第9話 栞のつづき 前編
墓地から聞こえるに叫泣に、盆之胡瓜はきつく瞼を閉じ、指先で眉間をおさえつけた。握った拳の指の山でこめかみを何度も叩いた。息継ぎの拙い泣き声に慣れることはなく、耳にするたびに胸を掻き乱される。足取りは重かった。
「どうしたの?」
しゃがみ込んで泣く背中を見つけて提灯をかざした。穏やかな口調を意識しても、こわばっているのが自分でもわかる。その背中はまだ幼かった。
見上げた顔は涙で汚れているものの怯える様子は見えない。一人ぼっちでいたところに現れた大人に安心感を抱いたのか。服装は奇妙でも盆之の物腰は柔らかい。
「パパもママもいない」
この歳であれば置かれた状況を理解できるはずもないが、なにか事故に巻き込まれてしまったのだろうか。側に大人がいたはずだが、目を離した隙に起きた事故か、あるいは親の見ている前で起きたのかもしれない。やるせなさが込み上げた。歪みそうな顔をおしとどめ、盆之は羽織の袖口に手を差し込み、中から銀紙に包まれた丸いお菓子を取り出した。
「チョコレート食べる?」
「食べたい」と身を乗り出した女の子にあげると「ありがとう」と泣くのをやめ嬉しそうに紙をほどいて口に入れた。口の中で転がしたチョコレートがほっぺたを丸く膨らませた。その愛らしい姿に、盆之は胸を締め付けられた。
「名前はなんていうの?」
「しおりだよ。いのうえしおり。みよじがいのうえでなまえがしおり」
口の中のチョコレートを飲み込んでから言った。
「しおり知ってる?」
質問の意図が掴めず、答えに詰まる盆之に言った。
「しおりってどこまで読んだか忘れないように本にはさむんだよ。それでまたしおりのとこから続き読むの」
「本のしおりから取った名前なんだね」
「そうだよ。ママが言ってたよ。パパとママが本で、その間にはさまれてるのがしおり。いつも一緒なんだって」
「いい名前だね」と言った盆之にしおりは誇らしげに頷いた。
「しおりちゃんは何歳?」
「6歳」
「幼稚園に通っているの?」
「旭ヶ丘幼稚園の年長」
「何組?」
「すみれ組だよ。山田あき子先生。すごく優しいんだよ」
そこで盆之の質問が止まった。健気に答えてくれるが、これ以上質問をするのは躊躇われる。
「おじさんは何してるの?」
「おじさんは、ちょっとこの辺をお散歩してたんだ」
子供から見たらおじさんか、苦笑交じりに盆之が言うと、しおりは思い出したように立ち上がり、周りを見回した。視線は盆之のへその高さほどしかなく、暗くて遠くまでは見渡せない。背伸びをしようとして、足をふらつかせた。盆之がとっさ手を伸ばした拍子に提灯が左右に揺れた。闇に浮かぶ残光に、女の子はしばし目を奪われていた。
「これちょうちんでしょ?」
渇いた声で言った。
「そうだよ」
「ここはどこなの?」
本当のことを教えていいのか。墓地はどういう場所か幼稚園も年長になれば知っているだろう。
「これ『井上』って書いてるんでしょ」
しおりが目の前の墓石を指さした。幼稚園では漢字を習わなくても自分の苗字ぐらいは読める。
「ここお墓でしょ。しおり死んじゃったの?」
答えに窮する盆之にしおりが続けた。
「寝てるしおりをパパとママが呼んでたの。しおり!しおり!って大声で一生懸命。夢だと思ったけど違うんでしょ。クルマにぶつかったのも夢じゃないんだ。しおり死んじゃったんだ。
死んだらどうなるの?」
「天国に行くんだよ」
「パパとママは?パパとママも一緒に天国に行くの?」
「パパとママは天国にはついて行けないんだ」
「幼稚園にももう行けないの?」
「行けない」
「山田先生にももう会えないの?」
「もう会えないんだ。しおりちゃんはこれから空の上に上っていくんだよ」
「空の上って宇宙?」
