第17話 前夫の心残り 前編

 頭上には雲一つない漆黒の空が広がっている。昼間のじめじめした暑さは消え、墓地には肌の熱を冷ます夜風が流れていた。


 墓石の前で半袖のワイシャツがうずくまっていた。折り曲げた膝の間に頭をもたげたままじっと動かない。足元に解けたネクタイが落ちていた。


 盆之の足音がそばまでくるとようやく頭をあげた。涙は見えないが、色のない顔は意志まで失くしたよう。警戒するでもなく、不快感を示すこともなく、男はただぼんやりと黒目を盆之に向けた。


「こんばんは」

 しかし盆之の声が聞こえていないかのように、男はまた項垂れた。現世への後悔を沸騰させる者もいるが、その反対のタイプのようだ。男に視線を落としたまま盆之はしばらく黙ったままでいた。


 ようやく顔をあげた男は、今度は盆之を見上げたまま動かない。小柄なせいで若く見えるが中年というほど老けておらず、働き盛りといった様子。早すぎる死ではあるけれど、それだけを悔いてここにとどまっているわけではなさそうだ。


「あなたはなぜここにいるのかお分かりですか?」


「周りを見ればここがどこだかわかりますからね」

 か細いが、暖かみのある声で返答した。


「天国へ行けず、ここにとどまったままでいるのは大きな後悔を抱えているせいです。心当たりはありますか」


 男はじっと盆之を見つめた。やがて拾ったネクタイを胸のポケットに入れ、すっと立ち上がった。盆之より頭一つ分背が低い。

「たしかに僕には大きな後悔があります。それを晴らそうとしていた矢先に死んでしまったんです」

 死によって後悔が上書きされたということか。

「後悔を晴らして天国へ行くお手伝いをするのが僕の役目です。あなたの話を聞かせていただけませんか」


 暖をとるようにかざした男の白い手のひらが提灯の橙色に染まった。その手を引っ込めてから口を開いた。

「僕は以前結婚していました。妻、元ですが、出会ったのは大学を出て社会人になって2年目。向こうが3つ上です。友達が開いた飲み会に行ったら、そこに彼女がいました。ストレートの黒髪にきりっとした目。少しだけ受け口気味なところも僕のタイプでした。身長は僕より高くて。2センチだけですけど。年上なのはまったく気になりませんでした。

 僕なんて見た目がこうで、安月給のサラリーマンですから相手にされないとわかっていても、彼氏がいないと聞いたので、ダメ元で連絡先を聞いたら教えてくれました。あの頃はまだメールアドレスでした」


 覇気のなかった顔にようやく笑みが浮んだ。


「軽くあしらわれると思ってたんですけど、意外というか、ちゃんとメールを返信してくれました。初めは友達とグルになってからかってるんじゃないかと疑いましたよ。だけどデートに誘ったらOKしてくれて。

 初めてのデートは野球観戦でした。神宮球場のヤクルト対広島。彼女はルールも知らないぐらい野球に興味がなかったのにOKしてくれたので脈ありだと、1塁側の内野指定席を奮発しました。チケットに値段が記載されるので見栄を張って」


 伏し目がちに浮かべる照れ笑いを提灯が照らした。


「下手にルールを教えても押しつけがましくなるので、純粋に投げた打ったとか、球場の雰囲気とかを楽しんでもらえればいいなと。

 9回表を終わってヤクルトが0-1で負けていました。せっかくのデートが負け試合。そんなにうまくいくわけないかと。そしたらまさかサヨナラホームランが飛び出しました。彼女もさすがに興奮していて、勢いにまかせて帰り道で交際を申し込んだらOKしてくれました。向こうも劇的な幕切れに浮かれていたのかもしれません。

 最初はすぐにフラれるんじゃないかと不安でしたけど、なぜか彼女も僕を慕ってくれて、思いのほか順調にいきました。この先の人生で彼女以上の人とは絶対に出会えませんからフラれる前に先手を打とうと、彼女の28歳の誕生日におもいきってプロポーズしたらOKしてくれました」


