第66話 彼女は僕にとっての花で、僕は彼女にとっての蕾
【前回までのあらすじ】
喫茶店オーシャンレインで何かを決意した四十万さん。
彼女の芯に触れる問題なのだと確信する十蔵くんは彼女の後に続いてゆく。
――――――
オーシャンレインを出る時に小波さんが「ファイト」と声をかけてくれた。
僕と四十万さんは揃って店を出ると空に昇る太陽に目を細める。
「十蔵くん」
「ん?」
「連れていきたい所があるの」
「うん」
僕がトイレに行ってる間に何かを話していたふたり。そんな四十万さんの目はいつもと違って、不安そうな眼差しで僕を見つめる。
なんとなく、なんとなくだけどこれから四十万さんの大事な部分に触れるのだと確信した。
男子会で言われた「婚約者」がいるのかも。
というのが僕の一番濃厚な予想。
今から婚約者の所に行って「あなたとの関係はお遊びだったの」と彼女に言われたら僕は立ち直れないと思う。
いや、四十万さんに限ってそんな事は言わないと思うけど。
歩くスピードがいつもより遅く感じる。
まるで彼女の心の葛藤のようで僕はそれに合わせるように歩く。けれど、なんだかいつもと違う部分がある気がする。
そう、それはいつも彼女の体温を感じていた手が空を切っていた。触れてはいけないかもしれない、けれど彼女の手の温もりを知ってしまった僕は自分の手をそっと彼女の小指に触れさせる。
「……」
一瞬の驚きとビクッとした目をした彼女に僕は強い眼差しと共に握る手を離さなかった。
「い、いつも繋いでたから」
強い意志とは裏腹に言葉はしどろもどろになっていた。けれどそれが良かったのか分からないけど、彼女はクスリと笑い「うん」と短い返事の後、僕の手を僕以上の力で握り返した。
――――――
白百合町にある総合病院に僕は佇んでいた。
電車を一駅だけ乗った。
彼女が住まう町。
そこにある大きな病院の前に僕は佇んでいる。否、彼女と一緒に佇んでいる。
心臓がどこか別の場所にあるような感覚の中、予想外の場所に言葉は無にも出てこなかった。
「入ろ」
「えっ、あ、うん」
彼女はどこか慣れた様子で「休日出入口」と書かれた案内板の方へ僕を誘う。
「こんにちは面会の……」
「あら、八重ちゃんじゃない。いつもの所に書いてもらって大丈夫よ」
受付の人は四十万さんの顔を見ると慣れた様子で対応している。それだけで彼女がどのくらいの頻度でここに通っているのか想像出来てしまう。
「今日は同伴者がいるんですが」
「じゃあここにお願いね。それでこれは面会者用の名札」
手慣れた様子で受付の人とやり取りを終えた四十万さんは僕に名札を渡す。受け取る時に少しだけ彼女の指が震えていたけど僕には気の利いた言葉は出てこない。出てこないけど、そっとその手を握っていた。
「んっ。こっち」
「うん」
手を引かれた僕は病院特有の匂いがする廊下を進みエレベーターで上へと向かう。無機質な機械の音が今の彼女の心境を表しているようでいたたまれない。それでもここに連れてきてくれた意味を知るまでは絶対にこの手を離さないと心に決める。
エレベーターを降りると直ぐにナースステーションがある病院だった。
今日がゴールデンウィークという事もあってか、病院の廊下では子供たちがお父さんと一緒に、はたまたご婦人が旦那さんと一緒にそれぞれの時間を過ごしていた。
「十蔵くん、こっちだよ」
ナースステーションへ軽くお辞儀をした僕達は彼女の案内で廊下を進む。
「あら八重ちゃん」
「こんにちは」
「八重おねちゃんまた遊んで!」
「今度ね」
病室を通り過ぎる度に四十万さんの姿を見つけた患者さんが彼女にアレコレと話している。
それを見て僕は衝撃だった。
学校ではあまり自分から口を開かない彼女がこんなに穏やかに他人と話しているのは見た事がない。
僕もまだ一ヶ月と少しの付き合いだけれど、こうして彼女の新しい一面を見る事ができて嬉しいと思う。
「八重おねーちゃん、そのひとだれ?」
「うぇへへへっ。だれだと思う?」
「う〜んっとね。わかんないっ!」
「おおきくなったらわかるよ」
お母さんに手を引かれた小さな女の子が四十万さんの前でそんな事を言う。彼女はしゃがんで目線を合わせて小さな女の子に微笑みかける。
きっと子供が産まれたら四十万さんはこうやって育てていくんだなぁ。なんて考えてしまうほど、その光景は暖かく慈しみ深かった。
ナースステーションをぐるっと回った反対側の一室の前で立ち止まった。
「ふぅ〜、すぅ〜、はぁ〜」
彼女は空いている手を胸に当てて深呼吸をする。その光景に緊張して僕も真似して深呼吸をした。
「入るよ十蔵くん」
「はい四十万さん」
開け放たれたスライド扉。
けれど彼女はノックをひとつして先に進む。
無言のまま彼女に促されて病室の中へ入っていく。中には誰も居ないのではないかと思えるほど静かだった。いや、僕の心臓の音がうるさすぎて考える余裕が無いのかもしれない。
だって僕は病室に入る前に見てしまったから。
彼女がベッドの横で立ち止まったのを合図に僕も意を決して顔を上げる。
「…………」
「…………」
「…………」
僕に言葉は無い。
彼女に言葉は無い。
