」
「何とでも仰い」
アルフレッドは小瓶をひょいとつまみ上げたまま、興味深そうにまじまじと見つめた。遮光性の色硝子の容器に黒い液体が揺れている。
栓をしていても、甘くそれでいて胸が悪くなるような苦い芳香が鼻をついた。
「こんなものがなくても死にませんよ、あなたは」
「簡単に言わないで。この苦しみを知らないからそう言えるのよ。魔力が尽きたら、待つのは死よ」
「誰かに言われたのですか」
その問いに対してのみ、ラピスラズリは言い淀んだ。
「まだ何か隠していますね。もっと言いやすくしてあげましょうか」
アルフレッドは、魔毒の小瓶を持つ指を危うげに暗い海の上に持ってゆく。
それを見たラピスラズリは、その場にへたりこんだ。
「呆れた。もう二度とあんたと関わりたくないわ」
この情けを知らない聖獣なら、やりかねないと思った。ロゼの指示がない限り、他者に容赦をすることは一切ないのだ。むしろ、ここで自分が力尽きたところで、この獣にとって何の損もないのだから。
夜の海は、はてしなく広がっている。岸壁へと打ち寄せる波の音はいつまでもやむことがない。両者の間を流れる沈黙は、ずいぶんと長い時間のように思われた。
「ケイトと契約を結ぶまでのあいだ、私を監視してた獣博士に言われてたことよ。檻の中で大人しくしていないと、鞭で打ってくる嫌な奴だった」
「…獣博士まで魔獣の育成に加担しているんですか」
アルフレッドはそれを聞き、自分たちが出会った獣博士がフィルという特殊な経歴の持ち主であったことが幸いのように思われた。
「苦しかったわぁ。魔力が身体のすみずみまでいきわたってないと、死ぬほど辛いのよ。今みたいに、いえ今よりずっとよ」
「なるほど」
―生来凶暴な魔獣が逆らえないように従えるには、都合が良かったのか。
アルフレッドは、しかし今自分がしていることも似たようなものかと思った。
「だけど、ケイトがね。私の主人になってくれたのよ。私は檻を出ることができたわ。そして、魔毒を身体に取り込む苦痛を半分持って行ってくれたのよ」
さきほどまで赤くぎらついていた瞳だけは澄んだ瑠璃色を取り戻し、当時の幸福を反芻するが如き瞬きを見せた。
「だから強い私のほうがあのこを守らなきゃ。私の苦しみを負ってるぶんだけ、倍の力で返さなくちゃならないの」
アルフレッドは、ラピスラズリのことをつくづく哀れな存在だと思った。人の手で歪められたこの獣のことが。
「あなたはもうその獣博士の影響を一切受けていないのですね?」
「こうやって各地を飛び回ってるんだから、関わりようがないわよ。どうしてそんなことを聞くの?」
「いえ。もう何も疑っていませんよ」
アルフレッドが、ようやく魔獣に小瓶を差し出した。今まで見てきた限りこの症状で死ぬことはないだろうと感じていたが、気絶くらいなら大いにあり得ると思ったからである。
「返しますよ、ほら」
ラピスラズリは力なく受け取るとすぐさま栓を抜き、どろりとした魔毒の液体を、一気に飲み干すのだった。
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