 幸せに結ばれた二人が変わってしまった、ということか。しかし離婚それ自体は珍しいことではない。


「彼女は元々幼稚園の先生になりたかったそうです。僕もこどもが好きで、二人で理想の家庭像を話しあいました。僕の希望はこどもは二人。上が男の子で下が女の子。一人っ子なのできょうだいに憧れがありました。彼女もこどもは二人は欲しいと。

 いつか息子とキャッチボールをしたい。誰しもそんなことを願うんじゃないですか。男の子が生まれる予感があったんです。絶対に男の子が生まれてくると。待ち遠しくてグローブを買いましたよ。2万円の、軟式では高価なもの。無駄遣いと怒られましたが、毎日オイルを塗って柔らかくして、こどもの頃初めて買ってもらった時のようにわくわくしましたよ。こどもの分は買いません。いつか一緒に買いに行くためです。

 できることなら息子にプロ野球選手になってほしい。それで年間予約席を契約して毎日球場へ行って応援する。昔から年間予約席に憧れがありました。そこで息子の活躍を見るって最高じゃないですか。だからこどもは彼女に似て欲しい。顔はもちろん身長も。僕に似たらプロは厳しいので。

 でも現実にはそこまで望みません。親の希望をこどもに押し付けたくありません。あくまでも願望です。僕の遺伝子を受け継ぐんですから僕の影響も大きいですし、現実はなるようにしかならない。でも想像するだけなら自由でしょ」


 そこまで話すと男はワイシャツの襟元を摘まんだ。ネクタイを外したことを忘れていたのか、そこにあるのを確認するように胸のポケットを叩いた。


「結婚したのは僕が26で彼女が29。すでに晩婚の時代でしたのでとりたてて遅い方ではありません。一人目の子供は2、3年の内にできると、結婚したら子どもはできるものと疑いもしませんでした。妊娠のチャンスは1年に12回しかないなんて知りませんでしたから。

 2回目の結婚記念日に、冗談めかして『二人で祝うのは最後かもね』と言ったら、彼女の表情がすっと冷めたものになりました。ほんの一瞬だけですぐに元に戻りましたけど、それがずっと引っ掛かっていて。3年目の結婚記念日も二人でした。ちゃんとお祝いをしたのは4年目が最後になりました


 こどもはできませんでした。結婚したらこどもはできると思い込んでいた僕自身がこどもでした。父親になりたくて結婚したわけじゃないのに、こどもがいなければ幸せじゃないと、いつからかこどもを作ることが目的になっていました。

 親に孫を見せてやりたいのもありました。催促されたわけじゃないけど、一人っ子ですから僕しか見せてあげられない。少しずつ焦りが出てきて、結婚5年目になって不妊治療を始めました。


 正直に言えば、もう少し早く始めていれば、という思いが全くなかったわけではありません。妊娠は当たり前じゃないと気づくまで時間がかかってしまいました。

 検査の結果不妊の原因は不明でした。それからタイミング法や人工授精といった治療をしたものの妊娠せず、体外受精を3度しました。当時は保険適用外でしたから1回50万円。それを3回。生活は苦しくなりましたけど、それだけこどもが欲しかったんです。


 不妊治療はゴールのないマラソンといわれます。必ず妊娠する保証なんてないのに、次はできるんじゃないか、次こそは、と期待するし、せっかく今までやってきたんだから、とやめるのも後ろ髪をひかれる。継続の判断が自分たち次第である分難しいんです。


 理想の家庭を語り合っていたのに、不妊治療の話ばかりになりました。いがみ合ったわけではありませんし、激しい喧嘩もしていません。いつの間にか結婚生活が幸せではなくなりました。夢を見すぎて、現実を知らなかったんです。

 夫婦を続けていくことに意味を見出せなくなり、僕から離婚を切り出したら、彼女も受け入れてくれました。不妊治療と結婚生活が一緒に終わりました。僕は35歳になっていました。

