第1話 老婆の約束 前編
湖底のような幽暗に橙色の灯りが一つ、群れからはぐれたクラゲのように漂っていた。無論クラゲではなく、ろうそくの灯る提灯を提げた男が一人、夜更けの墓地を散策していた。
特段暑くはなかったが、いつもより夏が長く感じられたのは、厚みのないぶん平たく延びたのか。それもようやく終わりに近づき、体内時計の針が夏と秋の間で揺れ動いている。
気配に気づいて足を向けた。街灯の届かない墓地の中を提灯を頼りに歩を進める。柳の葉に頬を撫でられ、無垢な小石を蹴飛ばした。草履が敷石につっかかっても転びはしない。雪道に慣れた北国の人のように足取りはたしかだった。
やがて提灯が照らし出したのは老婆だった。華奢な体躯を、猫背がなおさら小柄に見せた。真っ白に染まった頭、年の頃は七十すぎか。この頃は見た目の若い老人も増えたが、そのシワには重ねた苦労が刻まれているようだった。
老婆は小さな体を墓石に隠すようにしてカップ酒をあおっていた。隣の墓に同じ酒が供えられているから、そこから1つくすねたようだ。この世の者でないことは、提灯を向けても影ができないことで分かる。老婆は提灯に気づき、ちらりと顔を向けたが、すぐに酒に戻った。
成仏できないのは、耐え難い心残りを抱えているせいだが、この老婆の心残りはなんだろう?
「こんばんは」
盆之は「高橋家之墓」と刻まれたその墓の前に立って声を掛けた。背の低い横広の「洋型墓石」も散見されるが、「高橋家之墓」は従来型の「和型墓石」だった。
「あんた、わたしが見えるのかい?」
老婆は墓石の横からぬっと顔を出し、たるんだ瞼を開いた。
「そのようですね」
「なんか用かい?」
胸元をぽりぽりかきつつ盆之の全身を一瞥した。風貌から何者か推察しているようだ。
「立派なお墓ですね」
老婆の頭と似た灰色の、光沢のある新しい墓石は、白い文字が提灯の橙色に染まって見えた。
「用がないなら、よそへいっとくれよ」
老婆は面倒くさそうに吐き捨てると、墓石に隠れてカップ酒をあおった。
「お婆さんは、どうしてここにいるのかご存じですか」
遠回しだが、死んだ自覚があるのかという質問だ。
ぬっとしかめっ面を出した。
「自分のことぐらいわかってるよ。だからこうして酒を呑まなきゃやってられないんだ」
ぐいとあおったカップ酒を墓石の上に置くと、鹿威しに似た乾いた音が鳴った。
「残念ですが、あなたは死んでしまった。いつまでもこの世に留まっていたら、天国に行けなくなってしまうんです」
「別に構わないよ」
中身が少なくなったカップを見つめて言った。
「このままでいると、魂が腐ってしまうんですよ」
「それがなんだってんだ。死んだんだから、どうなっても構うもんか。わたしのことなんかほっといてどっかいっとくれよ」と手を払った。
「魂が腐ってしまうと、天国に行けなくなって、もう二度とこの世に戻って来れなくなるんです。それでもいいんですか?」
「それじゃあまるで天国に行ったらこの世に戻って来れるみたいじゃないか」
老婆はせせら笑った。あの世へ行かせるための方便と受け取ったようだ。
「お盆の話です。死者はみな、年に一度この世に返ってくることができる。本当のことなんです」
カップ酒に伸ばそうとした老婆の手が止まった。
「蝉の鳴く頃にこの世に返ってきて、逢いたい人に逢えるんです。向こうはこちらに気づきません。ですが、お婆さんは逢いたい人のそばに来ることができるんです」
「本当かい?」
熱のこもった、それでいて震えるような声が出た。
「本当です。あなたは現世に何か大きな心残りを抱えているようですね。それで天国に旅立てずにいる。私でよかったら話していただけませんか」
盆之は膝を折って視線を老婆に合わせた。
「わたしだって、いつまでもここにいてはいけないことぐらい分かってるんだ。だけどこどもが心配で心配で」
物憂げな顔で言ったものの老婆の子ならそれなりの歳のはず。それが気掛かりで成仏できないとはどういうことだろう。過保護な親には見えなかった。
