第23話 監督の夢 前編
提灯の明かりが照らし出したのは、スカイブルーのキャップと胸元に同じ色で書かれたアルファベット。見紛うはずもなく野球のユニホームだった。白いユニホームが夜更けの墓地にカフェオレのように溶け込んでいた。
フィットしたユニホームは肉付きを良く見せるが身長は高くない。年の頃は三十代半ばか。誰何の込もった視線を浴びながら盆之が問いを投げた。
「あなたはなぜここにいるのかご存じですか?」
予想外の質問だったのか、戸惑いの空白があった。
「どうして墓地にいるのか、ということですか?」
「そうですね」
「自分のことですから」と言った。死んだ自覚はあるようだ。
「あなたは何か大きな後悔を抱えているようですが」
はっとした顔でつばの先をつまみ、反対の手で後頭部を左右にこするようにしてキャップの具合を調整した。
「私は大切なことを残して死にました」
「悔いを晴らして天国へ行くお手伝いをするのが私の役目です。よければお話を聞かせていただけませんか」
もう一度同じ挙動でキャップを直して言った。
「この格好でわかると思いますが、といっても私は選手ではなく監督でした。どうして野球は監督も選手と同じユニホームを着るのか、私も疑問に思ったことがあります。他のスポーツはスーツかジャージですから。ただし高校野球の監督には背番号がありません」と背中の空白を見せた。言い慣れた話なのかもしれない。
「選手の経験はありません。父が少年野球チームの監督をしていたんです。土日は練習があったので遊びに連れて行ってもらえませんでしたし、毎晩夕飯時は野球中継に付き合わされましたから、私は野球が好きではありませんでした。野球はお好きですか?」
「嫌いというわけではありませんが」盆之は苦笑を浮かべた。
「好みの分かれるスポーツなんですよね。好きな人は毎日見ても飽きないのに、嫌いな人はルールを知ろうともしない。情報が多すぎて食傷して嫌いになる人もいます。幸い父は私に野球を強制しませんでしたので、嫌いにまではなりませんでした。
中学生の頃父に、試合の手伝いを頼まれました。仲は悪くはなかったんですが良くもなかったので、今思い出すとなぜかわからないんですが引き受けました。手伝いといっても試合前後のグラウンド整備ぐらい。トンボっていう木製のホウキのような道具でグラウンドを均して、あとはベンチの脇で試合を見ていました。
初めて観戦した少年野球は、こどもの稚拙な試合ぐらいに思っていたら、面白かったんです。一生懸命さに心を打たれたとかではなく、純粋に試合として面白かった。上手い子にはセンスを感じますし、下手な子でも練習すれば上手くなる。素人ながらそう感じました。
それから暇な日は練習についていくようになりました。グラウンド整備やボール磨きを手伝いつつ見学し、野球の勉強も始めました。野球中継を見ては、ピッチャーは次何を投げるのか、父と配球を予想しあったり、戦術も勉強してどんどんのめり込んでいきました。自分でやろうとは思いませんでした。中学3年で、始めるには遅かったですし、やっていればよかったとも思いませんでした。出会うべき時に出会っただけ、そのことでの後悔はありません」
「一方で嫌なものも目にするようになりました。少年野球には、いまも昔のままの指導を続けている人がいます。威張って、怒鳴って、粗探し。試合中でもベンチから声を荒げてダメ出し。ボール球に手を出したのを罵倒したり、3塁コーチの指示が悪いとしつこく注意したり。日常的な光景です。
こどもはまだこどもです。体が小さくて大人とは見える景色が違いますし、軟式ボールでも当たると痛いんです。それを平気で怒鳴り散らす大人ですから人相の悪い人も多く、余計に子供は怖がります。なぜそれほど威張れるのかわかりますか?」
その問いに、盆之は首を傾げて続きを催促した。
「相手がこどもだからです。妊婦やベビーカーに難癖付けるのと同じで、腕力で優っているから威張れる。こどもたちに整列させ、帽子を取って頭を下げさせ、自分は腕組みしてふんぞり返っている。礼儀を欠いた人間が礼儀を語る。指導者ではなく支配者なんです。
仮に高校や大学で、指導者に殴られたら殴り返してOKというルールを作ったら暴力指導は根絶できるでしょう。安全な場所にいるからこそ横暴を振るえるんです。
『野球離れ』が叫ばれています。実際かなり深刻で、現場を見れば分かりますが、1チーム10人程度のところが多い。9人揃わないチームもあり、チーム数も減少しています。元々が多すぎたせいかもしれませんが、この傾向は今後も続くでしょう。指導者の意識改革への期待は薄い。新陳代謝を待つ時間はないはずですが。
