第13話 少年の慕情 前編
詰襟姿の少年が墓前に佇んでいた。髭剃りの必要ない滑らかな横顔と袖口からのぞく華奢な手先が夜暗に白く浮かんでいる。盆之胡瓜は中学校の最上級生と見当をつけたが、その割に詰襟がくたびれていない。少年は夜気で目を洗うように遠くの空を見つめていた。
彼が抱える悔いとは何だろう。若くして死去したショックは計り知れないが、悲嘆は見えない。横顔にのぞくのは諦観ではなく寂寥だった。
「こんばんは」
気配に気づき正対した少年の耳に、盆之の声がまっすぐに吸い込まれていった。
「こんばんは」
仏壇のおりんの音色を思わせる、無機質だけど澄んだ声だった。提灯の灯りが、青白い顔の鼻の下にうっすらと生えた産毛を照らした。
「綺麗な夜空ですね」
盆之は少年が見つめていた空を見上げた。一番奥が黒でその前が灰色で手前が紫色、いくつもの層が混じり合ったような夜空にいくつかの星が瞬いている。薄皮のように細い月は、少年の短い人生の擬態のようだった。
「そうですね」と言ったきり、少年の言葉は途絶え、盆之も口をつぐんだ。夜に音はなく、下草から滴る夜露の音が耳に届きそうだった。
「僕は死んだんです」
幼さの残る顔に似つかわしくない台詞が少年の口から漏れた。
「存じています」
盆之が言った。癖のある風貌で夜の墓地に現れた盆之に何かを察したらしく、少年は身の上を語り始めた。
「生まれつき心臓が悪く、幼い頃から入院を繰り返していました。そうしなければ生きられませんでしたので。ずっと病院のベッドに寝ていました。入院していない時も家にいてばかりで、学校にもちゃんと通えませんでした。良いも悪いも思い出はありません。遠足や運動会にも参加していません。したくなかったわけではありませんが、特段悲しくもありません。一つ一つが気にならないほど全てが欠けていましたから。世間一般とはかけ離れていますが、僕にはこれが当たり前の人生でした」
世の中には「普通」や「常識」に収まらない場所で生きている人間がいる。否が応でも背負わされた宿命からは逃れることはできず、どうにか逃れられたとしても往々にして痺れのような後遺症が付きまとう。
じっと耳を傾ける盆之に少年が続けた。
「入院していない時もほとんど外出しませんでした。いつ発作が起きるか分かりませんし、胃腸も弱っていてすぐに腹痛を起こしましたから家にいれば安心できました。中学校にも入学はしましたけれどほとんど通えませんでした。出席日数不足で進級できないはずですが、先生方が手心を加えてくれたようで、3年生にはなれました。ただの厄介払いでしょうが」
少年は淡々と語った。落ち着きが感じられるのは、ずっと病気と戦ってきたせいだろう。環境は人を育てる。ただしあくまでも精神面のことで、肉体は病に蝕まれていく。
「家にいてもずっと不安に苛まれていました。病気のことだけではありません。運動不足で身体が弱って、ちょっと転んだだけ骨が折れてしまうんじゃないかとか、体力がなくて何をやっても疲れてしまって普通の生活に戻れないんじゃないかとか。
同年代の人たちはどんな生活を送っているんだろうとか。どんな会話をしてどんなところに出かけてどんな髪型をしているんだろう、写真を撮る時はどんなポーズをしているんだろう。挨拶はどんな言葉を使うんだろう。おはようとかこんにちはとかいうと笑われるんじゃないかとか。
世の中から取り残されて、成長期なのに退化しているようでした」
ただでさえ不安定な思春期に、じっと家の中にいては心の平穏を保つことは至難の業かもしれない。こうして進んで話してくれるのは、話し相手を欲していたせいか。
「お医者さんや看護師さんが温かい言葉を掛けてくれたので、子供の頃は色々な夢を描きました。いま苦しんでいるのは、いつか光りが差す日が来るからだと。それまでが嘘のように、いつの日か目の前にぱっと道が開いて報われる日が来ると信じて疑いませんでした。いまはすべてこれから始まることの序章に過ぎない。僕はいつか何かになれるんだと。
それが年をとるにつれ現実がわかってきて、希望を持たなくなりました。一度脱落してしまえば元の道には戻れない。それがこの世のルールみたいです。長生きできないことも悟りました。覚悟ではなく諦めですね。十五まで生きられたのが幸運とさえ思うようになりました」
あまり学校に通っていない割に理路整然とした口ぶりは、元々頭が良かったのか。本来なら考える必要がないことを考えざるを得ない状況に置かれていたのもあるだろう。
