第14話 少年の慕情 後編

 手のひらをひさしにして空を見上げた。十五歳でこの世を去った一人息子・聡一そういち初月忌はつがっき(初めての月命日)は、五月晴れが遠くの先まで薄まることなく広がっていた。


 聡一は病室の窓から空を眺めるのが好きだった。ベッドのすぐ横に大きな窓があって、読書に一区切りつけると本を閉じて視線を窓外に向けた。神様が心臓の弱い聡一を不憫に思ったわけでもなかろうが視力は良く、ベッドから体を起こせば、3階の窓から遠くの空が見渡せた。


「空の旬は5月だよ」

 それが聡一の出した結論だった。

「5月が1年で一番空が青くて雲が白いんだ。果てしなく青空が続いてるような気になる。夏も悪くないけど、蒸し暑いし眩しすぎるんだよね、そこが減点。5月は緑もきれいで、視覚効果かな、匂いはないのに何か匂いがするような錯覚を起こすんだ。全部ひっくるめて5月が一番好きだよ」

 言った聡一の横顔を窓から吹く五月の風が撫でていった。


 母の芳美よしみはいつも息子の話に真摯に耳を傾けた。身体さえ丈夫なら友だちと肩を寄せ合いとりとめもないことを飽きずに語り合う年頃。体内に生まれた衝動を吐き出さずにいられないのだろう。感想が欲しい時は訊いてくるから、それ以外は邪魔をしないよう相づちを打って話を聴いた。


「大昔の人間は、夜空の星を眺めて星座を作った。電灯のなかった昔は夜は真っ暗で他にすることがないから、想像を膨らませて星を繋げて遊んだんだろうね。それだけでは飽き足らず物語までつくったりして。その星座が今も変わることなく夜空に広がってる。何世紀も経って、時代が変わって、地球上の人間も動物も総入れ替えされて、戦争が起きて、終わって、新しい国ができて、人類が宇宙へ行っても、夜空の星は変わってないんだよ」

 一息に話すと、酸素を補充するように胸いっぱいに空気を吸い込んだ。


「昼の空は変わったのかな、変わってないのかな。昔は排気ガスもなかったから空気がきれいな分、今よりもっと青かったのかもね。あと何回この空を見れるのかなぁ」

 聡一がぽつりと漏らしたのは去年の5月の終わり頃、この年最後の5月の晴れた日だった。頬が強張るのが分かって芳美は悟られないよう視線を合わせなかった。励ましの言葉は肯定になってしまいそうだから聞き流したが、安心させる言葉を掛けるべきだったと、後悔が胸の重しになった。


 あれから1年経たずに、聡一は5月を前に、心臓発作を起こして急死した。


 ベランダで青天に目を細めていた芳美だったが、ふと視線を落とした舗道に日傘を差した人を見つけて、なんだかもどかしい気持ちになって布団を取り込み室内に戻った。


 まだ納骨も済んでおらず、初月忌といっても法要はない。夫のつとむは休日出勤で、その方が気が紛れる、と言っていたが、頭には白い物が増えて見えた。お互い様かもしれない。


 芳美はせめてもと掃除に勤しんだ。玄関から始まって、リビングにトイレ、風呂場まで。暮れの大掃除から半年経っていないが、カーテンも外して洗った。好天だからあっという間に乾き、窓に掛けると日差しが白くなった。


 必要ないと分かっていても、芳美はノックしてから聡一の部屋を開けた。フローリングの六畳間に、勉強机、ベッドに本棚、床には空気清浄機が置かれている。入院生活が長く、限られた設備しかない部屋の壁には新品と見紛う学生服が掛けてある。入室する度気配を感じるのはこのせいだった。


 中学生にもなると男の子の部屋は男臭くなると聞くが、この部屋にそういう臭いがしないのは空気清浄機のせいではなかった。


 "気を付け"をしているみたいに聡一は規則正しく本を棚に並べた。著者ごとではなく、表紙の色味や高さを揃え、文庫は文庫でまとめてある。勉強机に落書きはなく、消しゴムのカスも落ちていない。机上のデジタル時計は電波式で、主の居なくなった部屋で正確な時を刻み続けていた。


 芳美は本棚の中の一冊を手に取った。聡一は読了した印に、しおりを巻末に挟む習慣があって、他はみんなそうしてあるのに、これだけ真ん中あたりに挟まれたまま。この本は芳美が選んでプレゼントしたものだった。大抵の本は完読した聡一が、よほど好みに合わなかったのか。続きが読まれることのないしおりをそのままにして本棚に戻した。


 ふと隣に視線を移すと壁にかかったカレンダーが5月のものに変わっていた。自分が変えたんだっけ?と思い返しても、芳美には4月の分を切り取った記憶はなかった。

 まっ青な空に真っ白な飛行機雲が伸びていた。エンジン音が聴こえてきそうな、気持のいい、いかにも聡一好みの写真が掲げられた5月のカレンダーは、今日の日付に赤い丸印がついていた。忘れていたわけではないけれど、意識を向けないようにしていた。聡一の初月忌は母の日だった。


