遺稿 二

 袋から取り出した箱を冷蔵庫に仕舞い、代わりに林檎風味の水を取ると、雪夜の口からは自然と溜め息が零れた。

 明日の朝食が、場合によってはケーキになるかもしれないからだ。

 自分と客人の分のグラスを出して氷を一つ二つ入れた後、冷蔵庫から出した水を注ぐと、盆は使わずそのまま手に持ってリビングに向かった。

 風に揺れる薄手の白いカーテン、それがほんの少し陽光を抑えることで、程好い暖かさを感じさせる広々としたリビングは、けれど少しばかり雑然としている。特にテレビの前のローテーブル、その上に放置された書類の束、購読している新聞社の朝刊が、その印象を強くしていた。

 朝刊の日付は三ヶ月前、紙面にでかでかと書かれた『平成の文豪、独り逝く』の文字に、雪夜は一瞬視線を向けるも、すぐにくたびれた紺色のソファーに横たわる客人へと視線を移した。

「お水持ってきたから、いつでも飲んでね」

 ぐったりとした様子の客人こと秋羅は、タオル生地のハンカチに保冷剤を包んだ即席アイスノンを目の上に置いてもらい、近くに川があるおかげで涼しい風が入り込む部屋で横になっているせいか、少しは回復したようだ。

「何から、何まで……ごめん、なさい」

 話を聞くに、どうやら明け方近くまで起きていたらしく、睡眠薬などを用いてどうにか眠った後、目を覚ましたのは、雪夜と遭遇する一時間前のこと。起床時からあまり体調は良くなかったが、約束を優先して外出し、雪夜の住むマンションが見えてきた所でついに、貧血を起こして倒れてしまったようだ。

 秋羅は同年代の少女よりも小柄であったが、華奢な体躯の雪夜一人では運ぶことができず、それならマンションの管理人から台車を借りようと管理人室に向かえば、事情を知った管理人が部屋まで運ぶのを手伝ってくれた。なんなら、ソファーに秋羅を寝かせてくれたのも、ケーキに入っていた保冷剤で手早く即席アイスノンを作ってくれたのも、管理人がやってくれたことだ。

「外に、出ただけで、こんな……迷惑を、掛けて……」

「そんな日もあるわよ、気にしないの。でも帰る時にお礼は言ってね」

「それは、もちろん……」

 秋羅の返事を耳にしながら、持ってきたグラスをテーブルの上──の、朝刊の上に構わず置くと、雪夜はそのまま横たわる秋羅の顔の傍まで近寄り、膝を落として彼女に話し掛ける。

「相変わらず、出不精なの?」

 歌うように零れたそれは、病人を労るようなものでは一切なく、単純に気になったからされた問い掛けで。

 問われた当人も、こんな状態の時にまさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったようで、一瞬身体をびくりと跳ねさせ、少女にしては低めの掠れた声で「……まぁ、そうですね」と答えた。

「仕事の時以外は、ずっと、自分の部屋に。……外なんて、めんどくさい」

「……仕事、か。早いものね、時間が経つのも。ランドセル背負ってた子が、もう社会人だなんて」

「……」

 雪夜の言葉に、声音に、身体を強張らせる秋羅に構わず、楽しそうに笑みを浮かべて雪夜は続ける。

「覚えてる? 私と初めて会った時、あなたはまだ小学生でね、性格は今と変わらないの。パーカーのフードを思いっきり被って、この世の終わり、みたいな大袈裟な顔をいつもしてて。六年生だったかな、五年生だったかな。気の早いことに色んな高校のパンフレットを見てたわよね」

 雪夜は話すことに夢中で、秋羅の心中に気付かない。

 秋羅の頬や耳が、羞恥に赤く色付いていく。

「中学までは指定された学校に行くけど、高校は別にそうではないわけだし、卒業資格さえ手に入るならそれでいいから、できるだけ通信制の所に行きたいって。久し振りに電話した時に冬乃から聞いたけど、あの後本当に通信制の高校に通ったんでしょ?」

 冬乃とは、雪夜の友人であり、秋羅の姉のことである。

「……えぇ、今年の春に、なんとか卒業できました」

「それはおめでとう。遅ればせながらね。ちょうどケーキもあることだし、後できちんとお祝いさせて。──あぁ、そうだった。話すのに夢中になってて忘れてたわ」

 雪夜は何の脈絡もなく、秋羅の目元に置かれた即席アイスノンを素早く額の上へと移動させる。

「……っ!」

 驚いた拍子に秋羅の瞼が開く。しばらく閉ざされていた視界はいくらかぼやけていたものの、少し待てば鮮明になっただろう。

 だが、急に身を乗り出してきた雪夜と目が合いそうになると、秋羅はすぐに瞼を閉じて顔を背け、額の上の即席アイスノンを落とす。

 雪夜は落ちたそれを手早く秋羅の額の上に設置し直し、固く閉ざされた彼女の目元をじっと見つめる。

 閉じたままでも見られていることは分かるようで、瞼に更に力を込める秋羅。

 そんな彼女を見つめる雪夜の目が、徐々に細くなっていく。

 不思議とその目にはどこか、期待のようなものが込められていて。

「……ねぇ、秋羅ちゃん」

 浮かべた笑みは変わらず楽しそうで、けれどほんのり、

「私達、再会してから一度も目が合ってないんだけど、それはもしかして、」

 獲物を追い詰めているような雰囲気もあった。


「あなたの特異な才能が、今も変わらずあるからなの?」

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