第三幕 天道の向日葵

 俺の住む村から、海沿いの峠を何本か昇り降りすると、赤間の方へ出る。そこはたくさんの大船が出入りする港町がいくつもある、都のようなところである。

 その辺りの町々はどこもにぎやかで大変におもしろい。が、この日ばかりは、街の賑わいに気を取られる間も無かった。何故なら二つの事を同時にやるのは大変に難しく、俺には随分久しぶりにやってきたこの町の面白事を楽しむ暇など、まるで無かったからである。


「おいお前、銭を持っていますか。」

「なんだい嬢ちゃん藪から棒に。」

「俺は銭が欲しい。でも稼ぐ方法が分からないから、誰かに借りようと思ってるんです。」

「知らねぇ奴に銭貸す人間なんて居るもんかい!」


 人のたくさん居るこの町の辻へ来てからというもの、そんな問答を、もう両手の指の数以上に繰り返した。なのになぜかここを通る者は皆、ケチばかりで、銭はいっこう手に入らぬ。

「早く帰って、母にご飯を炊いてあげねばならんのに……。」

 母と違い、俺はみそ汁を作れない。米を炊いても、母の作る物より硬くなるか、粥のようになる。銭が欲しいのは、むろん、また母に美味しい料理を作ってもらうためである。

「これでは、帰る前に日が暮れる……。」

 お天道様というのは、俺と同じで融通が利かぬ、少し頭の悪いところがある。沈み始めるともう決して戻らず、それで時々、周りの者を嫌な気分にさせる。

「今ばかりは、ちょっとだけでも待ってほしいもの。」

 沈もうとするお天道様を見上げ、俺が少しばかり悲しい気分になりかけた時である。

 長い三つのかげぼうしが、忙しげな辻から伸びて来て、俺の背中に声を浴びせた。それはなんだか虫の居所の悪そうな、がらがらとした怒鳴り声なのである。

「おい、貴様ァ!」

 貴様とは確か、俺やお前のたぐいの言葉である。

「……なんでしょう。」

「往来にて手当たり次第に金をせびる怪しい女ありとの話を聞いて来た。皆の商売の邪魔じゃ。お前がそうなら、即刻立ち去れい。」

「……お天道様が戻らぬのと同じに、それはまかりません。」

「何言ってんだあ?このアマ。」

 俺がかげぼうしの持ち主の方を振り返って見ると、それはかげぼうしと同じくらいに黒い着物を着た、三人の人間だった。三人とも頭の上には髷があり、おのおの刀を二本づつ差している。侍である。なので、恐らくだが皆男だろう。

「おいお前ら、銭を持っていますか。」

 これは丁度良いと思い、俺がそう聞くと、黒着物の男たちの雰囲気が少し変わった。母が眉間にしわを作るのと同じに、何だか不機嫌そうな顔になったのである。しかしむろん、母よりは恐ろしくない。

「銭ほしいなら春でも売ってろ、この脳足りんがっ!」

 右に構えていた黒着物が、そう言いながら腰の物を抜くと、いつの間にか辺りに出来ていた人だかりの輪が、波のようにさっと引いた。

 人が刀を抜く時と言うのは、命を懸けて何かを守る時なのだと、生きていた頃の父は言っていた。

「す、すまん。お前らがそんなに真剣だとは、つゆとも知らず……。」

 失礼をわびる俺に対し、しかし黒着物の剣幕は止まらぬ。まるで火の点いた薪のように、ぱちぱちと弾けんばかりなのである。

「抜いちまったもんを今更引っ込められるかぃ!手足の一本くらいは置いてきやがれっ!」

 黒着物の言うことわりは、俺には良く分からなかった。が、しかし手が無くなると、物をかぞえられる数が恐らく……三、四本減ってしまう。それはきっと、大変不便であり、ごめんこうむりたい。

