第6話 少女の後悔 後編

 スマートフォンの時計は23時50分を表示していた。枕元の目覚まし時計はわずかに遅れているもののあと10分で誕生日。里美はベッドの上で仰向けになったまま18歳を迎えようとしていた。


 去年までは0時ちょうどに美里から『誕生日おめでとう!』のメッセージが届いた。携帯電話を持つようになってから日付が変わった瞬間誰よりも先に祝いあうのが二人の決まりになった。一度23:59にフライングし、0時になって送信し直したら『2回も祝ってくれてありがとう!』と返信が来たことはあったけれど、欠かしたことはなかった。


 去年美里がくれた誕生日プレゼントがこの目覚まし時計だった。白で丸形の、8時20分を指すとヒゲを生やしたおじさんに見える憎めない時計。里美は『目覚まし先生』と命名した。


 スマートフォンのアラームをセットしたはずが充電が切れて鳴らず、9時からのファミリーレストランのアルバイトに40分も遅刻して「日曜は朝から忙しいのわかってるでしょ」と店長に怒られた。すでに客席は家族連れや小学生の集団で混雑していた。他のバイトにも迷惑をかけてしまい、勤務中ずっと肩身が狭かった。

 出勤日ではなかった美里に落ち込みながら電話を掛けたら「それはそのスマホの責任だね。『おい!コラ!聞いてるか?!お前のせいで里美が遅刻しただろ。反省しろ!』なんてね」と笑わせてくれて気が楽になった。そして誕生日にこの時計をくれた。

「今後遅刻は一切認めませんのでよろしくお願いします」

 美里がおどけて言った。


 美里を裏切らないよう、それからは目覚まし時計と充電したスマホ両方セットし、去年の誕生日以降学校もバイトも一度も遅刻していない。


 1年しかたっていないのに美里はもうこの世にいない。自分の無神経で傷つけ、謝ることもできないまま亡くなった。わたしを嫌いなまま天国へ行ってしまった。かけがいの存在が、いまは思い浮かべる度に胸が痛んだ。


 スマートフォンに視線を戻すと、誕生日まであと1分。あと30秒。カウントダウン。5、4、3、2、1、ゼロになった瞬間足元で物音がした。棚の上から落ちてきたのは、美里にもらった目覚まし時計の空箱だった。


 誕生日になったと同時に落ちてくるなんて、美里がお祝いしてくれたのかな。でも落ちてきたってことは怒ってるってことかもしれない。拾い上げた空箱に手応えを感じて開けると、美里をかたどったぬいぐるみが入っていた。


―この中に入れたんだっけ?―


 あれから見るのも嫌で、でも捨てることはできなくて、仕舞ったことすら記憶から飛んでいた。ぬいぐるみにかけたチケットホルダーにはサーカスのチケットが入っていた。


―チケット入れたっけ?―


 自分の分のチケットは机の引き出しにあった。


―もしかして、一緒に行こうって誘ってくれたのかな―


 今年の誕生日は土曜日だった。スマートフォンでサーカス団のサイトを開くと公演予定があった。土曜は混むかなとタップした"空席情報"には『余裕あり』となっている。元々さほど人気のないサーカス団で、それゆえチケットに有効期限がなかった。


 美里が誕生日にサーカスに行こうと誘ってくれた。里美にはそう思えた。天気予報には晴れマークが並んでいて、バイトもなにもない絶好のお出かけ日和。行かない理由が見つからない。里美はぬいぐるみを枕元に置き、目覚まし時計をセットして眠りついた。



 翌朝、9時に目覚まし時計が鳴った。美里に起こしてもらいたくて、スマートフォンのアラームはセットしなかった。いつもより目覚めのいい18歳の誕生日。

 自室を出ると母に「誕生日おめでとう」と言われたが、大変な思いをして出産した、誕生日の立役者である母親の祝福には毎年返事に詰まる。ありがとうと答えるのも照れ臭い。その隙間を埋めるように「今日はバイト?」と訊かれた。予定のない土曜は遅くまで寝ている里美にしては早起きだった。

「バイトじゃないけどちょっと出掛ける」素っ気なく答えたのは、どこに行くのか教えたくなかったし、口を開くと胸の中から何かが出ていってしまいそうな気がしたから。


 朝食は普段通り、トーストとキャベツの千切りが添えた目玉焼き、それに紅茶。「晩ご飯はどうする?」と訊かれた。美里が亡くなって間がないことを考慮したのだろう。さっきのおめでとうもいつもより張りがなかった。

 例年の誕生日の夕飯はケーキと、いつよりちょっとだけ豪華な食事。里美は「普通でいい」と答えた。変に気を使われるのが嫌でそう言ったものの、普段通りの誕生日でいいとも平日の夕飯にしてとも取れると自室に戻ってから気付いた。どちらにしても、いまは夕飯のことまで考えたくなかった。


 もう少しゆっくりしても開演には間に合うけれど、じっとしていられなくて、支度が済むと里美はすぐに家を出た。天気予報の通り、外は朝から強い日が差している。飛行機雲があれば絵になるのに、どこにも見当たらない青空を恨めしく眺め、里美は肩に提げたバッグの持ち手を握りしめた。


 会場は電車を2回乗り換えて1時間弱と少し遠く、通学定期とは別ルートで、ICカードに1000円分チャージしてから改札を通る。今日が誕生日だと改札機にバレたかな。


 土曜日の午前中にしては電車は混んでいた。サッカーのユニホームを着たファンが散見されるし、アイドルグループのTシャツも見かけるから、今日は色々とイベントごとが重なっているらしく、終了時間がかぶったら駅はパニックになりそうだ。