「あなたは何か大きな後悔を抱えているようですが」
盆之が訊ねた。少年は希望を持たなくなったと言ったが、こうして天国へ行けずにいるのは大きな悔いを抱えているせいで、普通の生活を送りたかったとか、長生きしたかったという漠然としたものではなく、もっと明確なものがある。
問いかけに、小風が通り抜けたように少年の全身が微かに静止したのが分かった。やはり心に刺さったままの杭がある。
「後悔というより心残りという方があっていると思います」
「伺ってもいいですか?」
「お母さんです。お母さんはずっと僕のそばに寄り添って、どんな時も励ましてくれました。いままで生きてこられたのはお母さんのおかげです。心から感謝しています」
母親を語ることに照れや躊躇いを持つ思春期の少年が言い切った。死んでいるからとは異なる、強い想いがそこにあった。
「ずっと入院していたのに、寂しい思いをしなかったのはお母さんがそばにいてくれたからです。ベッドに寝ている僕の手を、両手で包み込むように握ってくれました。お母さんの手はいつも温かくて安心して眠ることができました。
皮を剥いたみかんとかりんごとか、チョコレートとかを寝ている僕の口に入れてくれました。おでこに置いて熱を測ってくれたり。お母さんの手は、僕にとってもうひとつの心臓でした」
母親にとっても辛いはずの看病も、息子の前では気丈に振る舞っていたのだろう。
「幼い頃は毎日枕元で絵本や紙芝居を読んでくれました。お母さんは登場人物を演じ分けてくれ、毎日ワクワクしながら聞いていた、子供の頃の僕にとって一番楽しい時間でした。自分で読めるようになるとたくさんの本を買ってくれました。わがままを言って困らせたこともありましたが、いつも優しく応えてくれました」
大人びた語り口は、同年代と過ごした時間が短かく、言葉に触れる機会が会話より本が占めた影響かもしれない。
「お母さんは僕に謝りました。僕の手を握りしめ、病気の身体に生んで申し訳なかった、ごめんなさいと。お母さんのせいじゃないと言っても、何度も何度も、額を僕の手にこすりつけるようにして謝りました。ふとした拍子に、自責に駆られることがあったようです。しばらくしたらまたいつもの明るいお母さんに戻りました。
病気は辛かったですが、その分たくさんの愛情を注いでくれたので、僕は本当にお母さんの子供でよかったと思っているし、もし生まれ変わって、同じ病気を持っていたとしてもお母さんのこどもに生まれたい。病気を持たずにお母さんのもとに生まれるのが一番ですが」
少年は、夜空を見上げていた時と同じ寂しい顔をした。母の涙を見るのは、少年にとっても辛いこと。
「僕が死んで、お母さんは僕以上にショックを受けているはずで、それが気がかりです。どうにかしてお母さんに僕の気持ちを伝えたいんです」
母親思いの優しい少年は、母親に似たのだろう。
「僕はあなたに代わって贈り物をすることができます」
盆之が言った。
「贈り物?」
「心残りを晴らして天国へ行くために、あなたに代わって贈り物を届けます。お望みのものはありますか?」
青白い少年の顔に明かりが点るのが盆之に見て取れた。
「来月の僕の月命日が母の日なんです。その日にお母さんにカーネーションを贈りたい」
母の日に贈るカーネーションは、この世で最も美しい花の一つだ。
「僕は毎年母の日にカーネーションを贈りました。本物じゃなくて折り紙で作ったカーネーションです。小さい頃に看護師さんに教わって折ったのが最初で、それから欠かさず贈りました。
毎年ちょっとずつ難しいカーネーションに挑戦して、去年はたくさんのカーネーションを輪っかに並べたリースを作りました。毎年のことですから、わかっているはずなのに気づかないふりをして、渡した時に喜んでくれるんです。お母さんにとっては折り紙のカーネーションが僕の成長記録でもあって、一つ一つ大切にとっておいてくれています。
折り紙に込めて僕の気持ちをお母さんに伝えたいです」
最後のカーネーション。それが少年の望む贈り物だった。
「わかりました。あなたからのプレゼントと分かるようにして必ずお母さんにお届けします」
盆之と天国へ行く約束を交わし、少年が提灯の火を吹き消すと辺りが暗闇に包まれた。
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