第7話 運転手の忘れ形見 前編

 墓前に男が佇んでいた。短く刈られた髪に切れ長の目、細身で一見若くも見えるが、髪には白いものが交じり、目尻にはシワが刻まれ、人生を重ねた落ち着きが感じられる。年齢は40代半ばといったところか。服装はスーツのようで異なる制服で、背筋を伸ばし、一人の人間と対峙するように墓石と向き合っていた。


 成仏できずにいるのは後悔を抱えているせいだが、立ち姿にはそれが見えなかった。


 男は気配に気づき、盆之胡瓜を足元から頭の先まで一瞥した。素性は分からずとも、出で立ちと全身にまとう雰囲気で何かを察したらしく、恭しく盆之に一礼した。盆之が会釈を返すと橙色の提灯が暗闇に揺れた。男はその残光に目を細めた。


「私になにかご用ですか」

 男が先に口を開いた。表情は落ち着き、口調も淡々としていた。後悔を抱えた人間には動揺が見えるものだが、そういう素振りは見られなかった。

「あなたはなにか大きな後悔を抱えているようですね」


 男は目を見張ったが、リアクションはそれだけで、それもすぐに落ちついた。


「私は盆之胡瓜というものです。成仏出来ずにいる方に寄り添い、天国へ行くお手伝いをしています。よかったらあなたの胸の内を話していただけませんか」


 男は立ち尽くしたまま盆之の言葉を咀嚼した。


「私はバスの運転手でした。ですが事故を起こしてしまいました」

 着ているのはバスの制服だった。男は続けた。

「幸い、という言葉がふさわしいかわかりませんが、単独事故で、私のほかに犠牲者はいませんでした。ですがバスは大破しました。廃車は免れないでしょうし、車庫も大きく損傷しました。会社に大損害を与えた。本当に申し訳ないことをしました」


 事故で死亡したバスの運転手が会社に対して「申し訳ない」といった。人柄が窺えた。


「私はまだ入社してから日の浅い新人でした。会社にろくに貢献できずに迷惑をかけただけでした。居眠り運転をしてしまったんです。車庫に戻ってきた時でした。夜間の運転に慣れてきた頃でしたので緊張が緩み、油断がありました。運転を誤って車庫の壁に激突しました。私の責任で、会社に非はありません。労働環境が影響したとも思いません。知ったうえで入社しましたから」


 この年齢で新人とは転職したてというところか。その立場で居眠り事故を起こした。しかしそれで成仏できないほど後悔するものだろうか。


「以前は路線バスの運転手をしていました。私鉄の子会社に勤務していたのですが、昨年高速バスの運転手に転職しました。高速バスは夜行もあります。いい歳ですから生活リズムの変化は身体にこたえますが、その分給料が増えましたので」


 同業種とはいえ年齢を重ねてからの転職は身体への負担だけでなく、環境の変化によるストレスも多く、リスクもある。実際に事故を起こしてしまったわけだが、それでも給料をとったのはなぜだろう。

「転職は、お金だけの理由ですか?」


 男は開きかけた口を一度閉じた。口にするのをためらう事情があるようだ。

「私には息子がいます。中学生の一人息子です。母親、私の妻ですが、息子が幼い頃に亡くなり、私一人で育ててきました。父一人子一人ですから寂しい想いもさせましたが、一緒に出掛けたり、外食したり、プロ野球観戦にも行きました。一昨年は知人にチケットをもらい日本シリーズに行きました。ひいきのチームではなかったんですが、息子は喜んでいました。旅行にも行きましたから親子関係は良好で、横道に逸れることなく育ってくれました。親馬鹿ですが息子は勉強もよくできます。母親に似たのでしょう」


 饒舌ではないが、一つ一つ言葉を選びながら丁寧に話した。不器用だけど実直。子供想い。盆之の目にそう映った。


「中学3年ですから来年は高校生。次は大学です。決して生活には不自由していなかったのですが、以前会社にいた先輩に誘われました。その方が勤めているバス会社の運転手が足りないから来ないかと。初めはお断りしました。会社を辞める気は毛頭ありませんでしたし、若くないので体力面の不安もありましたので」


 それがなぜ転職を決めたのか。


「息子に」と言って唇を噛んだ。話すことに躊躇いがあるようだ。

「息子に『将来何になりたいんだ?』と訊ねました。夕食の時、テレビを見ながら、いままで将来の話はあまりして来なかったなと。転職を意識したわけでなく、なぜかふと口をついてでたんです。幼い頃と違い、中学生になると現実が見えてきます。

 息子は野球をやっていますから、プロは難しくても甲子園に出たいとか、そういう夢があるのかと思いました。しかし息子は『医者になりたい』と。

 母親を癌で亡くしたので、そういう想いを抱いていたようです。亡くなった時小学2年生でした。母親が恋しい年頃で、闘病中は側に寄り添っていましたが、葬儀の時はじっとこらえて涙を見せませんでした。息子なりに想うことがあったのでしょう」


 男がふと墓石を振り返った。亡き妻が一緒に眠っているのだろう。


「思い返せば以前にもそういう話を聞いた記憶があります。お医者さんになって病気の人を助けてあげたいと。まだ子供でしたので一過性のものと気に留めなかったのですが、ずっと胸に秘めていたようです。こつこつ勉強していたのは、医者になるためでした。先程も言ったように息子は成績が良く、進学校を狙えると担任に言われていました。医学部は金がかかることは知っていますが、息子の夢を叶えてやりたい。少しぐらい給料が上がったところでたかが知れても、微力でも力になりたい。それが父親としての務めと考え、転職を決めました」


 幼い頃に母を亡くし苦労をかけた息子に対する父親の愛情、それが転職の動機だった。


「こう話すと息子に責任を転嫁しているように聞こえるかもしれません。そこは誤解しないでいただきたい。一番申し訳ない想いは息子に対してです。息子は小学校の卒業文集に「尊敬する人はお父さん」と書いてくれました。「いままで育ててくれてありがとう」と。私の宝物です。自分のしてきたことが報われた気がしました。しかしそれをすべて裏切ってしまった。息子を傷つけてしまいました。

 こういうご時世ですから、居眠り運転で事故を起こした運転手は世間から非難を浴びるでしょう。死んだ人間であっても容赦なく。私は構いませんが、息子にまで矛先が向くかもしれない。本当にすまない気持ちでいっぱいです」


 男が成仏できずにいたのは息子に対する後悔だった。男手一つで息子を育て、つつましく暮らして来た。気のゆるみで事故を起こしてしまったとはいえ、自分が死んだことより、事故を起こしたことを悔いていた。責任感が強く、息子想い。言葉の節々から誠実さが垣間見られ、尊敬される理由が盆之にも伝わった。


「息子は両親を亡くしました。兄弟もいない一人ぼっちです。私の母が健在ですからそこに引き取られるでしょうが、福岡住まいですので遠く離れています。進路はどうなるか。医者になる夢は諦めなけばならないでしょう。愚かな父親の責任です。本当に申し訳ないことをしました」

 男は天を仰ぎ、唇を噛み締めた。その目に光るものが見えた。


「先程天国へ行く手伝いと申し上げましたが、あなたに代わって贈り物をするのが私の役目です」

 盆之が言った。


「贈り物?」


「誰かに何か贈りたいものがあれば、あなたに代わって私がお届けします」


 男は遠くの夜空を見つめて思案した。相手は息子だろうが、贈り物はなんだろうか。やがて思い付いたことを盆之に告げた。男は天国へ行く約束して提灯の火を吹き消した。

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