第15話 母親の懺悔 前編

 吐いた息が白く浮かんですぐに消えた。昼間でも参拝客が途絶えがちな12月の墓地は、夜が更けると墓石の芯まで凍らせそうな冷気に包まれる。草履の爪先が締め付けるように痛んだ。


 墓前に佇んでいるのは女性だった。老人というほど老いては見えないが、中年は過ぎている。顔に浮かぶ石鹸では落ちない疲労感。着古されたブラウス。線は細い。重ねた苦労のせいで実年齢より上に見える、そういうタイプと盆之胡瓜は見当をつけた。何度となく吐いたであろうため息が聴こえてきそうだった。


「こんばんは」

 他に適当な言葉を見つけられずに盆之が声を掛けた。


 不意に現れた男に、女性はとりあえずといった様子で、深くも浅くもない会釈をした。ついでに足先から観察するように見上げたが、胸から上はさっと一瞥しただけで済ませた。年相応の分別のある大人のようだ。


「あなたはなぜここにいるかご存知ですか?」

 盆之の問いかけに

「私は死んだんですね」

 女性は表情を変えずに言った。突発的なものではなく、闘病の末の死か。覚悟はできていたようだが、その死をすんなり受け入れられていたら、この場にいない。


「あなたは亡くなりました。ですが天国へ行けずにここに留まったままでいるのは大きな後悔を抱えているからです」


 年齢に似つかわしくない動揺が顔に表れた。口元に触れた、シミの目立つ手の甲は顔より老けて見えたが、結婚指輪はなかった。


「僕は後悔を晴らして天国へ行くお手伝いをしています。よかったらあなたの話を聞かせていただけませんか」


「私は子供を捨てました」

 その言葉で提灯の明かりが上下に揺れた。揺れが落ち着くのを待たずに続けた。

「まだ小さかった子供と夫を捨てて駆け落ちしたんです」


「結婚したのは二十五の時でした。結婚願望はなかったのですが、妊娠しました。相手の男性は、付き合い始めたばかりということにしていましたが、実際は正式に付き合う前でした。私はよく知りもしない相手の子供を身籠ったんです。

 そんな彼でも、ほかのことには真面目なところがありましたから、妊娠を伝えるとプロポーズされ、籍を入れました」


 若き日の話をしているせいか、さっきよりいくらか若やいで見えた。見た目より澄んだ声。小ぶりの顔に切れ長の目、若い頃は評判の器量だっただろう。


「私は幸せを装いました。ですが元々結婚願望はなく、子供好きでもありませんでした。結婚に向いていない自覚があったのに、逃れられない状況に追いつめられて結婚したんです。心の奥に、わだかまりがぼんやり灯ったままでした。


 生まれた子供は夫によく似た男の子でした。自分の子ですから可愛くもありましたが、夫に対するわだかまりは消えずじまい。まだ若かった私は、その先の人生への不安を上手く処理できませんでした。


 夫は役所勤めの公務員で、3人で生活するのに困ることはありませんでした。ですが、息子が幼稚園に入ると私は働きに出ました。相談せずに決めたので夫は憤っていましたが、なぜ相談しなければいけないのでしょう。夫との生活を窮屈に感じたのも働きに出た一因でした。


 自宅から電車で20分ほどの所にある定食屋のホール係です。12時台は忙しくても、他の時間帯は比較的落ち着いていて、程よくやりがいが感じられましたし、アットホームな職場で、仕事中は嫌なことを忘れられました。2時までの勤務で、幼稚園のお迎えにも丁度よかったんです」


 女性の頬が微かに強張ったのを盆之は見逃さなかった。思わず提灯を向けそうになった手を止めた。


「毎日1時過ぎに来店するお客さんがいました。私より少し大人の男性で、のちに5歳上と分かりました。注文を取りに行くと『おすすめは?』と訊かれたり、『暖かくなりましたね』とか、隙を見つけては話しかけてきたので、私に気があるのだと気づきました。勤め人風なのに服装がラフだったり、立ち振る舞いがこなれていたり、何をしている人か、私も興味を持ちました。


 次第に住んでいる所や趣味などプライベートなことを訊かれるようになりました。仕事中は結婚指輪を外していたので、独身と思われたようです。ある日渡された名刺の裏に電話番号が書いてありました。携帯電話のない時代ですので家の電話番号です。


 彼は店の近くの出版社に勤める旅行雑誌の編集者でした。テレビコマーシャルも流れている人気雑誌でしたから、急に彼が有名人のように思えて舞い上がりました。その日の夜、買い物に行くと嘘を吐いて家を抜け出し、公衆電話に駆け込みました」


