第18話 前夫の心残り 後編

 時刻は夜の7時を回ったところ。駅までの帰路を文香ふみかは一人歩いていた。換えたての蛍光灯のように、街灯がアスファルトをことさら白く照らしている。はじめて降りた駅は、明日の告別式が終われば2度と来ないかもしれない。


 昨夜着信したスマートフォンに表示されたのは、かつての義母・美佐子みさこの名前だった。彼女からの着信はいつ以来か記憶にないが離婚してからは初めてで、落ち着きを失くしたのは何を聞かされるか予想がついたから。メールではなく電話であることもそれを裏付けていた。


 幸成ゆきなりが再婚することになった。それを知らせる電話に違いなかった。自慢したいわけじゃなく隠さず伝えておきたい幸成の性格から、再婚が決まれば真っ先に知らせてくると予想していた。別れた夫が自分より若い女と再婚して父親になる。それはいつか訪れる、自分に課された約束手形のようなもの。電話の主が幸成本人ではないことに若干の違和感を抱きつつ電話に出た。テーブルの上には、レンジで温めたコンビニ弁当。湯呑茶碗から湯気が立っていた。


 くも膜下出血で幸成が急死した、と美佐子が告げた。通夜は明日の18時から。何かあれば追って連絡します、と会場と最寄り駅を手短に伝えて電話を切った。

 美佐子の震える声を初めて聴いた。電話の向こうでうずくまる姿が見えるようだった。



 遺影の幸成はわずかに口角を上げていた。笑顔とはちょっと違う、口元に浮かぶのは優しさ。見慣れた表情だったのに、いつからか曇りがちになってしまった。1年ぶりに再会した前夫は棺の中で眠っていた。


 通夜に参列した文香を、かつての家族は以前と変わりなく迎えた。どう扱えばいいのか持て余しているようでもあったけれど、悪い感情は持っていないようだ。美佐子の視線が手元に向いたのは、再婚の確認だろう。仮にしていたとしてもこの場に指輪は外してくる。すぐに逸らしたのはそれに気づいたからか、ないのを確認したからか。


 幸成は母親想いで、美佐子も一人息子を愛していた。マザコンという依存めいたものではなく、互いに大人として適度な距離を保つ関係はうらやましくもあった。文香との関係も、巷にあふれる嫁姑のそれではなかった。時々家に遊びに来た美佐子は孫を催促することはなかったし、子供を話題にすることもなかった。彼女の優しさだとわかっていたけれど、わかっていたからこそ胸が痛んだ。誰より子供を望んだのは文香自身だった。


 通夜の美佐子は涙を見せず気丈に振舞っていた。黒紋付姿で両手を重ねて静かに腰を折り、弔問客に向かう姿はおくゆかしかった。昨夜の電話が、要件を伝えただけですぐに切れたのは、息子の死を元妻に涙で伝えることを躊躇ったからだと知った。


 元の妻に居座られても遺族も持て余すだけだし、役目を与えられているわけでもないから、文香はそのまま葬儀場をあとにした。振り返っても、誰の視線も向けられてはいなかった。



 白光に照らされて商店街を歩く。平日の帰宅時間なのに人通りがまばら。客引きの女の子が暇を持て余したように携帯電話をいじっている。その割に寂れた風でもなく、店頭の照明は絶え間ない。

 コンビニの前を素通りする。ドラッグストアの店頭で、ラップが切れているのを思い出す。中華料理屋の黄色い看板が妙に古臭い。黒いカバンを背負った自転車が横を通り過ぎて行った。

 カフェがあればコーヒーを飲んで一息吐きたいが、雰囲気的にチェーン店はなさそうと周りを見回すと、ふいに丸いポストが頭に浮かんだ。昔懐かしい円筒形の、元々なのか色褪せたのか赤より朱色のポスト。角を曲がると、そこにいま浮かんだままのポストが置かれていた。


 行きに見て、無意識に刷り込まれていたのか。珍しいから目に入れば記憶に残っていそうなものなのに。首をかしげて歩を進めると、今度は交番が浮かんだ。繁華街にある宝くじ売り場のような小ぶりの交番。道の先にその交番が建っていた。


「この先だよ」耳の奥で声がした。聞き慣れた、けれどしばらく忘れていた声につられて行くと、商店街には場違いに思える赤と黒の外観に、金色の文字で店名が書かれたレストランがあった。


 デジャブのような、でも見覚えがあるような。思いを巡らせた文香にあの日の記憶がよみがえった瞬間、店の扉が開いた。


「村上様、お待ちしておりました」

 中から現れたギャルソンが恭しく出迎えた。不意のことに面食らっている文香に言った。

「西島様からご予約を承っております」


 幸成が予約した?困惑しつつも促されるままギャルソンについて入店し、席に着く。店内を見回して確信した。ここに幸成と来たことがあった。


 結婚する前のこと。2度目の野球観戦の約束をしてチケットを渡された。仕事が片付き次第合流する、といわれて先に仕方なく一人で球場に入ったものの試合が始まっても幸成は来ない。ルールも知らないのに一人で観戦した。

