残響
伊島糸雨
残響
雨の降る日は、頭がひどく痛んだ。
ノイズのようなさざめきが、頭の中でずっと反響し続ける。私はその度にむず痒い脳みそを抱えて、布団の中でうずくまる。じくじくと膿んだ痛みが、私を蝕んで、止まない。
だから、雨が嫌いだ。六月が嫌いで……同じくらいに、夏が嫌いだった。
私を襲う不安はいつも唐突で、夏の焼ける匂いと汗の不快感は、その前兆のように思えてならなかった。蝉の声、アスファルトから照り返す光と熱、それから、肥大する芋虫のような入道雲。七月の終わり、高校の終業式を前にして、私は痛みのない空白に怯えている。
雨が降った朝には、洗面台の鏡に亡霊が映る。頭痛で眠ることができず、青白い肌と充血した眼を湛えた女が私と向かい合う。顔を洗い、水が滴るままに眼球を手の腹で押し込むように覆うと、脳みそが圧迫されて痛みもわずかに和らぐような気がした。巻き込まれて濡れそぼった前髪が、額に張り付いていた。
夏の夕方、勢いよく降り出した雨は、頭痛に加えて恐怖を植え付ける。鏡の前に立つと、姉さんがいるのだった。
頸に巻きついた赤い跡を撫でながら、姉さんが昏い瞳で私を見つめている。
何も言わず、ただ私の後ろに立って、感情の読めない無表情で私を見つめている。どうしてなのかと考えても、まるでわからなかった。私のことを縊り殺そうというのなら、いっそのことそうしてくれればいいのにと、少し、恨めしい。姉さんに殺されるのなら、まだいいと思えた。
三年前、夕飯に呼びに行った私は、姉さんの死体を見て棒立ちになって、そして悲鳴も出せずに、息を吸い込んだままへたり込んだ。
鬱血して膨れた顔と飛び出した舌、半開きの盛り上がった眼球。姉さんの死の姿は、私の脳みその襞にへばりついて、離れない。
八月のことだった。窓の外では、急に降り始めた雨が、窓を強く叩いていた。
何度も思い出している。雨の音がするたびに。じめじめとした夏の気配が、ゆったりとした足取りで迫ってくるたびに。瞼の裏で、姉さんが首を吊っている。
姉さんが死んでも俯くだけで涙すら浮かべなかった両親は、きっと私がどうしても同じような反応しかしなかっただろう。元々すれ違いすらしなかったあの人たちはあっという間に離婚して、私は母に引き取られた。そして何も変わることなく、母は帰ってこない。私と姉さんの距離ばかりが、異様な形で縮まっていく。
姉さんは私にとって唯一頼れる肉親だった。家族としてあてにならないお金を出すだけの両親と違って、姉さんだけが私をその腕で包み込んでくれた。辛くても、姉さんがいたから、励まされて、生きていられた。
姉さんは苦しかっただろう。自分は誰も頼れずに、私にその心の容量を割き続けていた。ほとんど義務のように、私を抱きしめ、頭を撫でて、慰めの言葉をかけ続けていた。
姉さん、ごめんなさい。
私は何もできなかった。姉さんの生きる糧になれなかった。私は貰うばかりで、姉さんから奪うばかりだった。
だから、そんな目で私を見ないで。
そう言って、私は姉さんから目をそらす。
そんな風に私を責めないで。どうやって償えばいいのか、私にはわからないの。
寝不足と頭痛でおかしくなりそうで、もうおかしいのだと疑った。姉さんは死んだのに、私の世界には姉さんがいる。夕立のように唐突に現れる不安が、私の心を蝕んでいく。
終業式の日。午前中は快晴で、式は滞りなく終了した。私は居残ることもなく、一人ですぐに学校を出る。
湿った熱気にじわじわと汗が滲む。不快な感覚ばかりが募って、私は急かされるように、誰もいない家へと歩を進める。
遠く空の上、盛り上がった灰色の雲が、ゆっくりと蠕動していた。
夕方。青空は分厚い身体に覆われて、芋虫は街の真上で蠢いている。
雨が降っている。重たい灰色からこぼれ落ちた水滴が、路面を、街を、傘を、窓を強く叩いている。雷鳴を伴って、暗い室内を時折照らす。
電気を消して、ぶら下がっていた姉さん。
私の部屋には姉さんが立って、頸に巻きついた赤い跡を撫でながら、昏い瞳で私を見つめている。
姉さんを殺した何かが、雨音に紛れてやってくる。姉さんを苛んで円形の空白に頭を通させた何かが、夏の夕立に隠れて、私を襲う。
姉さんと同じところに連れて行こうと、私のことを狙っているのだと、そんな妄想に、怯えている。
今年も、姉さんと過ごす夏が始まる。
死体を抱えた、終わりのない夏が。
残響 伊島糸雨 @shiu_itoh
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