第3話 青年の未練 前編

 墓地を囲う歩道には、背伸びした一つ目小僧のような白い街灯が並んでいた。青白い目で灰色の舗道を見張っているものの夜更けのいまは人足が途絶え、時折塵を掃くような細切れの風が吹き抜けるだけ。


 静寂を破ったのは誰かの嗚咽だった。


 常人には聴こえない声も、超音波を聴くコウモリのように盆之胡瓜には届いていた。盆之は橙色に灯った提灯を携え、街灯の届かない墓の中を探索した。好き放題に伸びた雑草を草履で踏みならす。顔にかかる蜘蛛の巣も慣れたもので立ち止まりもしない。


 やがて提灯が照らし出したのは、人目を憚らず墓石にしなだれかかって泣く男だった。この世の者ではないのは、提灯を向けても影ができないのでわかる。成仏できないのは現世に悔いを残してきたからだが、墓石の支えがなければ崩れ落ちてしまいそうだった。


 盆之に気づき、男は顔をあげた。闇に浮かぶ提灯に目を細めたその顔はまだ若い。20代半ばから後半といったところか。色白で線が細い。不健康には見えないが、体育会でもなさそうだ。もっともすでに死んでいるのだが。


「泣いているのがおかしいですか」

 男は涙を拭いもせず、泣き濡れた顔を盆之に向けた。子供のように感情に任せて泣いた顔だった。


 盆之は首を振った。死が辛くない人間などいない。若ければ尚の事。

「もしよければ、何があったのか教えていただけませんか」


 どうして見ず知らずの人間に教えなければならないのか。そう言いたげに、男は泣き腫らした顔を険しくした。


「盆之胡瓜というものです。成仏できない方が天国へ行くお手伝いをするのが僕の役目です」


「天国へ行くお手伝い?」


「それが僕の役目です。何があったか話していただけませんか?」

 盆之が提灯を地面に置くと、二人の間に薄闇が下り、橙色の灯りが焚き火のように足元を照らした。人類が火を自作できなかった古代の名残か、焚き火は心に平穏をもたらしてくれる。男は白いボタンシャツの袖口で涙を拭った。

「婚約者を残して死にました。結婚式の打ち合わせが終わり、あとは当日を待つだけでした」

 つぶやきが夜の墓石に吸い込まれていた。


 結婚直前に命を落とした。幸せが大きかった分、傷も大きい。


「結婚式場で最後の打ち合わせを終え、居酒屋で乾杯して、幸せを握り絞めるように帰り道を彼女と手を繋いで歩いていました。そうしたらバイクが歩道に飛び出してきたんです。僕は彼女をかばい、バイクにはねられました。彼女は助かりましたが僕は死にました。


 とっさのことですから考える余裕なんてありませんでしたが、後悔はありません。彼女を守ったことは自分でも誇りに思います。でも僕は死にました。飛び出したバイクは居眠り運転でした。運転手は助かりました。なんで僕だけ死ななければいけないのか。こんな理不尽ありますか?受け入れることなんてできるわけがない。


 死んだことも辛いですが、なによりも彼女に会えないのが辛いんです。もう二度と手を繋ぐことも抱き締めることもできない。ウエディングドレス姿を見たかった。彼女をもっと愛したかった」

 溢れた涙が頬を伝って流れ落ちた。愛しい彼女であるかのように、墓石を抱き締め、額を押しつけ声をあげて泣き出した。その声は濁流の川岸に立っているかのように盆之の耳をかきみだした。これほどまでに愛された彼女はよほど素敵な女性だったのだろう。盆之は夜空に浮かぶ一番明るい星を探した。


 涙が収まると、男は脱力してその場に座り込んだ。シャツの袖口で拭った色白の顔は提灯に照らされて橙色に染まっている。男は祈るように組んだ両手に額を押し付けた。

「彼女は僕を忘れてしまうんでしょうか。辛い記憶として蓋をしてしまうんでしょうか。彼女は僕のすべてなんです。僕はこの先ずっと彼女を愛すはずでした。その自信もありました。それなのに・・・。

 僕のことを忘れないで欲しい。それが僕が生きた証です。せめて彼女の心の中には生き続けたい。ずっと彼女に寄り添いたい。そばにいたいんです」


 命に代えて自分を守ってくれた婚約者。彼女が彼を忘れることは生涯ないと盆之には思えた。


「正直に言えば、彼女には僕以外の人を愛してほしくありません。誰か別の男のものになってほしくない。情けないですか?カッコ悪いですか?彼女の幸せを願うのが本当の愛ですか?僕は間違っているのかもしれません。でもそれが正直な気持ちなんです。僕は何のために死んだのか。死んでも死に切れないんです」

 涙をこらえるように下を向いた。

「悲しいだけの人生でしたけど、死んでもいいことありませんね。生きてこその人生です」

 最後の呟きは夜風がどこかへ運んでいった。


「あなたには、他にも何か心残りがあるんじゃないですか」

 男はただひたすらに婚約者を残して死んだことを悔いていた。それは一途な愛であるけれども、どこか依存のようにも感じられた。依存するのは生きづらさを抱えて生きてきたから。「悲しいだけの人生」と言ったように、男には他の影も見え隠れしている。どこか自信を欠いた態度からもそれがうかがえた。