世界レベルで結果を残しているスポーツは、どれもジュニア世代の強化に特化しています。長期の低迷から脱し、復権した競技もジュニア育成の賜物で、それほどこどもの指導は重要なんです。今は結果の出ている野球も未来はわかりません」
淡々と語ってはいるが、言葉の節々に憤りを滲ませている。
「先ほども言ったように、私の父は押し付けない人でした。声を荒げたりも滅多にしない。他のコーチも似た雰囲気で、軟式の学童野球チームで、強豪ではなく、勝ったり負けたりの繰り返しでしたが、雰囲気も良く和気あいあいとしていました。
そこへ新しいコーチが加入しました。40歳手前の、甲子園経験者でした。強豪校のレギュラーで、実際に甲子園でプレーして、プロのスカウトから声がかかったと話していました。大学時代には一度、東都の1部リーグでベストナインに選ばれています。結局プロには行かなかった、というか行けなかったみたいですが、プロになった同級生の話を聞かせてくれました。野球好きなら知っている名前で、今でも定期的に同窓会を開いているそうです。
みんな大歓迎でしたよ。野球人にとって甲子園は憧れですから。身長も180センチ以上あって、さく越えホームランをかっ飛ばしてみせてくれました。こどもたちは競ってホームランボールを拾いに行きました。その人がコーチになって、もう上手くなった気になっていました。
だったんですが、その人が昔ながらというか、感情に流されやすい人でした。気に食わないことがあると平気で怒鳴り散らす。最初の頃は抑えていたのが徐々に本性を現しました。自分が受けてきたのがそういう指導で、他の指導を知らないのかもしれません。恩師を崇拝し、時代が変わっても教えを信じ、厳しさこそが正義。おしゃべりをしていたこどもに体当たりして転ばせることもありました。エラーをしたこどもに、キャッチボールと称して強い球を投げつけたりとかも。
みんな怯えて顔色を窺うようになりました。体が大きいので、ほかのコーチや保護者も委縮して面と向かって意見できません。父に相談しても歯切れの悪い返事ばかり。チームのムードが悪くなりました。
やがて私とそのコーチの間に溝ができました。叱られた選手をフォローしていたのが気に食わなかったのでしょう。険悪なムードは周りにも伝わりました。
このままでは良くないと、ある日覚悟を決めて練習中のグラウンドで、こどもを怖がらせるのはやめましょうと諫めました。不意を突かれて驚いている様子でした。そうしたらそばにいた保護者の一人が拍手したんです。つられて選手たちも拍手して。それ以来そのコーチは来なくなりました」
「わたしはまだ高校生で、正式なコーチではなく、雑用係のような立場だったのが、ようやく認められた気がしました。正義の味方の気分でした。
だったんですが次の大会で一回戦負けしました。4回で10点差をつけられてコールド負け。何度も対戦したチームで、大敗するような相手ではないのに、エラーやミスが続いての自滅です。緊張が切れてしまったせいもあるでしょうが言い訳です。
その敗戦をきっかけに一部の選手から辞めたコーチの待望論が出始めたんです。もっと教わりたかった。戻ってきて欲しい。上手くなれるなら厳しくてもかまわないと。保護者を通じてコーチ陣に伝わりました。賛同する保護者もいました。
次第に何の実績もない人間が甲子園経験者を追い出したと、私に非難が向けられるようになりました。嫉妬したとか。そのコーチ人に教わる方が上達するのたしかでしょう。私にはなんの実績もありませんから。同じ頃に父が体を壊して監督を退任して風当たりがいっそう強くなり、結局私もチームを辞めました」
淡々と語ったが、この出来事が高校生に与える影響は小さくなく、野球から離れてもおかしくない。
「自分の中で形になりつつあったものを見失いました。自分の未熟さも知りました。それでも少年野球に未練がありましたから、暇を見つけてはグラウンドに通ってチームを見て回りました。
少年野球はチームによってカラーが異なります。監督の色に染まります。昔より良くなったとはいえ、いまでも威張り散らしている監督はたくさんいて、見ていて気の毒になりますし、昔はもっとひどかったのかと唖然とします。
そんな中で見つけたのが、旧態依然の指導を否定する監督が自ら創部した、『野球を楽しむ』をモットーにした創部間もないチームでした。同じ志を抱き、危機感を持って改革に乗り出している人も増えています。反対に、野球は歯を食いしばってするものだと『野球を楽しむ』を逃げ口上ととらえる人もいます。そういう考えもあっていいと思います。結局チームを選ぶのは保護者で、よそのチームにまで口を出せません」