 こんなところに一人にしてナンパされたらどうすんのよ。


 途中スコールのようなにわか雨が降って試合が中断した。慌てて屋根のある売店の方へ移動したけれど、一斉に移動してきた観客でもみくちゃになった。手にしたビニール傘は雨用ではないらしい。デートだからと念入りにセットした髪の毛は台無しだし、洋服が濡れて肌寒い。野球どころじゃなくなった。


 雨が止んで再開したものの終始盛り上がりを欠いたまま試合終了。ふてくされて帰り道を歩いていたところにようやく幸成が現れた。びしょ濡れなのは雨より汗のせいだった。

 急にクライアントから呼び出されて抜け出せなかった、今度必ず埋め合わせするから、と平謝りで、後日連れてこられたのがこの店だった。陶器のようなアンティーク調の壁掛け時計があの日とかわらず時を刻んでいた。


 二人掛けのテーブルに一人。向かいは空席。他のテーブルに何組か客がいたもののみな連れがいて、喪服姿の一人客を気にする様子はない。


「西島、さんが予約したんですか?」グラスに水を注ぐギャルソンに訊ねると「お支払いも西島様がお済ませです」と微笑を浮かべた。針金のような丸い眼鏡をかけた不思議な空気をまとうギャルソンは幸成と面識がある、そんな気がした。



 あの日「ここ高いんじゃないの?」と訊いたら、幸成は「安い店だとお詫びにならないでしょ。明日から当分カップラーメン生活だけど」と笑った。「これで許してくれる?」

「しょうがないから許してあげようかな」

「次何かやらかしたらどうやって謝ればいい?」

「その時はまたここに連れてきて」といったら「約束する」と親指を立ててウインクした。

「なんでノリノリなのよ。謝るようなことしなければいいでしょ」としかめ面を作ったら「もしもの時のため。もし万が一謝りたいことがあった時はまたここに連れてきます」と親指を二つ並べたから呆れつつも笑顔を向け合った。


 10年以上前の出来事で、あの日以来この店に、この駅にも来ることはなく、すっかり忘れていた。たしかあの日は「仕事の後だとまた遅くなるかもしれないから」と土曜日だったのに幸成は黒のスーツだった。ネクタイも黒系統で、店に合わせての正装に加えて、食べ慣れない料理が跳ねても汚れが目立たないための用心、と邪推し、「喪服みたい」と茶化したら、お焼香のジェスチャーをしておどけた。いつもニコニコしているところが幸成の魅力だった。


 幸成もこの店に来るのは初めてで、当時はいまほどインターネットが普及していなかったから、雑誌を見たり人に聞いたりして選んだらしい。幸成のこと、マナーを勉強しようと友達に付き合わせて、他の店で予行演習したかもしれない。


 メインディッシュを前にした幸成が「あなたが舌平目のムニエルですか。お名前はかねがね伺っております」とおどけた。それが変にツボに入り、声に出すのは我慢したけれどクスクス笑いが中々収まらなかった。

「早く食べないと冷めちゃうよ」と言った幸成の得意顔が癪に触り、笑うのを止めて食べようとしたら、皿に向かって「サヨウナラ」とささやいたから、笑いが再発して「変なこと言わないでよ」と笑いをかみ殺したら、「その笑顔が見たかった」と親指と人差し指で四角いフレームを作った。


 楽しかった思い出を、今日まで忘れていた。結婚生活の大半は、時間も、お金も、不妊治療に費やされた。

 もう少し早く不妊治療を始めていれば。いまも後悔がないわけではないけれど、こどものいない幸せもある。そのことにもっと早く気づくべきだった。


 丸眼鏡のギャルソンが文香の前に皿を置いた。メインディッシュはあの日と同じ舌平目のムニエルだった。


「これも西島様からです」ギャルソンがグラスにワインを注いだ。


 あの日と違ったのは幸成がいないのと、もう一つ。さっきまでギャルソンがグラスに注いでいたはワインではなくミネラルウォーターだった。



 妊活を始めた頃「少量なら平気じゃない?妊娠したらダメだけど」グラスに注ごうとした缶ビールを断った文香に幸成が言った。


「だからだよ。いつでも妊娠できる準備をしておきたいの」


 しばらく手の中で遊ばせていた行き場を失くした缶ビールを幸成がトンとテーブルに置いた。

「よし。俺も止める」


「そっちこそ平気でしょ」と言った文香に「俺も準備しておきたいから」と幸成。「願掛けも込めて。いつかその時が来たら二人で乾杯しよう」と親指を立てた。


 離婚後もきっかけがないまま文香はずっと禁酒を続けていた。幸成も同じだったのかもしれない。


 文香はワイングラスに口をつけた。幸成はもういない。

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