 男はふっと頬を緩めた。おかしいのではなく、心の内を見透かされたからだ。

「僕は幼い頃、母親に虐待されていたんです。ずっと母親のストレスの捌け口として生きてきました。母親はヒステリックで、いつもストレスを撒き散らしている人でした。感情のコントロールができなくて、気に入らないことがあると、僕のせいじゃなくても僕に当たりました。ことあるごとに罵られ、頭を叩かれ、頬を叩かれ、壁に顔を打ち付けられました。口を切って血の滲む僕を見て笑った顔を今も忘れられません。普段は冷たいけどあの時だけは優しかった、そんな経験もありません。愛情も優しさも欠片すらもらえませんでした。当時はそれが虐待と認識できず、ただただダメな人間だと自分を責めました。親は正しい、子どもは疑わないでしょう。


 大人になってから虐待だったと理解できるようになりました。自分は悪くなかった、母親がおかしかったんだと。でもこんなことは人には言えないんです。誰も聞いてくれませんから。『そんなこと言ったら駄目だよ』『本当は子供のことを想ってるよ』『子供のことを想わない親なんていないよ』と、僕の方が、親を悪くいう駄目な子どもとレッテルを貼られるだけなんです。虐待は『やったもん勝ち、やられ損』。世間は虐待する親の味方です。辛い過去は自分ひとりで抱えるしかない。僕はずっと孤独でした。


 大学を卒業して一人暮らしをはじめてようやく母親から解放されました。渇き切った心に水をくれたのが彼女でした。初めて僕を愛してくれた人です。僕も人を愛したのは初めてでした。彼女は僕の話にしっかり耳を傾け、受け止めてくれました。


 生まれて初めて人生に光が射して、ずっと不安定だった情緒が初めて安定しました。彼女は僕に自信をくれ、心を落ち着かせてくれました。心の底から愛し合い、この幸せはずっと続くと疑いもしませんでした。


 それなのに、結婚を目前に僕は死にました。僕は何のために生まれてきたのか。不幸になるためですか?神様なんていないっていうのがよくわかりました」


 虐待を受けた子供は自信を持てず、自己肯定感の低い大人になりやすいが、この男も同様だった。それを変えてくれたのが彼女だった。愛に飢えた彼が、大きな優しさと深い愛情に出会えた。それなのに。彼の背負った運命が、盆之もうらめしかった。


「あなたは愛する人を守って亡くなった。天国へ行く資格があるんです。行かなければいけない。ずっとここにいたら魂が腐ってしまうんです」


「天国へ行って何になるんですか?僕のすべては終わったんです」


「ずっと辛い思いで生きてきて、ようやく幸せが訪れたのに死んでしまった。死んでも死にきれない。その気持ちは理解できます。ですがもうこの場を離れなければいけない。そうしないともう2度とこの世に帰って来られなくなる。天国へ行けば年に一度、8月に帰ってくることができます。あなたは彼女に逢えるんです。彼女にはあなたは見えませんが」


「彼女には僕が見えない?それじゃあ意味がないじゃないですか。もういいです。僕はこのままここにいます。どこにも行きたくない」

 駄々をこねるように顔を振った。


「あなたは死んでしまった。この事実は動かしようがないんです」


「彼女と出会い、愛しあったことが僕の人生の全てでした。全部間違いだったんですか」


 今度は盆之が首を振った。

「間違っていません。あなたの愛はたしかにこの世に存在した」


「僕はどうすればいいんですか」

 男の口から漏れるのは嘆きだった。


「天国へ行くしかありません。そのお手伝いをするのが僕の役目です」


「何をしてくれるっていうんですか」


「あなたに代わって贈り物をします」


「贈り物?」


「彼女に贈りたいものがあれば、あなたに代わって届けます」


「それなら僕が届けたい」


「残念ですが、それはできません。あなたは死んでしまったので」


 男の顔から感情が消えていった。現実を受け入れようとしているからだが、それは諦めでもあった。


「なにか希望はありますか」


「彼女に渡して貰いたいものがあります。あなたに頼まなくてもいずれ彼女に届くと思いますが、どうしても彼女に受け取ってほしいんです」

 男は盆之に彼女へのプレゼントを告げた。


「僕が責任を持って彼女にお届けします。天国へ旅立って行っていただけますね?」


「そうすれば毎年8月に彼女に逢えるんですね?向こうからは見えなくても」


「お約束します」


「わかりました。本当はしたくないんですが、どっちにみちそうするしかないみたいですから」

 苦笑だったが、初めて見せた穏やかな表情だった。


「それでは、約束の印にこの火を吹き消していただけますか」

 盆之がかざした提灯を男がふっと吹き消すと、辺りが暗闇に包まれた。

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