第2話 老婆の約束 後編

 母・佐知代さちよの四十九日法要を終えた帰り道。正面の信号が黄色に変わると、運転席の正雄まさおは停止線に吸い込まれるようにクルマを停車させた。ルームミラーが後部座席のジュニアシートに納まる息子・大樹ひろきを映している。大人しいから寝ているのかと思ったが、神妙な顔で窓の外を眺めていた。四十九日の意味はぼんやりとでも理解しているらしい。


 正雄は小柄な母親に似ず、子供の頃から背が高かった。妻・恭子きょうこの連れ子だから自分に似るはずもないのだが、大樹も幼稚園の背の順は後ろの方で、あと半年ほどで卒園とあって、紺のスモックもジュニアシートも似合わなくなっていた。


「大樹は、誕生日プレゼントは何が欲しいんだ?」

 起きているのを知って、正雄はミラー越しに話し掛けた。結婚前は君付けが、いまは呼び捨てが板についている。法事帰りに相応しい話題でないのは承知で、あくまでも本題に入るための導入だった。


 大樹は2週間後に6歳になる。親子になって初めて迎える誕生日。結婚前だった去年の誕生日は3人でファミリーレストランで食事をして、組み立て式の恐竜の立体パズルをプレゼントした。恐竜にはまっている、と恭子に教わったからで、大人本位で選ぶプレゼントは子供に喜ぶふりを求めがちだが、今年はこういう事情で希望を聞きそびれていた。


「まだ決めてない」

 後部座席から素っ気ない返事が聞こえた。子供心にも法事の後で口にすることに抵抗があるのかもしれない。素っ気ない物言いは正雄に心を許している証拠で、結婚前は口をきくことさえためらいがちだった。まだ一度も「お父さん」と呼んでくれないが、いつか来る日を静かに待っている。


 信号が青に変わると、正雄はアクセルを踏み込み、本題を切り出した。

「そろそろランドセルも買わないといけないなぁ」


 母の佐知代は大樹のランドセルを何よりの楽しみにしていた。自分が買うと言い張り、いくつも取り寄せたカタログを広げて大樹と吟味していた。へそ曲がりな佐知代も、血はつながらなくとも初孫が可愛くて仕方がない様子で、ランドセル姿を見るのを生きがいにしていた。


「『絶対にあたしが買うんだからね。それ以外のものは絶対背負わせないでよ』って、あんなに楽しみにしてたのに」

 助手席で妻の恭子が、義母の口調を真似た。


「残念だったなぁ」

 正雄は前を走る黒のワゴンにランドセルを重ねていた。


「ランドセル姿、見せてあげたかった」

 後部座席を振り返った恭子の目に横顔が映った。大樹は窓外を見詰めている。 


 クルマが停止し、ウインカー音が流れると、場面が切り替わるように会話が途切れた。直進車が途切れるのを待って右折する。音が止んでも沈黙の続く車内、窓外を色付き始めた街路樹が流れていった。


「おばあちゃん、約束守ってくれてる気がする」

 大樹が口を開いた。窓を向いたままなのは照れなのか。何か思うことがあるのかもしれない。


 正雄と恭子は目を見合わせて、すぐに逸らした。下手なリアクションは息子の気持ちを踏みにじりかねない。


「亡くなるって分かってたわけじゃないからなぁ」

 正雄は言葉を濁した。余命いくばくかわかっていたなら先回りして購入しておくこともあり得たが、急性心筋梗塞による突然死だった。ランドセルを買うには早い時期で、遺品を整理しても何も出てこなかった。


「でも約束したから。おばあちゃんはウソつかないよ」

 大樹は、運転席と助手席の隙間から、真っ直ぐ前を向いて言った。


「そうだといいな」

 正雄はフロントガラス越しの空に目を細めた。橙色の夕焼けが車内まで沁みてきた。



 夏の終わりから続いた秋雨がようやく止んだものの、長袖一枚で過ごせる日はわずかばかりで、すぐに上着が必要な季節になった。金木犀の香りが過ぎた頃、大樹の6才の誕生日を迎えた。


 喪中だからと躊躇う恭子に、家族になって初めての誕生日、佐知代も天国で一緒に祝ってくれていると正雄が説くと恭子も納得し、家でつつましくお祝いをすることにした。


 我が家は、正雄が中学生だった頃に佐知代が買った中古の戸建。購入当時すでに築20年を過ぎ、そのうえ平屋だから、安く買えたらしい。仕事を掛け持ちし生活費を切り詰めてまで一軒家を望んだのは、あの年代特有の戸建主義と考えていた正雄だっだが、大学卒業後一人暮らしを始めてから、のちのち同居するためだと思い当たった。

