遺稿 四
老作家の書斎にして自殺現場は、いかにも小説家の書斎だと感じさせる場所だった。
左右の壁一面に本棚が並べられ、一冊取り出すだけでも苦労するほどにびっしりと本が収められている。
図鑑や専門書などあるものの、圧倒的に多いのはどうやら小説のようで、ぱっと見た限り、巷で流行りの推理小説と古典文学が隣り合わせに置かれ、著者やタイトルのあいうえお順にも出版社別にも分けられていないことから、並びに決まりはないらしい。
電気を点けたにも関わらず、カーテンを閉め切ったその場所は、そもそも日当たりが悪いのか、どこか暗く感じる。まるでこの空間だけ、夜に閉じ込められたかのようだ。
書斎はリビングと違い、物が散乱している様子はない。きちんと整理整頓されており、焦げ茶のフローリングの上には埃も髪の毛も見当たらない。雪夜か、それとも業者が清掃したのか。
老作家が自殺して、三ヶ月。
窓も閉められたその部屋で、ほんのりと血の臭いが鼻に届くのは、秋羅の気のせいか、それとも……。
書斎の奥、窓に背を向けるように配置された、数々の作品が生まれたであろう黒檀の机の上に、一点、赤色とも黒色とも見て取れる何かが置かれている。
「視てもらいたい物はアレなの」
雪夜はドアに凭れながら、机の上にある何かを指差す。
「ちょうど、アレが置かれてある場所に、旦那様は突っ伏していたの。まるで私から隠すみたいに」
「……っ」
秋羅の瞳に、ほんのりと怯えの色が混じる。
それでも、指し示された物がある机の方へと、慎重な足取りで近付いた。
「浅い血溜まりに沈んでしまった、私の大切な宝物」
雪夜はドアから一歩も動かず、じっと、自分が指した物を見つめる。
「それを読めなかったら死ぬに死ねない。別に死ぬ予定はないけれど、それくらい読みたい話ってだけなの。……何度も私、旦那様にお願いしたわ。どうかその話を書いてほしいって、何度も、何度も、何度もね」
結婚してからずっと。
なんなら──その為に結婚したようなものだ。
「正直私、旦那様……四季坂文吾のことはそこまで好きじゃなかった。あの人の作品も、興味ない物は読んでないし」
だけど一作だけ。
「どうしようもなく好きな作品があるの」
雪夜がそのタイトルを口にした時、秋羅は机の正面にまで来ていた。
そこまで来れば、そして雪夜の口振りからして、指差された物が何であるかなど分かるもので。
「秋羅ちゃん、旦那様の作品大好きだったものね、私と違ってどれもこれも。なら、当然知ってるでしょ? ……とても、淋しいお話よ」
秋羅の目の前にある物、それは、原稿用紙の束だった物だ。
全体的に赤黒く、かぴかぴに乾いてしまい、そこに文字が書かれていたかどうか、判別はもはや不可能だが、形と大きさから察するに、恐らくそうではないかと思った。
あるいは、好きな作家の書斎、彼が使っていた机の上に置いてあるのだから、そうであったらいいのにという、願望もあったのかもしれない。
「美しくて、どこか懐かしさを感じるその話自体も好きだけど、特に、そう特にね、登場人物の一人が好きだった。生き様や思考や性格が好きだった。……本当に、好きだった」
さすがに愛してはいなかったけど。
愛した所で無駄なのだけれど。
「知ってるでしょ? ……あの人は死んじゃった」
「……あれは」
「話の都合上、仕方のない死だった、なんて言ったら怒るわよ?」
一瞬、背中に粘着質な殺意を感じ、秋羅の身体に震えが走る。
「私はね、とても悔しかったの。あの人は夢を追い掛けている最中で、もう少しでその夢が叶う所だったのに、あんなことになって……」
雪夜は話しながら、無意識に拳を握った。
「だから私は願ったの」
血が滲むのも構わず、更に力を込める。
「あの人が生きて、夢を叶える姿を見たい。その過程を、そして結果を、誰かに……できることなら、作者に書いてもらいたい」
そうでないと、きっと──死ぬ間際まで、悔しがるだろうから。
「初めて読んだのは秋羅ちゃんよりも少し年下の、高一か中三だったと思う。その時からずっとだから、十年以上もこの願いを抱いていたのね」
吐息を零すと、そこでようやく雪夜は、拳を力一杯握り締めていたことに気付いたようで、緩慢な動作で何度か開閉すると、そのまま腕を組んだ。
「独り身の作者が家政婦に家のことをやってもらってるって話を雑誌か何かで知ってたから、どこの団体か調べて、大学を卒業したらそこに入って経験を積んで、お呼びが掛かるのを待った。三年ぐらい経った頃、作者の家に行ってくれって上に言われて、通い始めた」
好きな人が生み出されたであろうマンションの一室。
心踊らないと言えば嘘になる。
けれど、あくまで仕事で来ているのだ。
なるべく顔に出ないよう、感情を殺して働いた。
「最初の頃はほとんど会話をしなかったけど、ある時、作中の表現について意見を求められたことがあってね。何故か分からないけどそれで気に入られたみたいで、半年くらい経った頃にプロポーズされちゃった。交際も申し込まれてないのに」
親と大して変わらない歳の男からされた、突然の求婚。
気持ち悪さよりも驚きが勝った。
黙り込む自分に、おろおろし出す作者を見て──雪夜はふと、これは好機ではないかと思った。
「色々すっ飛ばしてプロポーズするほど、私のことを好きになってくれたのよ? じゃあ、そんな私のお願いを、結婚してあげたら叶えてくれるんじゃないかって」
そして彼女は頼んだ。
好きな人を幸せにする未来を、必ず、書いてくれるのであれば、結婚を承諾すると。
その返事に、作者は迷い、迷い、迷い──諦めたように、頷いた。
「だけどあの人、時間をくれって言ったの」
「……そりゃあ、そうですよ」
恐る恐る、秋羅が口を開いた。
「四季坂先生は、終わらせた話の続きを書けない人だったんだから」
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