 聡一は幼い頃から毎年、折り紙のカーネーションをプレゼントしてくれた。一つずつ日付を入れて大切に取ってある。年齢を重ねるごとに上手に、凝ったものになったから、日付を見なくてもいつのものか見分けがつく。

 一昨年もらったのは折り紙よりペーパークラフトに近い、緑色の茎まで本物そっくりなカーネーション。見事な出来栄えに「本物みたい」とまじまじと眺めていたら「実はそれ本物だよ。匂いするでしょ」と真顔で言われ、つられて鼻先に近づけたら「うっそー」とおどけた。信じたわけではなかったけれど、確かによくできていた。

 去年くれた真っ赤なカーネーションを輪に並べたリースは、バカラグラスをどかして、食器棚のガラス戸の中に飾った。ただし3日だけ。宝物は大切に保管しないと、破損したり色褪せたりしてしまう。


「年々ハードル上がって、ちょっとプレッシャーがあるんだけどね」ぼそっと言った聡一に「なんでもいいのよ。気持ちが嬉しいんだから」と答えた。


 花だけのもの、花束になったもの、気持ちを込めて折ってくれた全てが宝物だった。毎年サイズに合った入れ物を探すのも楽しみで、去年貰ったリースはプリザードフラワー用の額縁型のボックスに保管した。サイズも茶色の木目調のデザインもリースにぴったりだった。

「中身より箱の方が豪華じゃん」

 聡一が笑っていたのが昨日のことのように思い出された。


 芳美ははっと思いついて、聡一の部屋を出た。閉めたドアの風圧でカレンダーが揺れた。


 十五歳の誕生日プレゼントに何が欲しいか訊いたら聡一は「本の形をした小物入れ」と答えた。何かで見掛けて気になっていたらしい。知識としてはあった芳美も現物を見たことはなかった。

 さっそく雑貨屋を回って物色した。最初に見つけたのはいかにも安物で実際値段も安く、誕生日プレゼントにはふさわしくなかった。商品名が"ブックボックス"だと分かった。

 ようやく見つけたのは白の表紙に中古加工が施されたブックボックス。英語のようで違う謎の文字の羅列はまるで魔法の教科書のよう。表紙をめくると中が小物入れになっていて、いたずらしている気分にさせられた。

 中身が空では寂しいから本を入れてプレゼントしたら、「マトリョーシカみたい」と喜んでくれた。それがさっき見たしおりが途中の本だった。


 そのブックボックスをしばらく見ていない。芳美はいまのいままで存在を忘れていた。どこに行ったのだろう、捨てるわけはないが。


 もしかして。芳美は折り紙のカーネーションがまとめて保管してある寝室の押し入れを開けた。


 どうせ何もない。現実はそういうもの。


 高鳴る胸を押し止めるよう自分に言い聞かせながら、押し入れの中の収納ケースを開くと、一番上に白いブックボックスが乗っかっていた。他のものと同様に付箋が貼られ、見覚えのある字で今日の日付が記入されている。


 芳美はそっと畳の上に下ろして表紙をめくった。中には、透明のビニールでラッピングされ、赤いリボンが結ばれた折り紙のカーネーションが一輪入っていた。いままで一番きれいだけれど、いままでもらったどれとも異なる、青いカーネーションだった。


「年々ハードル上がって、ちょっとプレッシャーがあるんだけどね」

 去年の母の日に聡一が言った。毎年工夫を凝らしたものをプレゼントしてくれた。

「調べたら、カーネーションって赤が定番だけど他にも色んな色があって、花言葉も色ごとに違うんだよね」


 どんな花言葉があるのか訊ねると、聡一は「覚えてない」と言った。


 何かしらの発見があったはずなのに覚えてないとはぐらかしたのが引かかって調べてみたら、カーネーション共通の花言葉は『無垢で深い愛』。赤いカーネーションは『母への愛』だった。覚えてないと言ったのは照れ臭いからだと知った。


 ピンクや白、黄色など花言葉はそれぞれで、同じ色でも複数あるものもあった。

 中でも青が芳美の胸に刻まれたのは、聡一が好きな色だったのと、花言葉が一つだけだったから。

 近年品種開発により誕生したという青いカーネーションの花言葉は『永遠の幸福』だった。



 去年の5月、母の日から数日して聡一が「あと何回この空を見れるのかなぁ」と言った。普段は健気に振舞っていても、胸には消せない不安を抱えている。それがつい口に出てしまったようだった。

 それなのに何の言葉もかけてやれなかった。芳美は己の無力を痛感したばかりでなく、病気の身体に産んだことへの罪悪感にも苛まれ、抑えきれずに涙が溢れた。


「お母さんのせいじゃないよ」

 聡一は優しく言ってくれた。


「お母さんのせいよ」


「違うって。謝らないでよ」


「お母さんのせいなのよ」


「僕はお母さんの子どもでよかったと思ってるんだけど、お母さんは僕を産んだこと後悔してるの?」


 芳美が強く首を横に振った。


「じゃあ泣くのは止めてよ。病気があっても僕は生まれて来てよかったと思ってるんだ。僕はお母さんの子供で、お母さんは僕のお母さん。この先何があっても変わらない。それだけで僕は幸せだよ」


 五月の風が洗い立てのカーテンを優しく揺らしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る