病室の住人にも言葉は無い。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。
心臓の音と一緒に呼吸が早くなってる気がする。
気を抜いたら呼吸さえ止まってしまいそうな圧迫感を僕は味わっていた。
「お父さん、十蔵くんを連れてきたよ」
目を瞑ったままの男性に四十万さんは微笑みながら一筋の涙を流した。
僕は息を飲む。
病室の前で見たネームプレートには彼女の苗字が書かれていたから。
――――――
フロアの一角に来客者も使えるスペースがある。
カウンターから見える空を眺めながら僕の心は得体もしれない不安に押しつぶされそうだった。
「暖かいお茶でいい?」
「えっ! あ、はい、ありがとうございます」
あの後、彼女はゴールデンウィークにあった出来事をお父さんに一方的に話して僕をこの場所に連れてきた。
「驚かせちゃってごめんね」
「……う、ううん。大丈夫だよ」
本当は大丈夫ではない。
家に帰って寝込んでしまいたいほど気が動転していると言ってもいい。
「順を追って話したいんだけど、いい?」
彼女は僕の隣に座ると真っ直ぐに声をこちらに向ける。当の僕は彼女の方を向けずにいた。目を合わせるのが怖い。
病院に入った時の気持ちとは打って変わって臆病になっている。僕はどんな顔をして彼女に向き合えばいいんだろう。
彼女は初めから普段通りだった。
出会いこそ特殊だったけど、クラスで見る彼女は普段通りだった。
おかしな所は無かった。
いや、性格的に少し偏った所はあるけれどそんな素振りは見せなかった。
遊園地に行った時、家族の事も話してくれたじゃないか。
「お父さんが、お母さんが」
って。
普段通りに。
何も変わらず。
いつも通りに。
それなのに僕は浮かれて、彼女の事が好きだ。次はどこに遊びに行こう。これは喜んでくれるかな、なんて。
彼女の家族が大変な目に遭ってるのに、そんな事ばかり考えていた。
「十蔵くんこっちを向いて」
「……っ」
思考の渦に飲み込まれそうになった時に彼女の柔らかな手が僕の頬を優しく包む。
「こっちを向いて。私は話したいの」
「……はい」
カウンター席の椅子を僕の方へ近づけて彼女は真剣な目で僕を見つめる。その瞳に吸い込まれるようになりながら僕もようやく聞く決心がついた。
そうだ。
僕はまだ何も知らない。
彼女から何も聞いていない。
僕が勝手に塞ぎ込んでいただけで、彼女はお父さんの前では明るかったじゃないか。
「私と初めて逢った時の事覚えてる?」
「へっ?」
聞く態勢になっていた僕の体勢はがくっと落ちてしまいそうになる。
「し、四十万さんと初めて逢った時?」
「うん」
「それは、入学……」
入学式の時と言おうとして言葉を途中で飲み込んだ。
こんなありきたりな答えを彼女は問たのではないとなぜか分かった。
僕は入学式以前にあった出来事を走馬灯のように思い出しながら、ある一点の光景が蘇ってきた。
『うぇへへっ』
彼女の独特で特徴的な笑い方。
その笑い方を僕は以前聞いた事がある。
「入学……試験の時」
あれはそう。
僕が雪で遅れた入学試験の時だ。
その時に遅刻してきた人を集めて試験をした。
そしてお昼休憩の時に、僕はひとりの女子生徒にお弁当を分けたのだ。
「思い出した?」
はっと顔を上げる。
「えっと、あの時の女の子が四十万さんなの?」
「うぇへへっ」
間違いない。
特徴的な笑い方、少しハニカム仕草はあの時の彼女とそっくりだ。
でも、それならなんでこんなに。
「あの、前は眼鏡と三つ編みだったんじゃ」
あの時の四十万さんと今の四十万さんを繋ぐのは笑い方しかないのでは無いかと思うほど変わっている。いや、これは変わったと言えるのだろうか。
「今は誰かさんをもっと近くで見たくてコンタクトにしてるし、あの時は寝癖が酷かったからね」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。
「元々中学生の時は三つ編みだったし、眼鏡って気候に左右されやすいからね。高校デビューってやつでした」
明るく笑う彼女に僕の口はパクパクとしたまま。
「十蔵くん、あの時はお弁当ありがとうございました」
「あ、いや、気にしないで。僕も持て余してたから」
そう言った彼女はとても澄んだ声をしていた。
「あの時ちゃんとお礼が言えなくてごめんなさい」
「大丈夫だよ」
「私を気遣ってくれてありがとうございます」
「そんな大袈裟な」
彼女は僕の手を自分のおでこに当てながら懺悔でもしているかのように続ける。
「おばあちゃんを助けてくれてありがとうございます」
「えっ、おばあちゃん?」
突然の単語に聞き返すけれど彼女はまだ続ける。
「お父さんの命を救ってくれてありがとうございます」
「……」
彼女は嗚咽混じりに言葉をこぼす。
「私達を……救ってくれて……ありがとうございます」
「本当に、ありがとうございます」
僕の手が彼女の涙で濡れていくのを僕は見ていた。その涙の意味を彼女は「全てあの日の出来事」として語った。
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