第8話 倒壊

 召喚の儀が始まった。

 胡乱な様子の魔女は、低くかすれた声音で何やら呟いている。

 それは、不愉快に音割れしたマイクを通して、会場内に響き渡った。

 抑揚のない、古い言葉の連続。

 観客は、もう彼女の魔法にかけられていた。

 誰もが思考を止め、劇場をぐるりと取り囲む多数の目だけが彼女を捉えていた。

 空気にのまれまいとするハークは、隣を向き、声をひそめた。

「あれは魔獣を召喚するための言葉か?お前もあんなの覚えてるのか?」

「不要だ。あれはただの大げさな演出だ。だが、そろそろくるぞ」

 ケイトの言葉が終わらないうちに、彼女の言葉は途切れた。

 次に鋭い瞳をいっぱいに見開いたのだった。


 ―『失われた大召喚が、今宵100年の時を超え、レオセルダの街に蘇る』

 ハークはここにきて、ようやく老夫人の言葉の意味を理解した。

『彼女はレオセルダの誇りなの』

 耳をつんざくような熱狂が、会場中を支配した。

 魔獣は天幕を突き破らんばかりの勢いで、巨体の輪郭を現した。

 魔女のかたわらで、後方の足を折りたたみ、息荒くその身を震わせている。

 毛並みは全身を覆い、ところどころ露出する地肌には黒光りするうろこが。

 瞳孔は細く長く開いていた。

 しかし、まだどこかまどろみの中に、いるような。


 そんななか、ハークの隣席の男は、お構いなしの様子だった。

 観覧席を派手に蹴り上げ、開けた通路まで躍り出た。

 腰位置低く吊り下げた矢筒から金の矢を取り出し、すでに手に構えていた大弓につがえる。

 躊躇ないその一連の行為に、ハークは一瞬後れを取り、しかし後を追い叫ぶのだった。

「馬鹿か!こんな遠距離で外したらどうする!!他の人間にあたるだろ」

 ケイトは、とうに指先を離していた。続いて、流れるような動きで次の矢を。

 異変に気づいた周囲の観客も、二人三人と押し寄せ、この男を取り押さえに入った。

 ハークは、混乱する人々に押されて抵抗するも、もみくちゃに。

 ケイトは、ハークに一瞥くれた後、観覧席の背や肘掛部を器用に踏みとばしながら、ステージへと距離を詰めていった。

 やっとのことでハークが、ばらばらと立ち上がる観衆の肩越しに見たのは、魔獣の片足が、木製の中央舞台を踏みぬく様子だった。

 鉄骨といえど、簡易的に支えられたこの大型テントも、もう長くない。

 それよりも、ロゼたちは―


 ケイトの放った金の矢は、いくつか魔獣の首筋に、しかと命中している様子だった。

「ロゼ、行きましょう」

 アルフレッドは、混乱のさなか、ロゼの腕を引き、誰よりも早く出口へと。

「ハークがまだ」

「彼は大丈夫でしょう、今はそれよりも」


 逃がさないわよ、子猫ちゃん。

 しかし、どうやっても、奇妙なほど身軽なラピスラズリが、退路を塞ぐのだった。

「貴様に構っている暇はない、殺されたいか」

「できるものならね。でも、そうこうしているうちに、ほうら」

 天幕を支える鉄柱は、きしみながら厚手の布地を切り裂き、その崩壊は連鎖していった。


 先ほどまで広場の中央にそびえていた、メインのテントは倒壊し、そのつくりを覆っていた帆布が大勢の人を巻き込みながら、舞台装置や逃げ惑う人々の形にでこぼこと波打っていた。

 半狂乱状態の観衆は、空気のこもっていた屋内から生ぬるい微風が吹く外気へと一斉に放出されていた。


 そんななか、厚い布の中からゆらりと姿を見せたのは、魔獣の地肌。

 鋭い鉤爪でまとわりつく一切を切り裂きながら、地を揺らすほどの咆哮を放った。

 外に出ると、その体の大きさは引き立ち、周囲を立ち並ぶ建物の高さに引けを取らなかった。

 狙いを定めるは、天幕の残骸からようやく抜け出たロゼ、唯一人。

 アルフレッドは、ロゼを庇いながら、聖獣へと姿を変える。

「やっぱり、私なのね」

 ロゼは、諦めたように居直った。

 一直線に迫りくる、魔獣の瞳にはおおよそ自分しか映っていないように思われた。

 彼女が密かに抱いていた疑念は、こうして確信へと変わったのだった。



















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