第21話 男の悔恨 前編

 空は黒く濁っていた。風のない夜更は蒸し、暑さに強い盆之の肌もベタついていた。遠くで鳴った風鈴は空耳だろうか。どこかで見かけた金魚柄の扇子、三匹の金魚がそれぞれ違う方向へ泳ぐあの絵をどこで見たのか、記憶を手繰りつつ夜を散策した。


 闇に浮かぶ下弦の月に似たそれは、墓前に佇む男の頭を覆うバンダナだった。盆乃に気づいたものの男は何も言わずに出方を待った。黄色のバンダナに緑のエプロンの派手な身なり。その割りにバンダナの下はグレーに染まり、相応の年と分かる。ただし髭はきれいに剃られ、エプロンも下に着た白のボタンシャツも洗濯したてのよう。地べたに座わらないのはズボンを汚さないためか。


「こんばんは」

 盆乃が声をかけると「こんばんは」と返した。年を感じさせるいくらかかすれた声も角のない、柔らかな話し口だった。盆乃の風体になにか察したのか「星が見えませんね」と視線を空にやった。


「冬はいくつも瞬いているんですが」

 盆乃も空を見上げた。


「代わりに夏は虫の声が聴けますよ」

 言って空気を吸いむように耳を澄ました男に盆之も倣った。虫たちに蛙が参加する合奏は、騒がしいようで心地良く風を揺らす音色が耳に届いた。


「素敵な時計ですね」

 盆乃が首にさげた懐中時計の文字盤が男の方を向いていた。


「祖父から貰ったものです」

 形見とは言わなかった。男は腕時計をしていなかった。


「なにか私にご用のようですが」男は言うと返事を待たずに続けた。「『黄泉の国への案内人』といったところでしょうか?」


 図星をつかれた格好で「そんなところです」と答えた盆之を柔らかい風が通り抜け木の葉を揺らした。「あなたはなにか大きな後悔を抱えているようですが」


「後悔だらけの人生です」といってから「でした」といいなおした。

「やり直せるものならやり直したい。数年来ずっと胸に抱いて生きてきました」


 年を重ねて人生を振り返り、過ちに苛まれたというところか。多くの人は過ちと向き合おうとしないか、もっともらしい言い訳で肯定する。後悔は敗北であるかのように。

「よかったらお話しいただけますか」

 己の過ちを告白するのは勇気が要ること。盆之も承知している。


「どこから話せばいいのやら。なにせどこを見ても見晴らしが悪いものですから」とバンダナ越しに頭をかいた。その割に口調は穏やかで、誰かに打ち明けたかったのかもしれない。

「私が大学を出て就職したのはバブルが始まる前、誰もが知るマスコミ系企業の社員食堂の調理担当でした。しばらくして空前の好景気を迎え、あの頃はどこもそうでしょうが、マスコミは特に浮かれていました。舞い上がっていたという方がいいでしょう。調理場にもその空気が伝わり、自分も祭りの輪に加わった気分で浮足立っていました」


 エプロンは緑で頭には黄のバンダナ。大手企業の社員食堂には不相応に見える。


「当時は体育会系が幅を利かせていました。厳しいのが当たり前で職場は怒声が飛び交ってなんぼ、どれだけ遮二無二に働くか、睡眠不足が自慢で無茶をしなければ仕事じゃない、そんな時代で、目の前ではそれを絵にかいたような光景が繰り広げられていました。私も新人の頃は厳しく指導されました。殴られたりもしましたが、そういうものと受け止めていました」


「経験を積むうちに自信がつきました。ついたつもりでした。部下ができると偉くなった気になるんです。いまから思えばただの錯覚、思い上がりです。自分で言うのもなんですが、元々手際がよく仕事のできる方でしたから余計に拍車がかかりました。食器の並びが少し乱れているだけで怒鳴り散らしたり、わずかな焦げ目があるだけで作り直させたり、せっかく作った料理を投げつけたこともあります。やってることはただの粗探し、威張る機会を探していたにすぎません。ペコペコ頭を下げる相手には殊更強く当たりました。そのせいで辞める人間がいても、性根が足りないからだと反省もしませんでした。