「……すまんが、それもまからん。」

「罷る罷らぬ何て事ァ、おめぇが決める段じゃあねンだっ!」

 こういった事は、時々だが、良く起こる。つまりはお天道様が二つあって、その二つが譲り合わず、互いにぶつかってしまうような事だ。

 大上段にぬっと構えた黒着物の影が、するりするりと俺の方へ向かい、走る。こうなってしまっては仕方が無い。仕方が無いので、俺も走った。

「……迅ぇ!?」

 走ったのはむろん、迫る黒着物の方へである。何故なら、後ろ向きに走ることは、大変むずかしいからだ。

 黒着物の握る鋭い刀が振り下ろされるその前に、俺の体は相手の体へとぶつかった。しかしそれでもなお、俺は止まらぬ。お天道様と一緒である。

「ぬわっ、はぁーンッ!?」

 黒着物がまっことおもしろげな言葉を叫びながら飛んでゆき、長屋の壁にぶつかった。それで俺はやっと安心して、この足をぴたりと止めた。

「残念ながら、お天道様は一つのみ。」

 俺はけっして間違えぬよう、この掌をしっかと見ながら指を一本だけ立て、それを天へと突き上げた。

「次郎に何してくれてんだ、テメェ!」

「て、手目ェ!?」

 俺の手に、目は無い。たしか、無かった筈である。だが、もしやするといつの間にか、生えてきたのやも知れぬ。そう思い、突き上げた己の手を見てみる。箸を持つ方の右手には、目など無い。そして箸を持たぬ方の手にも、目は無かった。

「……あまり、わけの分からん事を言わんでください。」

 俺には、良く分からぬ言葉が多い。ふだんはあまり気にならぬが、時々それが悲しくなることがある。そんな時は、普段はぽかぽかと優しいお天道様の明かりを痛くかんじ、つらくなる。こんな時が、正にそうである。

「突然しんみりしてるんじゃねェやぃ!訳分からんのは貴様の方じゃ!」

 今度は左の黒着物が、腰の物に手を伸ばし、犬のように吠えた。が、俺とそれがぶつかり合うことは、今度は無かった。

「やめとけぃ、一郎。」

 真ん中の、皺といぼだらけの顔をした、大きなかわずのような黒着物が、止めてくれたのだ。

「こいつぁきっと、山向こうの馬鹿の椿よ。馬鹿だ馬鹿だと聞いちゃアいたが、こんなにも馬鹿力だとはなァ……。」

 蛙人間の声は、まるでヒキガエルのようで、まことこっけいである。夜の田んぼに聞きなれたあの鳴き声とそっくりの音が、人の口から発される様は、ゆかいとしか言いようがない。俺は思わず口の端がゆるみかけたが、その言葉の意味が聞き捨てならぬ事に、かしこくも気が付いた。

「おいお前、あんまり馬鹿馬鹿と言うのは、やめてください。」

「……おっとわりぃわりぃ。だけどきっとそりゃ、お前さんの聞き間違いよ。俺ァ杜若かきつばたと言っただけでよ。馬鹿椿なんて一言も言っちゃいねぇよ。」

「か、かきつかば……ばかつ、ば……!?……おい!なんだ?その、ばかつかばとはっ!」

「花の名じゃ。ほれ、あれよ。」

 黒着物の大蛙は、長屋の軒先に咲く、背の高いお花の方を指して見せた。

「……親分、あらぁ向日葵ですぜ。」

「だぁってろよ、一郎……。」

 かきばかつとは、綺麗な、背の高い、黄色のお花であった。花びらの真ん中にはいっぱいの種をつけていて、そんな少しばかり気色が悪い所もあるが、お天道様に向かってまっすぐ伸びるその様は、たいへん美しい。まるで、もう一つのお天道様のような花なのだ。それは。

「これが、かば、かばきつた。」

「か、き、つ、ば、た。……嬢っちゃん銭がいるんだろう。なら俺のとこで奉公してみねぇかい。」

 大蛙の黒着物は、軒先に生える……かきつばた……を指先でつまむと、腰に差した短い方の刀でしゅっと切り取り、それを良く見えるよう俺に見せた。

「前金として、銀五十匁。それにこの杜若一輪でどうだい。

 ぎん、ごじゅうもんめ、とは一体どのくらいの銭の事であろう。

「……お前らは知らぬだろうが、実は俺は、たいへん頭が悪い。じゅう以上の数は、数えられぬ。……その銭は、母を医者に診せるに足るか?」

 蛙の親分は、何だか頭良さ気に下を向くと、にやりとその唇の端を持ち上げた。きっと、銭勘定をしてくれているのだろう。

「……そうかそうか、おっ母が病気か。いやいや、それなら一層俺のとこで沢山稼いで、早く良くなって貰わにゃなァ。」

 俺は、ガマの油が薬になると言うのを聞いたことがあった。だからこの日、俺と蛙の親分とが出会ったことは、たいへん験の良いことな気がしていた。

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