第4話 青年の未練 後編

 結婚式を10日後に控えた最後の打ち合わせを終え、文人ふみと玲子れいこは居酒屋で乾杯した。記念にと値の張るレストランを提案した文人に、美味しい料理は当日のお楽しみ、これからは何かと物入りになるしと玲子が居酒屋を選んだ。


 駅前にある店に入ると、法被姿の店員の威勢のいい「いらっしゃいませ!」で迎えられた。何度か来たことのある知った店。照明は煤けて、年季の入った木製のテーブルは黒ずんでいるけれど、さっきまでいた結婚式場とは違うアットホームな雰囲気で、文人は席に着くなり椅子にもたれかかって息をついた。


「疲れた?」訊いた玲子に「ちょっとね。だけど次はもう本番かぁ」

 疲労と充実感に不安も混じり、文人はおしぼりを瞼に押し付けた。


「でもホント宮本さんで良かったね」

 玲子は担当のウエディングプランナーを名を挙げた。


「ほんとそう。結婚式なんて初めてで全然勝手がわかんないけど、ああいう人がいてくれると助かる。まだ若いけどしっかりしてて、ホントあの人でよかった」

 表情を緩めた文人に、玲子もうなずいた。


 そこへ飲み物を運んできた学生風の店員に文人がおどけて「オススメあります?」と訊くと、厨房に向かって「店長!今日のオススメは?!」と声を張り上げた。「今日は、エビフライ!」と返ってきて、それを注文し、文人はビールで玲子はウーロン茶で乾杯した。


 二人は時々居酒屋を訪れた。玲子はナンコツ唐揚げとか餅チーズ焼とか居酒屋のメニューが好きで、誘われれば喜んで付き合った。酒の飲めない玲子に文人が無理強いすることはなかった。酒を飲めないことが魅力の一つだった。


 お待ちかねのエビフライが運ばれてきた。ちょうど1皿2本。安い店だと衣だけ厚いこともあるけれど、これはエビの身がしっかり詰まっていて、揚げたてをタルタルソースをつけると有名洋食店のように美味しくて、頬張り顔で見つめ合った。

「居酒屋にしてよかったでしょ?」言った玲子に「ほんと大正解。さすが玲ちゃん」と文人は笑顔とピースを並べた。


「家族で居酒屋って憧れるなぁ」赤ら顔で文人が言った。酒好きの割に強い方ではなく、少量でも顔に出る。「たまに見かけるじゃん、子連れで来てるの。ああいうのいいなぁって思うんだよね。ファミレスじゃなくて居酒屋。なんでも話せる関係っていうか、垣根がない感じでさぁ、家族の絆を感じるんだよね」


 何気ない会話の中に、時折文人の抱えた寂寥を感じることがあった。玲子にとっての当たり前が、文人にはそうではなかった。

「いつか家族で来ようよ」


「そういう時に『俺の分も食べろよ』ってこどもに自分のエビフライをあげる父親になりたいんだ」とテーブルの上の空き皿に微笑んだ。文人は自分が得られなかった愛情を、玲子とこどもに注ぎたくて仕方がなかった。


 帰り道で事故に遭った。文人は玲子をかばって亡くなった。違う店にしていたら事故に遭わずにすんだかもしれないと考えることもあったが、あの日文人が見せた笑顔まで後悔したくなかった。



 結婚式に向けた話し合いで、母親を招待しないと言った文人に、玲子は反対しなかった。文人の母親と対面しておらず、両家の顔合わもしなかった。それでも玲子の両親が結婚を認めたのは、事前に娘から境遇を聞かされていたからで、結婚の挨拶に来た文人を温かく迎え入れた。文人の繊細さが、両親の目には弱さよりやさしさに映ったし、嘘で誤魔化そうとしない正直さも心地よかった。


 母子家庭の一人っ子で育った文人が、母親から受けた仕打ちを玲子に打ち明けたのは付き合い始めて半年経った頃、その時も居酒屋だった。駅ビルの2階にあるチェーン店で、離れたお座敷から学生が馬鹿騒ぎする声が聴こえた。入学シーズンだった。

