第8話 運転手の忘れ形見 後編

 高速バス事業を展開する旅行代理店、N観光のバス乗務員・村本憲雄むらもとのりおが運転中に事故を起こして死亡した。250kmの夜間運行を終えて帰社した際、車庫の壁に衝突した自損事故で、バスは大破し、車庫の壁を著しく損傷した。ワンマン運行だったため同乗者はおらず他に死傷者はいなかった。


 かつて死傷事故が相次ぎ、高速バスの安全管理体制が問われたことがあった。それから年月が経過していたことや業務外の単独事故であったことから、村本の事故は当時のような大々的な報道には至らなかったが、いくつかのメディアによって報じられた。


 死亡した運転手は、高速バスの業務に就いて日は浅いが、それ以前は路線バスの運転手をしており、無事故無違反の優良ドライバーでバス乗務のキャリアは十分だった。44歳と高齢とはいえず、N社入社時の適性検査でも問題は認められなかった。乗務前のアルコール検査に反応はなく、持病もなく健康上の問題もなかった。

 こういった身上が報じられる一方で、現場にブレーキ痕がなかったことから、事故原因が居眠り運転である可能性が指摘された。


 事故を報じたインターネットニュースには多くのコメントが寄せられた。かつての高速バス事故を鑑み、当初は夜行運転をワンマンで行っていた村本に同情するものもみられたが、250kmは高速バスでは長距離とは言えない、ワンマンであっても事故を起こしたのは運転手の責任、など次第に村本を批難するものが増加し、中傷コメントで埋め尽くされていった。


『自業自得』『大人しく路線バス続けてれば死なずにすんだのに』『いい歳して金目当てで転職した中年』『老害』『強欲ドライバー』等々。

 中には『酒を飲んでいた』『ギャンブルにはまって借金負っていた』『若い女に貢ぐ金が欲しかった』など事実無根のことや、ブレーキをかけずに壁に衝突したことを戦時中の特攻隊になぞらえて揶揄するものまであったが、これらのコメントも削除されることなく、大衆の目に触れる空間に野ざらしにされていた。


 遺された村本憲雄の一人息子、まだ中学3年生の雄一ゆういちは、父親を亡くしたショックに追い討ちをかける罵詈雑言に胸をえぐられる想いだった。所詮はインターネットの片隅の、匿名の落書き紛いの書き込みに過ぎず、見てもいいことはないとわかっていても、父親について書いた記事を素通りはできなかった。スマートフォンを開いて「高速バス」の文字が目に入ればアクセスし、その度に後悔にうちひしがれた。


 父親は事故を起こして死亡した。居眠り運転の可能性があり、会社に多大な迷惑をかけたのは事実だが、投稿者はどんな被害を受けたというのだろう。死人に鞭打つ権利が誰にあるのか。断片的に伝えられた事実を餌に好き勝手に罵倒する。反論しても火に油を注ぐだけで、聞く耳持たずに口だけ開くから、嵐が通りすぎるのをただ待つしかないが、ニュースを配信するポータルサイトにも憤りを覚えた。なぜ無法地帯を放置するのだろう。広告料目当ての閲覧数稼ぎで、いじめっこに棒切れを与えるような真似をしていいのか。表現の自由で許されるのか。大勢の人間が寄って集って一人の人間を袋叩きにする。そこに正義はあるのだろうか。これはいじめではないのか。いじめは多数決で肯定できるものなのか。悪いことは他人がするもので自分はいつでも正義なのか。


 雄一は、父親は決して口にしなかったが転職は自分のためだと知っていた。将来の夢を訊かれ「医者」と答えた。母親を病気で亡くした時から心に秘めてきた想いは、現在に至るまで揺らぐことはなかった。父親が転職したのはあのあとだから、自分を想ってのことと理解し、一生懸命勉強して報いるつもりだった。

 余計なことを言わなければ転職せず、死ぬこともなく、叩かれることもなかったのに。


 お父さん、ごめんなさい。



 村本憲雄の通夜の参列者は、雄一には見慣れない顔ばかりだった。父方の親戚は福岡在住が多くて付き合いは乏しく、母方の親戚は母の他界後疎遠になっていた。


 悔やみの言葉を掛けられれば畏まって挨拶を返したが、それよりもあちこちから聞こえる囁きが雄一の心を揺さぶった。子供がする内緒話を大人もすると知った。ひそめた声は余計耳につく。金に目が眩んで仕事をかえた、居眠り運転で事故を起こした、などネットと似たことを囁きあっているに違いない。

 女に貢いでいるとか借金を抱えていたとかを真に受けているのかもしれないが、自分の口から説明したところで言い訳にしか聞こえまい。誤解したい人にはさせておけばいい。雄一は他人に悪く言われるほど父への尊敬を強くした。


 喪主は雄一だったが、実際に葬儀を取り仕切ってくれたのは父の兄で雄一には伯父にあたる村本泰介たいすけだった。弟の死を知るなり真っ先に福岡から駆けつけ、葬儀の準備に奔走してくれた。

 ツアーコンダクターとして日本全国を飛び回ったせいか、同じ喪服姿でも地方の空気をまとう他の親戚と比べて立ち振舞いが垢抜けていた。弟の職場事情など知るはずもなかったが、バスの関係者に頭を下げて回った。


 交流は多くなかったものの「泰介伯父さん」は雄一にとって数少ない気の置けない身内で、父親よりやや色黒で背も高く、父親と違って酒好きだったが、顔も声もよく似ていた。

 福岡育ちだけあって生粋のホークスファンで、携帯電話には選手と一緒に撮った写真がたくさん入っていた。居酒屋で撮ったプライベートな写真もあって「福岡に来たら福岡ドームに連れていって選手にも会わせてやるからな」といってくれた。その日を待ちわびていたがまだ実現していない。


