第44話 覆った水でさえアナタは愛してしまうのね

 学校に行くのが待ち遠しい。


 そう思えるようになったのはやはりあの子との出会いがあったから。


「うぇへへ。今日は一段といい笑顔だね」

「顔に出てた?」

「うん」


 並んで歩く通学路に靴音がふたり分。

 僕の歩幅に合わせてくれる黒髪の同級生は「今日の気分はライムグリーンかな」といつものお決まりの言葉を奏でる。


「僕の気分は夏色かもね」

「アッツアツだね」

「だね。ふふっ」

「うぇへへっ」


 夏が近付くこの陽と気温の高まりが僕は好きだ。


 遊園地デートを通して彼女とも友人達とも距離を縮められたと感じた僕は、ある決意を胸に秘めていた。


「あのね四十万しじまさん」

「ん? 結婚の申し込み?」


 ん?

 なんだって?


「えっと……え?」

「聞こえなかった?」

「ちょっと風が強くて」


 嘘です聞こえてました。


「なら耳元で囁いてあげようか?」

「だ、大丈夫だから〜」


 その後、彼女は僕の耳が美味しそうと訳の分からない事を言い出して追いかけてきた。結局登校中に目的の言葉を言えずに校門を潜ってしまう。


「あっ! おはよう矛先ほこさきくん」


 下駄箱で先に来ていた矛先くんを見つけたので声をかける。通学カバンには僕があげたキーホルダーと元から着いてたお守りらしきものが見える。


「おォ二句森にくもり。元気そうだな」

「うんっ! 矛先くんはちょっと疲れ気味?」


「元からこんな顔だからよォ。気にすんな」

「そう? あっ、そうだ。朝ごはん食べた?」

「いや、サメ野郎に呼ばれたから食ってねぇな」


 サメ野郎とはつまり委員長の鮫島さめじまさんの事だ。という事は急な用事があったのだろう。


「良かったらこれ食べて」


 僕は鞄から常備薬ならぬ常備おにぎり(肉入り)を取り出すと彼に渡す。


「これは手作りか?」

「母さんのだけどね」

「そっか。お前の手作りだったら四十万にヤラれるからなァ」

「そんな事ないと思うけど」


 そんな四十万さんはお花摘みに行ってる。僕にニヤニヤしながら報告してくるあたり当分からかわれそうなのは仕方ない。


「んじゃ有難く頂くぜ。助かる」

「ううん。僕に出来るのはこれくらいだから。本当は仕事手伝えたらいいんだけど」


「それこそ気にすんな。二句森には二句森の仕事があるように俺には俺の仕事がある。こういう言い方は好きじゃねェが、他人の仕事を取らねぇようにするのも大人の嗜み……らしいぜ?」

「な、なるほどぉ! 矛先くんは達観してるね」


 褒め言葉を送ると少し耳の後ろを掻きながら「んじゃ俺は職員室に行ってくるから」と足早に去っていった。

 友人関係の構築も随分進んできたと思います。いつか彼も――



 英語の授業中の一コマ

 巻上クリスティーナ先生はその名の通り髪を巻き髪にしている金髪美女さん。細ぶちの眼鏡が似合うタイトスカートの先生だ。


「ハイ。皆さんごきげんよう」


「「「「ごきげんよう」」」」


 旦那さんが日本人で結婚してこっちに帰化したと語ってくれた先生は英語・日本語・スペイン語・イタリア語を話せる凄い人。日本のテレビではお笑い番組が大好きで寄席よせにも行くそうだ。

 そんな素敵な先生の授業中でも、僕は朝四十万さんに言いそびれた事をグルグル考えていた。だからきっとこの後言った言葉に深い意味は無い。


「ハイ。それでは今日も素敵なイングリッシュレッスンを始めましょう」


 視界の真ん中に先生が居るのに、僕は視界の端ばかり気にしていた。僕の視界の端にはペンを顎に当てて黒板を見つめる横顔が見える。


「日本のことわざに"覆水盆に返らず"という言葉がありますね。英語圏でも似たような表現があるんです」


 窓から入る4月最後の風が彼女の髪を揺らす。


「では、ミスター二句森。自分なりに表現してみてください」


 風が持ち運んだ一片の花弁が彼女のまつ毛の上に乗る。


「ミスター二句森? 覆水盆に返らずを英語で例えてみてくださ〜い」


 彼女の特徴的な涙袋から一雫の水滴がポトリとノートに落ちてインクの文字を滲ませる。


 僕は何故かその光景をずっと見ていたいと思った。




「――覆水ボーントゥーラブユー」





 風が止み静寂が訪れる。

 ずっと見ていたいと思っていた光景は不意に向けられた視線で動きを進める。


「……十蔵じゅうぞうくん。ハンカチ持ってる?」

「はい。どうぞ」


 やけに静かな教室に彼女の声が響く。

 僕は迷うこと無くポケットに入っていたクローバー柄のハンカチを取り出した。


「すんすんっ。んふふっ十蔵くんの匂いがする」

「僕の家族はみんな同じ匂いだよ」

「そっか。そっか」


 この勢いのままなら僕は言えるかもしれない。

 朝言えなかったあの事を四十万さんに。


「あの……」


 言葉が途中で止まる。

 いや、正確には教卓からの大きな拍手で止められた。


「す、素晴らしいわ! ミスター二句森!」


「え?」


 拍手と同時に僕は先生に褒められた。

 一体何がどうなっているんだろう。


「"覆水盆に返らず"とは、地面に落ちた水がお盆に返らないという事から、一度起きた事は二度と元に戻すことはできないと言う意味で使われますね」


 は、はい。

 確かにそう習いました。


「それをあまつさえ、あまつさえミスター二句森はその覆った水すらも……先生はアナタの感性は素晴らしいと感じますっ!」


 先生の言葉をきっかけにクラス内でも拍手と納得したような首肯をしている人がいる。


「にっきゅんはやっぱり違うよね」

「あぁ。俺たちの考えが及ばねぇぜ」

「日本語と英語を組み合わせて新たに新語を作るとは」

「考えれば考えるほどめっちゃ深くない?」

「だなぁ」


 アレ?

 僕、何か言ったっけ?


 四十万さんの事ばかり考えてたからよく覚えて無いけど。


「他の先生方の授業でも逸話を残していると聞いてます。なんだったかしら、バンジージャンプをしたら馬になるというやつだったかしらね」


「先生それは"人間バンジー最後は馬"です」

「そうそうそれよ!」


「ついこの間、二句森くんがバンジージャンプで実践してくれましたよ」

「まぁ! 体まで張るなんて勉強熱心ね。改めて感心するわ」


 先生、そんな穏やかなものじゃなかったですよ。


「ミスター二句森。もしアナタの詩集なりエッセイなりが出れば私は喜んで買いますよ。というか作って下さいな」

「え、えぇ!?」


 そ、そこまでのものじゃないです!

 というか僕は自分がさっきなんて言ったかも覚えてないんですからっ。


 先生から逃げるように隣の四十万さんへと助けを求める。すると彼女は、


「ねぇ十蔵くん」


 真剣な顔の四十万さんを見るのは久しぶりだ。



「私に結婚の相手が居るって言っても、その気持ちは変わらない?」


「…………え?」



 風が止む。

 その風の発生源からは何の感情も読み取れない。


 だけどきっと僕は同じ事を言うだろう。



『覆った水でさえアナタは愛してしまうのね』



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