「私はそれまでの経歴を話し、コーチとして加入しました。少年野球のコーチは基本どこもボランティアで、報酬はありません。大学時代もコーチを続けました。決してチームのすべてを肯定したわけではありません。拭いきれない悪習が、まるで方言のように顔を出すことがありました。ですが子供たちが楽しく野球をやっている。それは見ていればわかります。
私が大学4年の時、創部7年にして初めて全国大会出場を果たしました。自分たちのやってきたことが認められた気がしました。
ネガティブな話題ばかりではなく、少年野球は昔に比べて技術は格段に上がっていると思いますし、ピッチャーの球数制限など怪我の予防に対する意識も高まっていると思います。もう一つ、野球人口が減る中、女子選手は増加しています。男子に比べればまだまだですが、希望もあります」
ようやく表情が和んだ。日に焼けた肌にユニホームが良く似合っていた。
「コーチをするうちに新しい夢を見つけました。高校野球の指導です。高校野球に関わってみたいと思うようになり、大学で教職をとりました。卒業後私立高校に着任し、翌年から野球部のコーチを始めました。甲子園出場経験のない、監督が一人で指導していたチームにコーチとして参加させてもらいました。
高校の指導は初めてですし、少年野球をそのまま持ち込む気はなく、私自身一から勉強するつもりでした。ただ初めに、それまでの練習を見て感じた率直な意見を言わせてもらいました。角が立たないよう気を付けたつもりですが、生意気に感じたでしょう。ですが監督は頭ごなしに否定することなく、耳を傾けてくれました。私は監督に恵まれました。
練習時間を短縮したのは自主練の時間を取るためです。選手自身が考えて練習する方が気づきは大きい。代わりにミーティングに時間を割きました。少年野球でも座学を取り入れているチームがありますし、プロ野球でも名将と言われた監督がミーティングを積極的に行っていたことは知られています。私が学んだこと、調べたこと、経験したこと、役に立つと思うことを野球に限らず選手たちに伝えました。練習方法もこれが何に役立つのか、まず説明しました。頭ごなしでは説得力を欠きます。数をこなす必要があることなら、なぜそうなのかわかる範囲で説明しました。野球は理論やデータ、時には運といった様々な要素が絡み合うスポーツですから、ベースにある理屈を知れば理解が深まります。やり方次第でいくらでも伸びしろが見つけられます。
坊主も強制しません。『坊主が嫌だから野球部に入らない』との意見は、覚悟のなさではなく、理不尽な要求への反発ととらえるべきです。
強豪校ではないので野球一筋の選手ばかりではなく、あくまでも部活の一つとして選んだ選手もいて、逆にそれがよかったようで、野球を研究するような雰囲気が生まれ、それが共有されていきました。コーチに就任して5年目に監督が退任することになり、後任に私が指名されました」
「コーチと監督とでは立場が異なります。頭では理解していても実地となると一筋縄ではいきません。厳しい指導は楽でもあって、服従させればコントロールしやすい。理想論では組織をまとめられません。毎日が試行錯誤の連続で、口先だけの監督でいたくはありませんから監督に就任した以上結果を出さなければなりません。
強豪校は練習環境が整っていますし、優秀な中学生をスカウトしてきます。格差があります。そういった溝を埋めるのが私の役目でもありました」
「監督に就任して7年でついにチャンスが訪れました。投打に軸が揃い、予選を勝ち進み、マスコミにも取り上げてもられるようになりました。ですが準決勝に勝利した夜に交通事故に遭い、このようなことになりました。明日は初めての甲子園がかかった決勝戦なのに、選手たちは動揺しているでしょう。注目を集め余計なプレッシャーがかかるかもしれません。普段通りの試合をさせてあげたかった。本当に申し訳ないことをしました」
決勝戦で采配を振るうことは監督にとっても悲願だっただろうが、目前で潰えてしまった。計り知れない悔いが残っただろう。
「私は後悔を晴らして天国へ行くお手伝いをします。誰かに何か、贈りたいものはありますか」
「贈りたいもの」
盆之の問いを反芻するように呟いた。
「何か思い当たるものはありますか」
その言葉に空を見上げて言った。
「きっと明日の結果が誰かへの贈り物になるはずです」
「それが贈り物ですか?」
「そうです」
「わかりました」
明かりを灯したままの提灯が夜を照らしていた。
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