第9話 霧のなかへ

 早朝よりハークとロゼは、オーラヘヴンの街の裏手から続く林の道を歩きはじめた。他に「聖獣の庭」へ進む人はいない。

 森への入口で街の人間に何度か止められる始末。それ以上行くと、常人は気がふれると。しかし、詳細について尋ねてもいまいち要領を得ない応えばかりだった。


 今のところ特に変わったことは、見受けられなかった。いたって普通の森だ。寒い地域のためか背の高い針葉樹が多い。

 歩けるくらいの道はあった。

 曇り空の下、朝の冷たく澄んだ空気が歩く者の肺を満たす。


「一体どこからが、『聖獣の庭』なのかしら」

 ロゼは、歩を進めながら呟いた。ハークは、少しぼうっとしているようだった。返答がないので、ロゼはもう一度声をかけることとなる。

「ハークったら」

「ごめん聞いてなかった」

「どうしたのよ。さっそく聖獣の気とやらにやられてたってわけ?」

「いや、何か森の奥の方から人の声みたいなのが聞こえない?」

「…声ですって?」

 ロゼとハークは、しばし足を止めた。

 耳を澄ますと、確かに不思議な響きが聴こえてくる。

 それは、幾重にもなる清らかな女性たちの歌声のようにも思われた。

 不思議と、気味悪くは感じなかった。

 まるで聖獣の住処にふさわしい、精霊の福音のような―


 しかし次の瞬間、ロゼは濃い霧に包まれて、ハークの姿を見失ってしまう。

 近い距離で足を止めていたはずが、気づけば自分一人になっていた。

 しかし、どれだけ呼んでも歩き回っても、すぐには会えないことを察した。

 奇妙なことが起こるというのは、ここまでさんざん聞かされてきたことだ。

 ―なるほどね。すでに私たちはこの森に取り込まれちゃったってわけ。

 ロゼは特に動じることなく、一人で歩き始めた。

 アルフレッドを連れ戻すことは、自分の役目だと覚悟して来たことだった。

 今更、何も恐れることはなかった。

 目指す先は、不思議な響きのする方角だ。


 ―なんで急に霧が。ロゼはひとりで大丈夫だろうか。

 ハークは視界の悪い中で狼狽していた。しかし、すぐに思い直す。獣使いの里で明らかになったように、ロゼが偉大な聖獣使いであることは紛れもない事実だった。

 聖獣は人を襲わないと聞いた。なら、自分よりも勘の良い彼女のことだからきっと何とかなるだろう。

 ハークは森の奥から絶えず聞こえる不思議な響きに従っていれば、また先で会えると考えた。向かう方向はきっと一緒だと。

 ひとまず、視界にまとわりつく霧を抜けるために足早に歩き出した。霧の中は、重く湿気ている。水蒸気の粒が身体にまとわりつき、冷たかった。

 しばらくすると、ハークはふいに足を止めることとなる。立ち込める霧の中、自身の影が行く手を立ちふさぐように伸びていることに気づいた。

―なんだってんだよ、これは。

 ハークは目の前の光景に茫然とした。夢か現か。驚いたことには、七色の光の輪がその影を浮き上がらせているのだ。

 先ほどから頭もぼうっとしていた。依然森の奥からこちらに向かって呼びかけるような多重の甘い混声。

 本能的な恐怖から、思わず剣を抜いてその影を振り払う。しかし、自身の影は自分の何倍にも大きくなり、木ほどもある巨大な剣を振りかぶっていた。思わずぞっとする。むろん自身を映す影である。自分が剣をおさめれば済む話だ。

 ハークは、首筋に冷たい汗が伝うのを感じた。鼓動が速くなる。不可思議な空間の中で剣を振り上げたまま立ち尽くした。

 むせかえるほど濃い霧は足元を取り巻き、地面さえ隠してしまった。もはや上も下もわからない。遠近感もない。自身の影は虹色の輝きを放ちながらゆらめく。そしてもう目前まで迫っていた。


 ―どこまで来たんだろう。俺は何を目指していたんだっけ。

 ハークは憑き物が落ちたように歩を進めた。霧はいつの間にかすっかりと消えていた。あたりの景色は青く暗い針葉樹の森から、紅葉が舞い落ちる恵み豊かな森に変わっていく。しばらく歩くと、何やら懐かしい風見鶏の付いた煉瓦屋根が見えてきたのだった。気が付くと、足早になっていた。

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