「息子は私が四十の時の子でね、今年三十になったんだ。私が一人で産んで育てた、たった一人のこどもなんだ。この頃は未婚の母も珍しくなくなったけど、昔は白い目で見られたもんだよ。それでも一人で一生懸命育てたんだ」
息子を語る老婆は母親の顔をしていた。
「それなのにさ、十も年上のコブ付きの女と結婚したんだよ。よりにもよってなんであんな女を選んだのかね」
息子がちょうど自分が出産した歳の女性と結婚したということか。その結婚生活を憂えているようだ。
「それほど愛する人に巡り会えたんじゃないですか」
「どうだかね。わざわざそんな女と結婚することないのにさ。よそで恥かかないよう厳しく躾けたから気立てのいい子に育ってくれて、ちゃんとした大学出てちゃんとしたところに勤めて。もっと若くていい相手がいくらでもいるだろうに、騙されたんじゃないかね。わたし一人じゃ心配だっていうんで同居を始めたんだけど、あの女、わたしの前ではいい顔をして、気を使ってせっせと働いていい嫁のふりしてるけど、裏では何言ってるかわかったもんじゃないよ。それに新婚なのにもうこどもがいるんだよ。いきなり5歳の男の子の父親になったんだ。血の繋がらないこどものお父さんだよ」
老婆にとっては血の繋がらない孫になる。
「こどもにしたら、知らないおじさんが父親になったんだ。どう思ってるのかね。仲良くできるもんかね。一応上手くやってるけど、腹の中はわかったもんじゃないよ。夫婦共働きでさ、二人とも手が離せない時はわたしが面倒みてたんだよ。それでわたしにすっかり懐いて『おばあちゃん』って呼ぶんだけど、血がつながってないのわかってないのかね。私が死んで、これから誰が面倒みるっていうんだい。おちおち死んでられないんだよ」
そういって老婆は肩を落とした。
心配と言った「こども」は息子ではなく、孫を指すようだ。
息子夫婦と同居し、孫の面倒をみていた。天邪鬼な性格で、悪態をついても本音は血は繋がらなくても孫が可愛くて仕方なかったのだろう。成長をもっと見たかったということか。
「あなたの息子なら、きっといいお父さんになりますよ。お孫さんもしっかり成長してくれるはずです」
「そうだといいけどね」
「天国へ行けば1年に一度お孫さんに逢えるんです」
すっと顔を上げた老婆に盆之が続けた。
「私は成仏できない方が天国へ旅立てるようお手伝いをしているんです」
「天国へ?お手伝い?」
「この世に残してきた人に、あなたに代わって最後の贈りものをお届けします。心残りを晴らして天国へ旅立つ、そのお手伝いです。誰かに何か贈りたいものはありませんか?」
盆之の問い掛けが命中したように、老婆が墓石から身を乗り出した。
「ランドセル」
その拍子にカップが落下し、こぼれた酒が墓石を濡らしたが気に留めず続けた。
「
老婆は足元に転がったカップを拾いあげ「勝手にいただいちゃって悪かったね」と言って隣の墓に戻した。
老婆の胸につかえていたのは孫と約束したランドセルだった。
「小学生になるんですね」
「春から1年生になるんだよ」
老婆の顔には嬉しさと寂しさが入り交じっていた。4月の入学式。孫の晴れ姿を楽しみにしていたのが盆之にも痛いほど伝わった。
「わかりました。あなたの最後のプレゼントはランドセル。お相手は孫の大樹君。よろしいですね?」
「本当にあげてくれるのかい?」
「お祖母さんからのプレゼントと分かるように、私が必ずお孫さんにお届けします。ですから天国へ行っていただけますね?」
「それなら思い残すことはないよ」
「約束していただけますか?」
「約束するよ」顔の前に小指を立てた。
「それではこの火を吹き消してください」
盆之が提灯をかざした。老婆の顔が橙色に染まった。
「指切りの代わりです」
老婆が息を吹きかけると、灯りがふっと消え、辺りが闇に包まれた。
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