遺稿 三

 雪夜の問いに、秋羅は答えない。

 黙り込む彼女に構わず、雪夜は続けた。

「秋羅ちゃん、眼鏡掛けてたわよね、昔も、今も。だけど、今日掛けてたやつ、あなたが倒れた拍子に壊れちゃったみたいでね、それっぽいのが傍に落ちてたわ。そんなの拾ってもいらないかと思って、そのままにしてきちゃったけど」

 彼女の言葉に、秋羅は息を呑む。

 外れたことには気付いていたが、壊れたことまでは知らなかったようで。

「もし、もしなんだけどね。秋羅ちゃんさえ良ければ、ここまで来てくれたお礼に、とても素敵な眼鏡をあげましょうか? あなたが気に入りそうなのがけっこうあると思うし、それに、あなたみたいな可愛らしいお嬢さんが使ってくれたら、もきっと喜ぶわ」

「……っ!」

 その申し出は、その内容は、秋羅にとってとても魅力的で、是非にと頷きたくなるが、

「……ユキさん」

 簡単に飛び付くわけにはいかない事情が、彼女にはあった。

「水を、もらっても、いいですか?」

 申し出への返答ではなく、個人的な要求は、

「いいわよ」

 あっさりと受け入れられる。

 水を取りに雪夜が離れるのを音で聴き、秋羅は小さく吐息を零し、こっそり瞼を開け、上半身を起こしていく。

 テーブルに置かれていた水を渡してもらい、一口目は遠慮がちに、けれど舌がその味を感じ取った瞬間、秋羅は一気に飲み干してしまった。

 ──それまでグラスが置かれていた場所がどうなっているか、気付かずに。

 溶けきる寸前の氷だけが残ったグラスを見て、おかわりはどうかと訊ねられたので、秋羅はグラスを返しながらそれを断り、俯きながら口を開いた。

「ユキさん」

 喉が潤ったせいか、掠れの取れた低めの声は、淡々と言葉を紡いでいく。

「このたびはお電話いただき、ありがとうございます。久しぶりの再会に思う存分語りたくはありますが、夕食までには帰ってこいと姉から言われておりまして」

「冬乃、元気そうだったわね」

「元気過ぎます。毎日毎日うるさいです。ですが仕事上、あの人が私の上司、ボスでありますから、大人しく言うことを聞くしかありません。……えぇ、仕事なんです」

 どこか諦めたように吐息を零し、

「私は眼鏡ではなく、報酬を頂かないといけないんです。──なので、ユキさん。まずはご依頼の内容をお聞かせ願えないでしょうか?」

 雪夜の顔をきちんと見ないまま、目を合わせないまま、彼女に問うた。


「私は、どんな過去を視れば良いのですか?」


 と。

「……そうね」

 返されたグラスをテーブルの上に置くと、頬に手を当てて一瞬考え込む雪夜。

 ──過去を視る。

 久し振りに会った知り合いの口から出た言葉を、少しも疑うことなくそのままの意味で受け取り、頭の中で反芻すると、弾んだ声で彼女は言った。

「あなたも私も、それをみて、知ることができたなら、これ以上ないほどに幸せになれる物。だけどその為に少しだけ、不快な思いをしないといけない厄介な物」

 徐々に熱を帯びていく、雪夜の声。

 うっとりとしたその様子は、既に秋羅を見ていない。

が最後に残した物で、最期に遺してくれなかった物よ」

 水滴の浮いたグラスが置かれた場所は、またしても放置された朝刊の上だった。

 すっかり濡れて草臥れた紙面は、もはや読むことはできないだろう。

「旦那、様……」

 秋羅は気付かない。

 雪夜が口にした『旦那様』に、意識が持ってかれている。

 頭の中にはありありと、その人物の顔が、

「せん、せ……」

 ──その人物が書いた文章が、思い出されていた。

「……四季坂、先生」

 四季坂文吾しきさかぶんご

 還暦を越えても尚、褪せることのない瑞々しい文章が特徴的な小説家であり、病的なまでに、無節操に、多ジャンルの作品を数多く世に送り出してきた。

 それなりに名の通ったその老作家は、ほんの三ヶ月前に自らこの世を去っている。

 書斎の机の上、恐らくは新作の執筆中に、何故か自分の首をハサミで突き刺して。

 第一発見者は彼の妻。

 字面だけでまず彼女を疑いそうだが、彼女はその前の晩から早朝まで、ずっと近所のカラオケボックスにいた。一人での利用ではあったが、防犯カメラと店員の証言が、彼女のアリバイを確かなものにしている。

 四季坂文吾は、自殺である。

 そして、この老作家の妻というのが、

「今すぐ視てもらいたいけど……もう少し、休んでからにしましょうね。ちゃんと視てもらいたいし」

 四季坂雪夜である。

 父娘ほどの年の差夫婦ではあったが、今の時代よくある話だ。

 ──そこに愛があろうと、なかろうと、関係なく。

「はい……」

 どこかぼんやりとした様子で、秋羅は頷く。

 彼女は最後まで気付かなかった。

 姉の友人の夫であり、世間に名の通った人物であり、秋羅自身が誰よりも好きな作家である、四季坂文吾。

 彼の訃報を嘆く記事──それが載った三ヶ月前の朝刊が、今や濡れて読めなくなったことも、誰がそんな真似をしたのかも、秋羅が気付くことはなかった。

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