第10話 栞のつづき 後編

 テレビもついていない朝のリビングで、友里江の前にはコーヒーカップだけが置かれていた。


 一緒に買い物に行った帰り、家路を急いで横断歩道に駆け出した娘のしおりの小さな体が、一時停止を怠った自動車に撥ね飛ばされた。しおりは二度と目を開けることはなかった。運転手にも憤ったが、しっかり手を繋いでいれば。後悔が友里江の頭の中で渦を巻き続けていた。それ以来食事がのどを通らず、満足に眠ることもできずにいた。


 夫の達也はいくらか食欲は戻っていたものの、友里江の前で物を口にするのはためらわれ、同じようにコーヒーだけ淹れた。湯が沸くまでの間、友里江の背中をぼんやり眺めた。

 背中にくっつき、長い髪の毛を指先にくるくる巻き付けるしおりに「いたずらしないの」と微笑を浮かべてたしなめる友里江。妻と娘の何気ないやり取りを、幸せとはこういうものかもしれないなぁ、と眺めていた記憶がよみがえった。込み上げてくる感情を気づかれないよう唇を噛んでこらえた。後悔に苛まれている妻に慰めの言葉は余計に苦しめそうで、今できることはそばにいてやることだけだった。


 向かいに座ってコーヒーを口にした達也に「しおりの夢を見たの」と友里江が切り出した。亡くなった娘のことを口にすれば取り乱さずにいられなかった妻が落ち着いた口調だった。コーヒーカップを両手で包み込むようにしてつづけた。


「夢の中で私が本を読んでたの。何の本か覚えてないけど少し厚めの単行本で、読みかけだった。そしたらしおりが『本読んでるの?』って背中に抱きついてきた。しおりの体温を背中で感じた。『そうよ』って言ったら肩越しにじっと本を眺めてた。『面白い?』って訊かれて『面白いよ』って言ったら『後でどんなのだった教えてね』って。いつものしおりだった」


 友里江はコーヒーに口をつけ、置いたカップの縁を親指で拭ってから続けた。


「しおりが背中を離れたから本に戻ったの。そしたら耳元で『ママは妹欲しい?』って囁いた。突然息を吹きかけられたようで、夢の中なのにくすぐったかった。あの子ずっと妹欲しがってたでしょ、それを夢の中で訊かれて。私はしおりの顔を見て、こんな娘がもう一人いたら幸せだなって思った。それで『欲しい』って言ったらしおりが『ほんとに?』って。『本当に』って言ったら『ほんとのほんとに?』って。『ほんとのほんとによ』って言ったら『ほんとのほんとのほんとに?』って。『ほんとのほんとのほんとによ』っていったら『じゃあ約束』って指切りして、耳元で『しおりの分まで可愛がってあげてね』ってささやいて、ニッコリ微笑んだの。

 指を離したらしおりの体が浮き上がって天井に吸い込まれていった。そこで目が覚めたの」


 友里江は、しおりが吸い込まれていった天井を見上げた。夢で見たのと同じ天井だった。


「俺も同じ夢を見たんだ」


 達也の言葉に、友里江は視線を下ろした。達也の目はまっすぐに友里江を向いていた。


「夢の中でしおりに『パパは妹欲しい?』って訊かれて『欲しい』っていったら『約束』って指切りして。耳元で『しおりの分まで可愛がってあげてね』ってささやいて笑顔で天井に吸い込まれていった」

 達也も天井を見上げた。


「泣いてばかりいるから、励ましに来てくれたのかもしれないな。少しは栄養付けなきゃ」

 達也がキッチンに立った。四角いフライパンで焼いたのは、しおりが好きな玉子焼きだった。砂糖だけで味付けた半熟の黄色い玉子焼き。普段は料理をしない達也が娘を喜ばせたくてこれだけ覚えた。火加減に注意するぐらいでさして難しくはないのに、美味しそうに食べてくれるから調子に乗って休みの日によく作ったものだった。そんな時、友里江は腑に落ちない顔をした。簡単な料理でご機嫌とって。そんな心の内が聞こえてくるようだったが、その姿がいじらしかった。


 玉子焼きの乗った皿を目の前に差し出され、見上げた友里江に達也は何も言わなかった。肩を微かに上下させ呼吸を整えていた友里江がようやく震えそうな手で箸を取り、一切れ掴み上げようとしたが滑り落ちた。ため息を漏らし、もう一度掴み上げると今度は上手に口に運べた。達也はその背中を見守っていた。



 インターホンが鳴った。約束の時間通りに自宅を訪れたのは旭ヶ丘幼稚園の園長・木原広とすみれ組担任の山田あき子だった。葬儀の時にも挨拶を交わしたが、その時の記憶は友里江には微かしか残っていない。

 事前に連絡を受けていた自宅訪問の目的は退園手続き書類の受け渡し。子どもたちの声で溢れる幼稚園に来れば、しおりのクラスメイトや保護者と顔を合わせることになる。それを避けるために配慮してくれたようだった。木原と山田は悔やみの言葉を述べてテーブルについた。