 時には上司に歯向いもしましたよ。ただそれも、上にも物が言える、下にだけ厳しいわけじゃない、そういう自己肯定のパフォーマンス、自分の鼻を高く見せるためのものでしかありませんでした」


 目の前の男は表情も口調も穏やかで、その頃の面影はなかった。


「自信は自分を支えてくれる精神安定剤です。ですが過信はいけません。他人を見下してしまう。過信と思いやりは両立しません。何年も後になってようやく気づけたことで、当時は自覚できませんでした。他人を嘲り、けなし。暴力こそ振るいませんでしたが、そっちの方が傷は大きかったかもしれません。

 そのせいでだんだん自分のもとを人が去っていきました。残ったのは私のちょっかいに付き合ってくれる部下だけ。それも嫌々付き合っていただけで、私は裸の王様でした。それでも自分を省みることはありませんでした。

 酒を節制することもなく、タバコも1日二箱も三箱も吸っていました。止めて数年たちますが、体はずっと音を上げていたのでしょう。運動もろくにしませんでしたし。それでこんなことになってしまったわけです」


 真っすぐ見つめる視線は、非難されるのを望んでいるように盆之に映った。


「結婚生活も長続きしませんでした。私の親父も場外馬券売り場に足繫く通っていましたから、ギャンブル好きの血を受け継いだのでしょう。パチンコ、競馬、賭け麻雀、最後は株に手を出しました。バブルの絶頂期に甘い誘いに乗っかり、それまでの負けをチャラにしようと、妻に内緒で借金をして新規公開株を購入しました。すぐに何倍にもなると言われ、金持ちになった気でいましたよ。実際当時は濡れ手で粟で大金を得ている人が大勢いましたから、そこに未来の自分を見ていました。

 でしたがバブルが崩壊。株は暴落して借金は最終的に2000万まで膨らみ、妻に愛想を尽かされました。当然です。長いこと借金漬けの日々を送り、どうにか完済できましたが、家でも建てたのならまだしも株やギャンブルで作った借金の返済に生きるのは空しいものです」


 虫と蛙の合奏がボリュームを上げた。そう聴こえたのは男のトーンが萎んだせいだった。


「定年退職して一人になると、過去を振り返るようになりました。頭に浮かんでくると言った方が適切でしょうか。それまでは時代が良くなかったとか運が悪かったと自分に言い聞かせていました。それが、いまになって罪悪感に締め付けられるようになりました。たくさんの人を傷つけてしまった。なんと愚かな人生をおくってきたのか。もっと誠実に、堅実に生きればよかった。できることなら人生をやり直したい。目が覚めたら学生時代にタイムスリップしている、そんなことを布団の中で何度となく願いました。年をとったいい大人がです。現実におこるわけありませんに。本当に情けない話です」

 そういって浮かべた微笑は自分自身への嘲笑だった。盆之はそれに付き合わなかった。


「まだまだ人生先は長いと思っていましたので定食屋で働き始めました。店長夫妻とパートさんでまかなう町の定食屋で、店長が足を悪くして毎日厨房に立つのがつらくなり、ちょうど代わりを探していたところでした。かつて働いた社員食堂のような華やかさはありませんでしたがアットホームな店で、こんなおじさんでも温かく迎えてくれました。店長も奥さんも私とそう年齢は変わらないのに出来た人で、自分もこう年を取るべきだったと。自分には優しくされる資格はないのではないかと、また後悔に襲われました。自分の責任ですから背負うしかありません。調理の仕事は慣れていますから、年を取っているとはいえ、こなすことができましたが、謙虚さを忘れないよう心掛けました。間違いだらけの人生からどうにか学んだ教訓です」


「職場に慣れてくると趣味を見つけたくなりました。友達もいない、趣味もない、再就職したとはいえ同じ調理の仕事ですから、このまま年を重ねたらボケてしまうのではないかと。独り身でそんなことになったら目も当てられませんから何か新しい刺激を受けたいと考えるようになりました。