 通夜が終わり、がらんとしたホールに二人っきりになった。パイプ椅子に腰を下ろすと泰介は一つ息を吐いた。福岡から上京して忙しく動きっぱなしで疲れているはずだし、弟の死が辛くないはずがなかったが、口には出さなかった。その横顔は父親とよく似ていた。

 棺を前に改まった様子で泰介が切り出した。


「今後のことなんだけど、福岡に来てお祖母ちゃんと一緒に暮らしたらどうだ?」


 雄一の予想していたことだった。幼い子供ならまだしも、ろくに付き合いもない高校生になろうとしている男子を引き取る身内が他にいるとは思えなかった。居眠り事故を起こした運転手の息子というのも世間体は良くない。泰介も家族4人のマンション暮らしで受け入れる余裕はなかった。


 祖母の保子やすこは夫を亡くしてから―雄一が生まれる前に亡くなっていた―一人で暮らしていた。市外に建つ古民家で雄一も夏休みに訪れたことがあった。近所には雄一の身長よりも高く伸びた草むらやザリガニが釣れる小川があって、昔にタイムスリップしたような自然と戯れた。目の当たりにした蝉の孵化は神秘的で、都会では体験できない貴重な夏の思い出だった。


「不便にはなるけど、あの家は広いし自分の部屋も持てる。少し早起きしなきゃいけなくなるけど高校にも通える。お祖母ちゃんもまだまだ元気だからその辺も心配はいらない」


 保子は普段はぴんぴんしていたものの折悪しく風邪をひき、高齢もあって長距離移動は体に堪えるため、泰介が説得して葬儀への参列は断念させていた。


「俺は早い方がいいと思うけど、もうすぐ中学卒業だろ?それを待ってからでもいい。それぐらいなら一人でもどうにかできるだろう。どうだ?」


 問われたものの他に選択肢がないことは雄一にもわかっていた。お祖母ちゃんは遊びに行く度に孫を可愛がってくれた。一緒に暮らすことになっても邪険に扱うような人でないことは、息子たちの背中を見てもわかる。しかし雄一の心は決まっていた。

「中学を卒業したら働いて自分の力で生きていこうと思っています」


 伯父は眉根を寄せた。予想していなかった返答を上手く飲み込めないようだ。


「お母さんが亡くなって、子供の頃から食事の用意とかできることは自分でしてきたのでどうにかやって行けると思います」


「高校はどうするんだ?」


「すぐには難しいかもしれませんけど、できれば行きたいとは思っています。定時制もありますし、これから考えます」


「まだ遊んだりしたいだろ?福岡に来れば新しい友だちもできるし、東京に負けないぐらい栄えてるから遊ぶところもたくさんあるぞ。それに、野球は続けなくていいのか」


「元々野球は中学で終わりと決めていました」


「お父さんが急に亡くなって、ああいう亡くなり方をして、ショックなのはわかるけど、一旦福岡に来てみてから考えたらどうだ?焦る必要はない。人生先は長いんだから、意固地になったら自分が損するだけだぞ」

 泰介は雄一の太ももに置いた手をぎゅっと握りしめた。


「お父さんが亡くなった日、遺体と対面して家に帰ったら玄関に帽子があったんです」

 事故当日、アパートの玄関の靴箱の上に帽子が立て掛けられていた。

「お父さんがバスを運転する時に被っていた帽子です。新しい会社は帽子はなかったので、前の職場のものです。誰かが置いたのか、玄関はちゃんと鍵をかけておきましたし、そんな人思い付きません。前の職場の人がとっておいたとも思えません。でもそこに帽子があったんです。


 手にとるとお父さんの匂いがしました。昔からずっと使い続けている整髪料の匂いです。まるでさっきまでお父さんが被っていたようで、何気なく鏡に向かって被ってみたら、ぴったりでした。

 子供の頃に被らせてくれたことがあるんです。まだお母さんが生きていた頃、普段は会社に置いたままだったのに、僕を喜ばせようと持って帰ってきてくれて。被ったら顔まですっぽり覆われるほどブカブカでした。

 それが今はぴったりで、鏡の中に野球帽とは違う自分がいました。僕はもう子供じゃありません。中学を卒業したら働くことができます。自分で働いて生きていきます」


 雄一の言葉を泰介はじっと目を見つめて聞いていた。

「本当にそれでいいのか?」


「自分で考えて決めたことです」


 泰介はその言葉を飲み込むように何度か頷いた。

「お前の気持ちはよくわかった。それなら何も言うことはない。お前の意見を尊重する。お前は賢いししっかりしてるのはよく分かってる。

 だけどな、なにか困ったことがあったら遠慮なく連絡してこい。お金のことだってどうにかしてやるから。俺はお前のお父さんの兄なんだ、お前の伯父なんだから頼っていいんだぞ。遠慮することはない。それぐらいのことは俺にもさせてくれ。こっちはいつでも歓迎だから。お前はお父さんとお母さんは亡くした。だけど一人じゃない。俺はいつでもお前の味方だ。いつでも言ってこい。約束だぞ」

 そう言って泰介は背中越しに伸ばした手を雄一の肩に置いた。

 亡くなったお母さんを心配させないよう葬儀の時に涙を堪えていたら、お父さんがそっと肩に手を置いてくれた。

 あの日と同じぐらい温かかった。

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