 初めて二人きりで会った日に関係を持った。それからは夫には友達に会うと嘘を吐き、幼稚園のお迎えを遅らせ、逢瀬を重ねた。旅行雑誌の編集者だけあって美味しいレストランや穴場のスポットをたくさん知っていた。当時はバブル景気の真っ只中で何をしても楽しかった。しかし思い出を語る女性の表情は硬いままだった。


「結婚して子供がいると打ち明けたのは付き合い始めて3か月ほどしてからでしたが、彼は感づいていて、それに私も気づいていました。電話をかけるのはいつも私から。夜は帰らなければいけなかったりと不自然なことばかりでしたから。

 私の告白に触発されたように、突然彼は会社を辞めて沖縄で水中カメラマンになると言い出しました。沖縄の美しさに魅了され、度々訪れてはダイビングを楽しんでいる。海の生物の撮影を仕事にしたいと前々から望んでいたと。

 それで、私に付いてきてほしいと言いました。フリーのカメラマンとして成功するのは簡単ではありませんが、当時は空前の好景気でしたし、仕事柄ツテもある、しばらく生活する蓄えもある、絶対に苦労はかけないから二人で沖縄で暮らそうと。

 映像でしか見たことのない青い空と海を思い浮かべただけで窮屈な家庭から解放され、そこが楽園のように思えて、沖縄について行くことに決めました。子供と夫を捨てることに勿論抵抗はありました。私は夫に人生を狂わされた被害者だと思っていましたので、これは私に許された権利だと言い聞かせました。恥ずかしい話ですが、当時流行っていた恋愛ドラマに感化され、ヒロイン気分もありました。署名した離婚届と書置きを残し、私は家を出ました」


「捨てる」という刺激的な表現を敢えて使うことで、責任を一身に背負おうとしているように盆之には思えた。日本中が浮かれていたバブル景気、その波に飲み込まれてしまったようだ。


「古い映画ですが『卒業』をご覧になったことはありますか?」


 彼女の問いに盆之は首を振った。


「花嫁を連れ去るラストシーンが有名な映画です。教会を抜け出しバスに乗った二人は初めこそ笑顔でしたが、たちどころに冷めていく。そこで映画が終わります。

 私たちも、沖縄に向かって出発した時がピークでした。いざ生活を始めると夢から醒め、ジェットコースターを降りたように足元がおぼつかなくなりました。

 そこへバブルが崩壊しました。彼の計画はことごとく頓挫し、貯金も底をついて借金が膨らんでいきました。楽園のはずが幸せはどこにもありませんでした」


 駆け落ちして幸せになる確率はどれくらいだろう。盆之が思い浮かべたのは半円よりずっと小さな扇型だった。


「結婚を隠していたからこんなことになった、唆された被害者だと彼は私に当たりました。私にしたら彼の方こそ誤った道へ手を引いた悪魔でしたが、彼は酒に逃げ、暴力を振るうようになりました。初めこそ抵抗したものの腕力でかなうはずもなく、一方的に殴られるようになりました。髪の毛を引っ張られ、顔を殴られ、うずくまると頭を蹴飛ばされました。両手で首を絞められた時の目付きには殺意すら見えました。家庭を捨てた身でしたから110番通報は躊躇われ、痣を化粧や髪の毛で隠して耐えました。


 やがて我慢も限界に達し、結局籍を入れることもなく、2年で沖縄の生活は終わりました。彼の居ない時間を見計らってアパートから逃げ出しました。私はまた同じことを繰り返したんです」


 家族を捨てて辿り着いた場所は楽園ではなかった。不運で片付けられることでないのは、彼女自身がよく理解していた。


「帰るところのない私は、旅館で住み込みで働き始めました。旅行雑誌の編集者と別れたあとで皮肉めいていましたが、住むところのない私に選択の余地はありません。

 幸い職場の運には恵まれ、ここも親切な方が多く、仕事に慣れると落ち着いた生活を取り戻すことができました。空いた時間を一人で過ごすのは結婚してから初めてで、ようやく自由を手にした気分でした」


 しかし言葉とは裏腹に、表情は沈んだままだった。


「隙間ができたからでしょうか、ふとした瞬間に悪い記憶が頭を過るようになったんです。

 何気ない刺激が呼び水となって過去の記憶が蘇ってくる。他人にされたことではなく自分の犯した過ちです。どうしてあんなことをしてしまったんだろう、あんなことを言ってしまったんだろう。駆け落ちのことだけでなく、子供の頃のこととか学生時代のことまでもです。