 美大の講師を務めた方の絵画教室が自宅近くにあるのを見つけて通い始めました。絵を描くのは美術部だった高校以来でした。講師は私より年下でしたが、こんな私にも優しく丁寧に教えてくれました。皮肉な話です。私は人に助けられ、教えられました。絵描いていると時間が経つのが早く、しばらく使っていなかった右脳が刺激されボケ防止にもなりそうだと、ようやく趣味らしいものと出会えました。

 教室に何人か小学生が通っていました。こどもたちが絵を描く姿は真剣で可愛らしくもあります。その子たちが、父の日に贈る似顔絵を描いているのを見たんです。写真を見てではなく記憶を頼りに描くのがテーマで、みんなお父さんの顔を思い出しては画用紙に向かいました。記憶は不確かなものですから毎日見ていても簡単ではありませんが、ふと顔いっぱいに笑みを浮かべた子がいたんです。何か楽しい出来事を思い出したのでしょう。それだけで親子の関係が見えるようでした。私も真面目に生きていれば父親になり、似顔絵をプレゼントされたかもしれません。また一つ後悔が増えました」


 黄色のバンダナの下に浮かんだ寂し気な表情は、首を横に振るとどこかへ去った。


「社会貢献ってものを自分にもできるならしたい。そんなことを考えるようになりました。罪滅ぼしになるとは思いません、人生には減点もあります。いくらかでもマシな人間になりたい。そんな考えから思いついたのが、こども食堂でした。私の唯一といっていい取り柄の料理をいかせます。店長と奥さんに相談すると快く応じてくれました。人間年をとると似た想いを抱くものかもしれませんね」


「『小出こいで食堂』をその日だけ『おいで食堂』に衣替えして、こども食堂を開店しました。食事に困っている子もそうじゃない子にも無料で振る舞う。私もいつも以上に腕を振るいました。こどもの好きな唐揚げやカレー、ハンバーグ、栄養を考えて野菜も添えました。予想以上にたくさんのこどもが集まりました。最近のこどもは小食、なんてどこへやらで、みんな美味しそうに食べてくれましたよ。食べる前より血色がよくなったように見え、店内には笑顔が溢れました。子供は騒がしいぐらいでちょうどいいんです。やってよかった。心の底から思いました。

 2回、3回と続けつつ小出食堂のメニューに『こどもセット』が加わりました。いつ来てもこどもは定食が300円。これも好評で毎日とぎれることはありませんでした。それだけ食事に困っていた子がいたのかと複雑な思いも抱きましたが、お腹いっぱい食べるこどもを見ることは私の喜びで、私自身こどもたちに救われました」


 エプロンとバンダナの謎が解けた。


「いま学校は、給食のない夏休みです。『こども食堂』や『こどもセット』を必要とするこどもがたくさんいます。店長と奥さんと、他にもパートスタッフがいますから大丈夫だとは思いますが」


 店長は足を悪くしたと言った。代わりのスタッフの手配は容易でなく、業務への支障はさけられない。それがこどもに及ぶことを危惧しているようだ。


「夏祭りの準備もしていました。焼きそば、フランクフルト、かき氷といったメニューと、ヨーヨー釣りなんかのゲームを用意して。すでに店内には告知のポスターも貼り出していましたから楽しみにしていた子もいたでしょう。無事に開催されるといいのですが」

 残念そうな言葉とは裏腹に男の表情が緩んだように見えた。その意味をはかりかねた盆之に「ポスターは私が描いたんです」とはにかんだ。


「後悔を晴らすお手伝いをするのが私の役目です。あなたに代わって誰かに何か贈り物をします。ご希望はありますか?」


「贈り物?届けていただけるんですか?」

 返事が早いのは心当たりがあるから。


「責任をもってお届けします」


「私からのわずかばかりの置き土産です」

 告げると男はろうそくを吹き消した。

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