「宇宙じゃなくて、天国に行くんだ」
しおりが見上げた空には月もなく、果てしなく夜が広がっていた。みるみるうちにその目に涙が溢れた。
「やだ。天国なんか行きたくない」
大人でさえ受け入れ難い死を、まだ幼い子供に受け入れろというのは無理な話だった。
「人間はみんないつかは死ぬんだ。しおりちゃんは早すぎて、それは本当に辛いし悲しいことだけど、戻ることはできないんだ。しおりちゃんだけじゃなくて誰にもできないし、いつまでもずっとこのままここにいることも出来ないんだ。ここにいたら魂が腐ってしまうから、天国にいかなきゃいけないんだ」
「やだ。ぜったい行かない。パパとママに会いたい。パパとママ呼んできて」
「天国に行っても1年に1回はパパとママに会えるから」
「1年に1回だけ?そんなのぜったいやだ。ずっと一緒がいい」
「でもパパとママは1年に1回だけでも会いたいと思っているよ」
「しおりはやだ。ずっと一緒がいい。天国なんて絶対行かないからパパとママ呼んできて」
「天国に行かずにずっとここにいると、1年に1回も会えなくなっちゃうんだ。それでもいいの?」
「絶対やだ」
しおりは盆之にしがみつき、盆之のへその辺りに顔を埋めて泣きわめいた。
「しおりちゃんはパパとママが大好きだったんだね。パパとママもしおりちゃんのことが大好きだから、すごく辛くて悲しいんだよ。今もきっとおうちでしおりちゃんのこと想って泣いてるよ。パパとママは1年に1度でもしおりちゃんに会いたいと思ってるよ。だから天国に行ってパパとママに会いに来ようよ」
盆之は膝を折ってしおりに視線を合わせた。
「もし天国へ行ってくれるんなら、僕がしおりちゃんの代わりにパパとママになにかプレゼントをあげる」
「プレゼント?」
「パパとママになにかあげたいものある?」
しおりは泣き腫らした目を手の甲や指先でこすり、盆之に向けた。なにか心当たりがあるようだ。
「なんでもいい?」
「なんでもいいよ」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ妹」
「妹?」
「そう。しおりの妹。ずっと前からパパとママに、妹が欲しいってお願いしてたの。妹ができたら、パパとママも元気だしてくれるかもしれないし、妹がいれば時々お姉ちゃんのことも思い出してくれるでしょ。おたまじゃくし見たらカエルのこと思い出すみたいに」
しおりちゃんのことを忘れるわけないよ。という言葉は飲み込んだ。
「もし妹が生まれて、パパとママが可愛がったらしおりちゃんは嬉しい?」
無神経な質問だったと盆之は言ったそばから後悔した。
「前に妹がほしいって言ったらママが言ってたよ。『妹ができてもママはしおりが1番かわいい』って」
無垢な笑顔を提灯が照らした。
「それなら大丈夫だね。でもその前に、しおりちゃんのパパとママに訊いてみる。しおりちゃんの妹が欲しいですかって。もしいやだって言われたら叶わない。だってパパとママは妹が欲しくないかもしれないでしょ。ちゃんとパパとママの気持ちを訊いてあげなければいけないんだ。訊いてみて妹が欲しいっていったら妹が生まれる。どうかな。パパとママは妹が欲しいかな」
可愛い盛りの娘を亡くしたばかりで果たしてそう思うだろうか。
「パパとママは妹が欲しいっていうよ。ずっとしおりがお願いして、約束してたから」
「じゃあパパとママに訊いてみるよ。妹が欲しいっていったらしおりちゃんのお願いが叶う。そしたら天国に行ってくれる?」
「行く。約束する」
「じゃ指切り」
盆之が出した小指にしおりが小指を結んだ。しおりは頬を膨らませてろうそくを吹き消した。
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