 書類の入った封筒を手渡した園長は後日郵送でも構わないと言った。封筒には幼稚園の住所が記載されていた。

 もう一つ、幼稚園に置いたままだった私物の引き渡し。しおりが履いていた上履き、お道具箱、防災頭巾。一つ一つ大切にガーゼのような白い布で包まれていた。


 友里江の字で"いのうえしおり"と記名された上履きはおもちゃみたいに小さかった。もっと成長する姿を見たかった。ランドセルを背負う姿を見たかった。両手で顔を覆った友里江の背中を達也がさすった。涙をこらえ、どうにか手を下ろした友里江に「もう一つ、お渡しするものがあるんです」と山田が白い筒を差し出した。丸められた画用紙だった。


 テーブルの上に広げると、クレヨンで描かれた絵があらわれた。3つの笑顔が並んでいる。3人ともへの字の目とU字の口で、顔いっぱいに笑顔を浮かべている。向かって左にいる短い髪がパパで、右の長い髪がママ。その間に小さなしおりが挟まれていた。後ろにはこの部屋にあるのと同じ黒い壁掛け時計や食器棚が描かれている。拙くても健気な想いが伝わってくる絵に友里江と達也はしばし目を奪われていた。


「違うんです」躊躇いがちに山田が言った。「その女の子はしおりちゃんじゃないんです」


 顔に怪訝を浮かべた二人に山田が続けた。


「私もてっきりしおりちゃんだと思っていたんですが、『上手に描けたね』と声をかけたら、手招きして私の耳元で『この子、しおりじゃないんだよ』と囁いたんです。


『じゃあ誰なの?』と訊いたら『この絵はね、しおりの目なんだよ。しおりの目が見てるのを描いたの』


『しおりちゃんの目?』


『そう。だからこの子はしおりじゃないの。自分で自分のこと見れないでしょ』


『じゃあこの子は誰なの?』


『かすみだよ』


『かすみ?かすみって誰?』

 すみれ組にかすみという子はいません。


 そうしたらしおりちゃんが『これから生まれてくるしおりの妹だよ』と。


『しおりちゃんのママ、赤ちゃんできたの?』と訊いたら


『パパもママもまだ知らない。だけどもうすぐわかるの』


『なんでしおりちゃんは知ってるの?』


『しおりにはわかるんだよ。ずっと妹が欲しいってお願いしてたから』


『その女の子がかすみちゃんなの?』


『そうだよ。妹がかすみっていう名前なんだよ』


『どうしてかすみなの?』


『前ね、おうちのテーブルにママが読んでた本が置いてあったの。こっそり開けたら、お花があったんだよ。白い小さなお花が本に挟まってたの。びっくりしてママになんで本の中にお花があるの?ってきいたら『これは押し花っていうの』って。お花を本に挟むと押し花ができるんだよ』


『ママは押し花を作ってたんだ』


『先生押し花知ってるの?』


『先生も時々押し花を作るよ。押し花きれいでしょ』と言ったら嬉しそうに頷きました。


『このお花、何っていうの?ってママにきいたら『かすみ草』って教えてくれた。かすみ草は押し花に向いてるんだって。きれいなお花。本に挟むのはしおりだけじゃないの。パパとママが本で、その中にいるのがしおりとかすみ。だから妹の名前はかすみなの』


『かわいい名前だね』ていったら『そうでしょ』と嬉しそうに言いました。


『前しおりがママに妹が欲しいって言ったら、ママが『妹が出来てもしおりが一番かわいいよ』って言ったの。ママはしおりが一番可愛いんだって。でもかすみもぜったい可愛いから、ママはほんのちょっぴりだけしおりの方が可愛い。だからしおりがその分かすみのこと可愛がるの。そうしたら二人とも一番になるでしょ。家族みんな仲良し。仲良しの家族をしおりが見てるのがこの絵なの。パパもママもかすみも、しおりもみんな笑ってるの』


『しおりちゃんの家族は幸せなんだね』


『そうだよ。しおり家族のこと世界でいっちばん大好きなんだ』そう言って両手で大きな円を描きました。


 しおりちゃんはパパとママが大好きでした」

 山田はそれだけ話すと堪えきれずに顔を伏せて肩を震わせた。


 身動きすれば崩れ落ちてしまいそうに、じっと絵に視線を落としたままでいた友里江に「これ」と隣から達也が絵を指差した。

「家の中に太陽があるんだな」

 この部屋を描いたはずが、画用紙の上の隅で橙色の扇型が光を放っていた。

「この太陽みたいに、しおりは空の上から俺たちのことを見守っていてくれてるのかもしれないな」 

 達也は天井を見上げた。つられて見上げようとした友里江の視線が宙で止まった。お腹に覚えのある痛みを感じたからだった。

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