 2杯目の生ビールを店員がテーブルに置いたあと文人は訥々と語り始めた。玲子はこの日もウーロンだった。酒のはずみを装ったが初めから決めていた、玲子の目にはそう映った。自分のことを包み隠さず話しておきたい。不器用だけど誠実な文人がそこにいた。


 理性の欠けた母親はストレスがあると文人に当たった。髪の毛を鷲掴みにして平手打ちを食らわせ、壁に叩きつけた。加減はなく躊躇もなかった。高所から飛び降り、足を痛めて泣きながら帰宅した時も、助けを求める文人は玄関に放置された。「足が痛い。助けて」と懇願しても知らんぷりで、一人夕食を食べる母親を玄関で倒れたまま眺めていた。翌日踵の骨折が判明した。命に係わる怪我だったらとしても放置されたに違いない。そう思うと生きるのが怖くなった。


 普通に会話ができない人で、口を開けば貶すか馬鹿にする罵るか。ストレスから中学時代はずっと下痢が続いた。ひどくなると食事の度に下痢をして、腹が減って夜食を食べたらそれも下痢になった。

「病院に行きたい」と訴えても「何言ってんのよ!」と返事にもならない罵倒をされるだけだった。

 こんな身体では絶対に早死にすると将来を悲観し、生きる自信も失った。何に対しても怯えるようになり、学校に行けば先生に怒られることに怯えた。怒られることが怖いのではなく、小さな災厄にも抵抗できないほど心が弱っていた。

 死にたいと思ったことも一度や二度ではなかったが、死ねば己の素行を隠ぺいし、悲しみに暮れる母親を演じるに違いない。恨みを綴った遺書を残しても真っ先に母親が見つけて処分する。それでは思う壺だから死ぬわけにはいかない、とどうにか踏み止まった。


 どうしようもない落ちこぼれだと自分を責めて生きて来た。全ての人間がつながったコミュニケーションの蜘蛛の巣から、一人だけ漏れているような孤独感にさいなまれた。自分の体が、実際の身長よりも30センチも40センチも小さく感じた。

 大人になって少しづつ自分の置かれた環境のおかしさに気づいた。どうしてあそこまで無慈悲に鞭を振るえたのか。反省や後悔を抱く人間なら絶対にできず、何を言っても無駄だった。

 今日までよく生きてこられた。母から受けた仕打ちを振り返る度に同じ感想に行きついた。


 心の傷は後を引く。親子であっても加害者と被害者に代わりないのに、世間は親を神聖化し、親の肩を持つ。結果虐待は「やったもん勝ち、やられ損」になってしまう。


「言い訳とか泣き言とか思われるかもしれないけど」

 玲子にそう評価される覚悟をしての告白だった。話し終えると温くなったビールをあおった。他人に隠して生きて来た文人は、実際に泣き言呼ばわりされた経験があったわけではなかったが、世間を吹くそういう風に、否が応でも皮膚を焦がされた。


 いつも笑みをたたえる文人が初めて見せた思いつめた表情。両親の愛情を一身に受けた玲子には共感の乏しいことだったが、ふとした時に感じる文人の自信のなさの理由を知った。優しさの理由も知った。


「ふみくんは悪くないから。何も悪くない。私の気持ちは何も変わらないから心配しないで」

 玲子が言うと、文人の顔に明かりが灯った。

「ありがとう。これからもっともっと玲ちゃんのこと大切にします」


「よろしくお願いします」と一礼した玲子に「何があっても俺が守るから。これからもよろしくお願いします」文人もテーブルに両手をついて頭を下げた。二人で笑みを見せ合った。



 文人が死去し、結婚式はキャンセルとなった。加害者側との交渉は弁護士に任せ、いくらか平静を取り戻した玲子は結婚式場を訪れていた。親身になって打ち合わせをしてくれたウエディングプランナーに挨拶しておきたかった。


 何度も足を運んだ結婚式場の前で、玲子はすくみそうな足を決意を込めて踏み出す。平日昼間の式場は閑散として、入り口を入った正面にある噴水の音がいつもより騒がしく聴こえた。