 座席の狭い隙間に入り込むのはためらわれ、ドアの脇に立って窓から差す日を浴びながらイヤホンを着けた。聴き慣れたイントロはビリー・ジョエルの『ピアノマン』。生まれるずっと前にリリースされたこの曲が、美里のお気に入りだった。


「最初にピアノ、次ハーモニカ、そのあともう一回ピアノ。イントロ聴くと胸が高鳴るんだよね。どこか懐かしいんだけど色褪せない、いままでもこれからもずーっと大好きな曲」

 美里のイヤホンを片方借りて二人で聴いた。里美は曲よりも、ロングヘアからのぞく恍惚とした美里の横顔を見るのが好きだった。

 病気が治っていたら、いまも二人でイヤホンを分け合って聴いていたのに。窓の外を知らない景色が流れていった。


 到着したのは、赤青白三色屋根の、絵本に出てきそうなテントのような会場で、外観も演出の一つなのか、サーカス見物の実感が込み上げてきた。子供の頃にもサーカスを観たことあるけど動物が出ていた記憶はなくて、バイクがぐるぐる回っていたのだけ覚えている。

 入場口で「あとから来るので」といって2枚のチケットを指定席券に引き換えた。

 土曜のせいか、余裕ありのはずの客席は家族連れで埋まり、指定された席は後方の壁際だった。里美はバッグから取り出したぬいぐるみを隣の席に置いた。なぜかわからないけれど、そうすることを美里が望んでいるような気がした。違ったらごめんと心の中で呟いた。



「トイレ大丈夫?」

 二人で映画やライブに行くと、開演前に美里が冗談交じりに訊いた。初めて二人きりで映画を観に行った小学5年の時、上演中トイレに行きたくなって、ずっと我慢してたけどとうとう我慢しきれなくなってトイレに駆け込んだ。トイレは間に合ったけれど、クライマックスを見逃した。

「一番いいとこだったのに」

 終演後半分呆れて半分笑いながら美里が言った。

「どんなだったの?」

「そのうちまた観る機会あるでしょ。それまでのお楽しみ」

 結局結末はいまも知らないまま。この時以降美里は開演前に「トイレ大丈夫?」と半分本気で半分冗談めかして里美に訊ねた。



「トイレ行ってくるね」

 里美はぬいぐるみに言って席を立った。トイレには行列ができていて、開演に間に合うか不安になったものの、どうにか時間までにトイレを済ませたが、手を洗ってからハンカチを忘れたことに気がついた。

 中学2年の時、美里と遊園地に行った。その時もハンカチを忘れた。

「なんかそんな予感したんだよね。虫のしらせってヤツかもね」トイレから出ると美里は予め2枚用意していたハンカチを貸してくれた。



―美里を置いたままだ。子どもが多いから、いたずらされたりしてるかも知れない―

 急に心配になり、里美は濡れた手をそのまま座席へ急いだ。


 ぬいぐるみは置いた時のまま微動だにせず着席していた。心配は取り越し苦労で済んだけれど、ぬいぐるみの前に何かが置いてある。誰かがごみでも捨てたのかと思ったが、そうではなかった。里美はとっさに周囲を見回し、天井を見上げた。


 それはチョコレートだった。どこにでも売っている普通の板チョコ。だけど里美と美里にとってはただのチョコレートではなかった。



 美里の注文を、盆之胡瓜が反芻した。

「チョコレート、ですか?」


「そう。チョコレート」

 美里に迷いはなかった。


「どんなチョコレートをお望みですか?」


「なんでもいい。普通にその辺で売ってるのでいいっていうかその方がいい。コンビニで売ってる板チョコとか。高級なのじゃなくて全然いいから」


「どうしてチョコレートなんですか?」


「わたしたちずっと友だちだったけどケンカをすることもあった。10年以上付き合ってたらそういうこともあるでしょ。だけどケンカしたあと、罪悪感っていうか、悪かったな、謝りたいなって思うこともあって。わたしだけじゃなくて里美にもあったけど、わたしの方が多かったかな。


 そういう時のために二人で決めたルールがあって。自分が悪かったなって思ったら、お詫びの印としてチョコレートをあげるの。それでそのことはもう終わり。それ以上いいっこなしの仲直りの『ごめんねチョコ』。わたしたちは子供の頃からずっとそうやってきた。チョコレートをあげたらわたしの気持ちが伝わると思う」


「『ごめんねチョコ』ですか」


「小学生の頃に決めて、まだお金もなかったからチョコにして、そのままずっと続いてた。なんかバレンタインデーみたいだけど、愛の告白じゃなくてお詫びの印。わたしと里美、二人だけの特別なチョコレート」


「承知しました。里美さんにチョコレートをお届けします」



 開演を告げるブザーが鳴り、場内が暗転した。ステージサイドに設置された大型スピーカーから曲が流れた。聴き慣れたピアノとハーモニカのメロディ。ビリー・ジョエルの『ピアノマン』だった。


 いつかこの曲をいつもの通り二人でイヤホンを分け合って聴いていたら美里が言った。


「ずっと友だちでいてね」


「えっ?なんて言ったの?」里美は空いた方の耳を向けて聞き返した。


「知らない」


「教えてよ」


「聞こえてなくても同じだから大丈夫」


「一応約束しとこう」里美が小指を出した。


「聞こえてんじゃん」笑みを浮かべて美里は里美の小指に自分の小指を結んだ。


「ずっと友だち」

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