 いつ始まったのか、何がきっかけか、何も分からないまま、ひたすら自己嫌悪に襲われるようになりました」


「私は元々記憶力のいい方で子供の頃の事をよく覚えているのですが、友だちにした悪戯とか軽はずみな言動とか、何十年も前のことを思い出して強烈な後悔に襲われました。たわいない出来事が今になって悪事に変わることもありました。

 投げた矢が自分の胸に突き刺さるように、過去の自分に苦しめられるんです。ストレスに耐えられず、周りに人がいなければ叫び声をあげることもありました。


 分からない人には理解できないかもしれませんが、私もよく分かりません。でも頭に浮かんでくるんです。ふとした瞬間に、毎日繰り返し繰り返し。自分のことなのに自分ではどうにもできない。逃げ場がないんです」


 握った手の指の山で、しかめた顔のこめかみを何度も叩いた。フラッシュバックに襲われた時の儀式のようだ。


「一番の後悔は息子に対してです。幼い息子を叱ったことが今になって胸を締め付ける。叱る資格などない母親だったのに」


 親が子をしかる。至極当然のことまで後悔している。彼女が抱えていたものの深刻さがうかがえた。


「あの日、最後に見た息子の顔は、子どもらしい疑うことのない無垢な顔でした。私は息子が夫と出かけるのを見送り、手早く支度を済ませました。その時は家を出ることで頭がいっぱいだったのに、あとになって息子の顔が浮かんでくるようになりました。帰宅した家に母親がいない。どれほど悲しかったか。思い返すといたたまれなくなくなります。本当に最低の母親です」


 彼女は何かを振り払うように頭を振り、さっきより早く強くこめかみを打った。盆之は目も当てられなかった。


「彼のせいにしていた時期もありましたが、私は自分の意志で子供と夫を捨てたんです。悪いのは私です。自分さえしっかりしていたらこんななことにはならなかった。

 元の生活に戻ることは望みませんでした。その資格はありません。謝罪して済むものではなく、許してほしいなどとは口が裂けても言えません。自分の罪を背負って生きて行く。それがせめてもの罪滅ぼしです。

 私に好意を向けてくれる方もいましたが、全てお断りしました。私は幸せにはなれない。その芽を摘んだのは自分です」


 胸に溜まっていたものを吐き出したせいか、不安定だった表情がいくらか落ち着きを取り戻した。ようやく盆之が口を開いた。

「先ほど言ったようにあなたの後悔を晴らして天国へ行くお手伝いをするのが僕の役目です。あなたの代わりに、生きている人に贈り物をします。何か希望はありますか」


「贈り物、ですか?」


「誰かに何か贈りたいものがありますか?」


 いくらかの沈黙が流れた後、彼女が口を開いた。


「私は二度と帰らないと覚悟を決めて家を出ました。私の痕跡を残さないよう衣類や下着、寝巻まで手当たり次第処分しました。私が写った写真も一枚残らず捨て、僅かな荷物だけ鞄に詰めて家を出ました。


 沖縄に到着して、日記帳を開いたんです。印象的な出来事を日記に記す習慣がありました。ただこの時はこの日のことを書き残そうとしたわけではなく、荷物を整理していてふと手にしただけでした。そうしたら一番新しいページに写真が挟まっていたんです。息子と夫がうつった写真。撮ったのは私でした。


 出発の数日前、最後に、と意図したわけではなく、衝動的にカメラを取り、息子を抱っこした夫を撮りました。その写真が日記に挟まっていたんです。フィルムカメラなので現像が必要なはずのに。誰が現像したのか誰が挟んだのか。訳が分からずとっさに閉じました。それきり沖縄にいる間は開くことはありませんでした」


「沖縄から逃げ出した日に再び日記を開きました。そこに息子と夫の笑顔が並んでいました。

 救われた気がしました。孤独だった私が、味方と出会えたようでした。生きる希望までもらえたような。あの写真がなかったら、私の人生はあそこで終わっていたかもしれません。それからも時々は日記を開いては二人の笑顔に癒されました」


 捨てた家族に彼女は救われた。


「でしたが、先程話した症状が出始めると、写真を見ることに罪の意識を抱くようになりました。都合よく利用しているようで、それまでのことまで申し訳なく思いました。この写真は私が持っていてはいけないとずっと思い続けていました」


 そこまでいって女性は口をつぐんだ。こめかみを叩きはせず、眼前の闇に細く長い息を吐いた。


「その写真を息子さんに渡したいと」

 続きを代弁した盆之に、女性は頷いた。息子に対する後悔、彼女にとって写真がその象徴だった。


「わかりました。その写真を必ず息子さんにお届けします」


 提灯をかざすと彼女の顔が橙色に染まった。天国へ行く約束をして、ろうそくを吹き消した。

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