 担当のウエディングプランナー・宮本真由みやもとまゆとは、1歳しか違わないこともあって打ち合わせを重ねるうちに気心が知れていたが、事故後に会うのは初めて。絶やすことのなかった笑顔も、この日は神妙な面持ちで、メイクは薄くアクセサリーも着けていない。

「素敵ですね」と言った玲子に「ありがとうございます。でもこれちょっと高かったんですよ」と苦笑まじりに答えたピンクベージュのネイル。職業柄派手にはできないが、指先はきれいにしていたい。そんな気遣いが感じられたネイルも今日はしていない。彼女の気遣いに、この人で良かったと玲子は改めて実感した。


「色々とお世話になったのにこういうことになってしまって」

 挨拶したいと連絡した玲子だったが、いざ対面すると何から話せばいいのかわからなくなった。宮本は静かに首を振った。


「私のわがままにも付き合っていただいのに」

 玲子は文人に内緒でサプライズを用意していた。余計な手を煩わせることになったが宮本は快く応じてくれた。それも披露できずじまいになった。


「文人さんにお伝え出来なかったのは本当に残念でなりません」

 宮本はそう言うと、仕切りなおすように正面の玲子をすっと見据えた。

「実は今日は玲子さんにお渡ししなければならないものがあるんです。いつか連絡をくださると思ってお待ちしていました」

 差し出した箱は、純白の縦長で中身はアクセサリーだと想像つくが、玲子にはそれが何か見当がつかなかった。


「サプライズを用意していたのは玲子さんだけではないんです。文人さんも玲子さんに内緒で準備されていたことがあったんです。それがこれでした」

 宮本に促され、玲子が箱を開けると入っていたのはネックレスだった。結婚式の当日、ウエディングドレスと一緒に身に付ける予定だったものだ。


「実はこれはレンタルのものではないんです。文人さんは結婚式当日、玲子さんに何かプレゼントしたいと仰いました。ウエディングドレスはレンタルだから何か記念になるものを贈りたいと。それがこのネックレスです」


 それでもまだ飲み込めなかった。このネックレスは玲子自身がドレスと一緒に選んだレンタルのものだったからだ。


「これは玲子さんがお選びになったものですが、文人さんが選んだものでもあるんです。文人さんは玲子さんの好みをよくご存じで『玲ちゃんはこういうのが好きだから』とご自分で選んで購入されました。

 それをレンタルのものに交ぜたんです。文人さんの遊び心でした。そしたらその中から本当に玲子さんはこれを選ばれた。もし違うのを選んだら、どうにかしてそれにしてもらおうと、あれこれいいわけを用意していたのですが、迷わずそれを手に取った。文人さんの嬉しそうな顔が今も忘れられません」


 その時の記憶が玲子によみがえった。いくつもの石が散りばめられた二連三連の豪華絢爛なネックレスの中に交じった、シルバーのチェーンに一粒パールのシンプルなこのネックレスが目に留まった。自分の好みにぴったりだし、一途な気持ちを表しているようで結婚式に相応しく見えた。これに決めた瞬間文人が零れそうな笑みで宮本と目配せをした。あれはそういうことだったのか。


「式場へ向かう直前、ウエディングドレスをお召しになった玲子さんに、仕上げにこのネックレスを文人さんがおつけして入場する。そういう計画でした」


 顔をほころばせたタキシード姿の文人が玲子の目に浮かんだ。


「お着けになられますか」


 化粧鏡を置き、宮本が後ろに立ってネックレスを首に回すと、玲子は息を飲んだ。その感触に覚えがあった。首筋に残る轍をなぞられているような、それはたしかに文人の指先だった。


「とてもお似合いです」背中で宮本の声がした。


「こんなに素敵なプレゼントをくれた彼に、私は大切なことを伝えられませんでした」

 俯く玲子の肩に宮本が手を添えた。

「私もそれは本当に心残りです。文人さんが知ったらどんなに喜んだか。喜ぶ顔が見たかった。生まれてくるお子さんが大きくなったら伝えてあげてください。あなたのお父さんは二人の命を守った優しくて立派な人だった。あなたの命はお父さんの贈りものだと」


 玲子はお腹に触れた。胸元で一粒の真珠が輝いていた。

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