第10話 師弟
湿った土の匂いが胸いっぱいに入って来た。
鮮やかに色づいた落葉、数種の小さな木の実が道端に積もっている。
鳥の鳴き声がした。日はいつの間にか、山の向こうに落ちかけていた。
目の前に佇む風見鶏の付いた緑の屋根の建物は、ハークが生まれ育った孤児院だった。
建物の裏手に広がるささやかな菜園。石造りの井戸。赤い花の植わった花壇。少し錆びついた郵便受け。
木でできた扉はいつも大きく開け放たれている。
そこから恰幅の良い中年の女性が出てきた。手に大きな洗濯籠を抱えている。
「あら、ハーク。今日は早いんだね」
「二コラおばさん」
ハークは違和感を覚えながらも、うんと頷いた。
―なんだか久しぶりに見たような気がする。
ハークは首を傾げた。彼女は、ものごころついた時から自分を育ててくれた母親的存在だ。近くの学校へは行っているものの、毎日一緒にいるはずだったのだが。
どうも頭がうまく働かなかった。頭の奥で耳鳴りがしていた。
―俺は何をしていたんだっけ。
自分が二コラと呼んだ女性の後ろからは、見知った年下の少女たちが駆け出してきた。自分と同じ孤児である。この施設では「妹」だった。
妹たちは手に手にシーツや桶を抱えている。
「ハークもたまには手伝ってよ」「それか夕飯の準備か」「畑から野菜を採ってきておいて」
少女らは「母」である二コラの周りを走り回りながら、高い声で一斉に話し始めた。
そしてハークの返答を待たず、二コラに連れられて近くの川へ歩いて行った。
ハークは立ち尽くしてしまう。ずっと続いてきた日常だ。
しかし、何かがおかしいと感じていた。自我に確証が持てない浮遊感があった。
「ハーク、今日はお師匠さんと一緒じゃなかったの?」
背後からまた別の少女の声がした。振り返ると、声の主は妹の一人だった。外出姿に紙袋を抱いていたため、街まで買い出しに行っていたことがわかった。
一番年が近い孤児の娘、ミルシアだ。この施設では珍しく、どこか貴族の娘のような気品漂う子供だった。
ミルシアは、たくさん歩いたから暑い暑いとつばの広い帽子を取り、ぱたぱたと仰ぐ。
―ミルシア。何言ってるんだ、師匠は。
ハークの言葉は喉に張り付いたようになり、声にならなかった。西日が身を焦がすようだった。ひどく喉が渇いた。
―師匠はもうここを出て、行ってしまったじゃないか。
一連の出来事すべてが既視感だった。以前にもこんな状況があった気がする。
身体が汗ばんできた。木々を揺らす微風がその熱をすぐに冷やした。もはや暑いのか寒いのかわからなくなってきた。
そのとき、驚くべきことが起こった。見知った男が。自分が師と仰ぐ人物が、敷地内の門をくぐってくるのが見えたのだ。
「や。ハーク君。今夜はこちらでご相伴に預かっていいかな?持ち合わせが無くなってね。宿を追い出されてしまった」
軽く片手をあげたその人物は、旅人の格好をした細身で長身の男だった。金の髪を斜めに分け、その間から優しげな瞳を覗かせている。口元は、いつも微笑をたたえていた。
ミルシアは嬉しそうに飛び上がると、夕飯の支度のために台所へと駆けて行った。
ハークは我が師のあまりにも軽々しい態度に拍子抜けした。いつも剣を教えてもらうためにその姿を探していたのに。街に滞在中の間だけでも、剣の稽古をつけてもらおうと思って。
「師匠。まったく、あなたという人は本当に。とても騎士なんかにゃ見えませんよ」
ハークは、自分の言葉でようやくはっとした。
―そうだ、ロゼは?ここに師匠がいるって知らせなきゃ。
ようやくはっきりと現在一人でいるであろうロゼのことを思い出した。思考が明快になってゆく。
―いやそもそもどうやって帰ってきたんだ。俺はさっきまで森のなかで聖獣の庭を目指してたんじゃなかったのか。
ここで聖獣アルフレッドを取り戻す目的を思い出した。オーラヘヴンで待つフィル、ケイト、ラピスラズリのことを。そして、今は師を、神獣を追う旅の途中であることを。
目の前で微笑を浮かべる師は、美しい白銀の剣を下げていた。自分が片時も離さないはずの聖剣が師のもとにある。当然のことだった。もともとは師の持ち物だったものだ。むろん自分は武器など何も持たない軽装だ。
―つまり、これは過去の自分だ。俺は今、自分の記憶を見ている。
師の瞳は自分に向けられているのだが、まるでその先に別のものを見ているかのようだった。聞きたいことはたくさんある。しかし、自分の言葉が先ほどから誰の耳にも届いていないことは明らかだった。記憶のなかである。まるで劇場の舞台にいながら芝居を見ているような感覚だ。
それでもハークは全身に力をこめ、大声で叫んだ。
「師匠。俺、絶対あなたに追いついて見せますから!」
すると、ゆっくりとハークの視界が歪んだ。あれほど会いたいと願っていた師の姿が、遠く薄れていく。切なかった。免許皆伝だと自分に剣を託し、何も告げず街を離れた師匠。あのときの喪失感を思い出す。
狂おしいほどに懐かしい世界は、西日の朱色の中に滲んで溶けていった。
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