 息子が成長して家を出て行もいつか戻ってきて、息子の家族と一緒に暮らしたいのだと。正雄は結婚を機に我が家に戻った。妻の恭子にも了承を得ていた。


 3DKの間取りは4人で暮らすには十分で、家賃は浮くし共働きだから空いた時間に大樹を見てもらえるのもあった。天邪鬼の佐知代は面倒臭そうにしていたが、本心では喜んでいるのが見て取れ、その証拠に引っ越し当日、ちらし寿司を振舞ってくれた。母親の作るちらし寿司が正雄の好物で、誕生日や入学式、受験に合格した日など祝いごとの度に食卓を彩ったものだった。


 元来子供好きの佐知代は子供相手だと口の悪さも鳴りを潜めた。カルタやパズルで遊ぶにも、押しつけがましくなく楽しませながら文字や数字を教える。お絵描きボードも使いこなし、おかげで大樹は年長の半ばでひらがなの読み書きを覚えた。熟練の教育者のようで、正雄は自分の子供時代を重ね、改めて母に感謝を抱いたものだった。


 当初こそ反対された結婚も、孫可愛さもあって佐知代は妻の恭子とも上手くやり、つつがなく過ごしていた。大樹の成長を誰よりも喜んでいた佐知代だったが、その生活もある日突然幕を閉じた。


 6歳の誕生祝いの食卓には、大樹の好物の鶏の唐揚げとちらし寿司が並んでいた。恭子の作るちらし寿司は佐知代のよりも甘めで、多めの桜でんぶが食卓をピンク色に染めた。好き嫌いの少ない大樹は椎茸もレンコンも残さず平らげ、大きくなるはずだと正雄は頼もしく眺めた。


「大樹は、ちらし寿司好きか?」

 ビールグラスを片手に訊いた正雄に、大樹は首をわずかに傾げて「ふつう」と答えた。


 たしかに、好物に寿司を挙げる子供はいても、ちらし寿司は聞かない。子供の好みはそういうもの。今度回転寿司に連れていこう。正雄は感じそうになった距離感を埋めるようにビールをあおった。


 食事が終わるとケーキの番。予約しておいたケーキ屋で正雄が仕事帰りに受け取ってきたイチゴが並んだ生クリームのホールケーキは真ん中に「ひろきくんおたんじょうびおめでとう」とチョコレートで書かれている。大樹が好きなのはチョコレートケーキと知ってはいても、祝いの場には白いケーキが映える。少しは大人の思惑に付き合ってもらう。


 照れ屋の大樹ははにかみながら、6本のろうそくを吹き消した。リクエスト通り、四駆タイプのラジコンカーをプレゼントした。掛け値なしの笑顔に、正雄は父親になった実感を改めて強くした。


 ケーキを食べ終えると、一切れを佐知代の仏壇に供えた。

「もう1つプレゼント貰えるはずだったのに残念だったな」

 遺影に手を合わせる大樹の背中に正雄が言った。冗談めかしたのはせっかくの祝いの場をしんみりさせないための気遣いだった。


「お義母さんも一緒にお祝いしたかったでしょうに」

 そう言ってから、恭子ははっと気づいて振り返った。

「もしかして、今日の日付じゃない?」


 遺品整理は済んでいたが、女手一つで息子を育てた佐知代に、この家以外に財産などあるはずもなかった。ただし佐知代が寝室にしていた部屋の片隅に金庫が1つ遺されていた。さほど古くはなく、この家と同じ時期に買ったもののようだった。


 小ぶりの金庫は、訓練された番犬のように部屋の隅で佇んでいたが、暗証番号が分からず、そのままにしてあった。鍵業者を呼ぶにも費用はかかるし、価値のあるものが入っていると思えなかった。生前正雄が中身を訊ねたことがあったが「うちに財産なんてあるわけないだろう」とはぐらかされただけだった。


 半信半疑で正雄が金庫のテンキーを押した。今日の日付、大樹の誕生日である1020。カチッと噛み合う音が鳴って金庫が開いた。


「ほらね」

 大樹は両親に笑みを向けた。


 中に入っていたのは真新しいランドセルだった。遺品を整理していた時に出てきたカタログに赤丸がつけられていた黒いランドセル。



「いまは色んな色があるけど、これがいいのかい?」


「これがいい」


「じゃあお祖母ちゃんがこれを買ってあげるからね」

 指切りして佐知代が赤いマジックで丸をつけたランドセルだった。



「背負ってみろ」

「お祖母ちゃんに見せてあげなさい」

 言われて大樹は取り出したランドセルを背負い、仏壇の前に立ってくるっと回って見せた。


「お祖母ちゃんありがとう」

 大樹が言うと遺影の佐知代が笑った気がした。

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