 すっきりなんてしません。理想の幸せを手に入れられなかった欠乏感。被害者意識すらありました。すぐに再婚を考えたわけではありません。相手もいませんし、先のことを考えての離婚ではありませんでした」


 男はポケットから取り出したネクタイを指先でつまみ、顔の前にかざしてまじまじと見つめた。夜の墓地は風が止み、ネクタイは真っすぐに垂れたまま、提灯が優しく照らした。男はまた丸めてポケットに戻した。


「きっかけは、ネットニュースでした。どんな記事だったか、どんな内容だったかははっきり覚えていません。でもそこに『女性は月の半分は体調が悪い』と書かれていて、自分の中で何かが崩れました。何かが建ったというほうが適切かもしれません。


 僕はこどもの頃から体は丈夫で健康が取り柄でしたし、四十年近くずっと男としてそれが当たり前で生きてきた。それが、その記事を見た時から何かが変わりました。

 女性は、男には計り知れないストレスを抱えて生きていることに気づきました。生理の痛みに毎月襲われていて、それだけでも心身共に大きな負担です。


 何か犯罪が起きると加害者に対して『想像力が足りない』などと言うことがありますが、世の男性はどれほど女性の立場を想像しているでしょうか。男の目線で、男の価値観では気づけないことばかりでした。

 例えばエレベーターで見知らぬ男と二人きりになる。男にはなんでもないことでも女性は不安を感じます。性犯罪の被害者はほとんどが女性で、加害者はほとんどが男性です。女性は男には分からないストレスが付きまとっている。僕も体が小さくて舐められやすいので少しは理解できます。それこそ妊婦やベビーカーが嫌がらせをされるのも相手を見てやってることで、強面の男ならされないことばかりです。


 男であれば好きなだけ酒が飲めます。道で寝ても平気です。でも女性が同じことをしたら犯罪被害に遭う危険があります。男にもあるけれど女性とは比べ物にならないでしょう。しかも加害者はほとんどが男性です。さらには被害者なのに『そんなになるまで酒を飲んだせい』と非難までされます。そしてその中にも多くの男性が含まれます。

 男は好き放題酒を飲めるのに、女性がそれをする犯罪被害に遭い、さらには非難される。これは当然のことでしょうか。性犯罪が起きると、無理やりにでも被害者の落ち度を探す。理不尽極まりない現状をどれほどの男性が理解しているでしょうか。

 僕も今までできていませんでした。女性の立場を考えようともしなかった。自分の未熟さに腹が立ちました。


 彼女は仕事の合間を縫って不妊治療に通っていました。注射や採卵など痛みを伴うものもたくさんあって辛かったはずなのに、僕はきちんと受け止めていなかった。原因は不明だったのに無意識のうちに彼女の責任だと決めつけていました。

 女性なんだから妊娠のために苦労するのは当然と彼女にばかり負担を負わせてしまった。夫婦の問題なのに、彼女が背負うべき義務のようにとらえていたんです。グローブを買ったこともプレッシャーになったと思います。彼女を追い詰める無神経な行動でした。

 子供がいなくても幸せな家庭は築ける。こんな当たり前のことに僕は気づけなかった。全部僕がぶち壊したんです」


「できることなら彼女とやり直したかった。しっかり謝って、いまの僕の気持ちを伝えて、やり直してくれるならやり直したい。彼女は望まないかもしれません。でも許してくれるならもう一度二人で幸せな家庭を築きたい。そう思っていた矢先に死にました。これが僕の後悔です」


 離婚した妻に対するものとそれを晴らせずに死んだこと。二つの後悔を語り終えると男は足元をふらつかせて、墓石に手をついた。 


「先ほどもいったように後悔を晴らして天国へ行くお手伝いをするのが僕の役目です。あなたに代わって僕が誰かに何か贈り物をします」


「贈り物?」

 男が前のめりに言った。

「心当たりがおありのようですね」


「喜んでくれるかわかりませんが、せめてもの僕の気持ちは伝えられるはずです」

 男は盆之と天国へ行く約束をして、提灯を吹き消した。

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