Article 4. Who Stole the Heart? ⑤

 なぜづきがそこまでチェシャ猫にこだわるのか不思議がる弓美ゆみに、植物園での出来事を話して聞かせた。それで、弓美はようやく腑に落ちたみたいだった。


「なるほどなあ。秘匿回線なら、おそらくだけど、ALISアリス内の一般アカウントにかけられている物理法則の制約もかいくぐれるんだろう。だからうたは、いきなり消えるなんて芸当ができたんだろうな。……ここまでくると、『チェシャ猫』そのものではなかったにしろ、ほとんどやってることは同じじゃないかって気もするが」


 弓美の指摘はそれはそれでもっともではあった。と、そこでふと新たな疑問が思い浮かぶ。もし謠子でないなら、一体誰がチェシャ猫なのだろうか。葉月は弓美に尋ねたが、返事はそっけなかった。


「そんなこと私が知るか。謠子はずっと追っかけてたみたいだから、聞くんならアイツに聞いてくれ。とにかく、謠子はチェシャ猫と鬼ごっこするため、秘匿回線でALISに乗り込むことにしたみたいだった」


「秘匿回線なのに、私が謠子を認識できたのは何でなんでしょうか」


「秘匿といっても、それはALISの管理者――赤の女王に対して秘匿ってことだからな。別に一般アカウントにとって姿が見えないとか、そういう意味じゃないぞ。大方、ALISにとっての異物であるチェシャ猫との接触を、赤の女王に気づかれたくなかったんだろう。そんなこんなで機材を置ける場所はないかって聞かれて、ここを貸してやった」


 そこまで言って、弓美は一度言葉を切った。何事かと思っていると、いきなり歯切れの悪い口調になって、弓美が再び口を開いた。


「あー……だから、アンタには謝っておかなきゃいけないんだ」


 突然の謝罪に、葉月は戸惑う。


「謠子が来ないってアンタが先週連絡してきたとき、ご覧のとおりの状況だってこと、私は知ってたんだ。でも、私の口から言うわけにはいかなくて、シラを切らせてもらった。それに関しては、すまなかったな……」


 その言葉を聞いても、葉月は弓美を責める気にはならなかった。謠子の過去と二人の関係を聞いて、謠子のために弓美が黙っていたことを、責められるわけがない。


「大丈夫ですよ。弓美さんの気持ちはわかりました。とにかく、それでこれだけの設備なんですか……」


 葉月の言葉に、弓美は安堵したようだった。いつもの調子に戻って、所見を述べる。


「あれだけの仮想現実に、外部から強制的に、しかもそれを秘匿しながらアクセスしようっていうんだから、それなりの機材は必要だろうさ。ただ、ここまで派手にやってるとは思ってなかったけど……」


 そう言って、弓美は部屋の隅から隅へと目線を向ける。と、ふいに不思議がるような仕草をした。


「でも確かに、少しおかしいところもあるんだ。例えば、あっちにある黒いでっかいのは、明らかにALISへの接続には関係なさそうなんだよな。というか、ここにあるのはむしろ関係ないやつばっかり。この中に設定されているプログラム類も同じで、関係性がよくわからない」


 そう言いながら、彼女は目の前にあるモニターを指差した。それから、他のいくつかの機材についても説明をしてくれた。弓美の話では、ここの設備とプログラムの大部分は、ALISに秘匿接続するのには不要なものであるらしい。ただ、その使い道については由美もわからないようだった。


 広い部屋の中に乱雑に機械類が詰め込まれた様子からは、謠子の切羽詰まった状況がうかがえる。一体何を思って、彼女はここまで大それた行動に打って出たのか。あの謠子をここまで駆り立てるのだから、きっとよほどのことなのだろう。その胸の内を想像するにつれ、葉月は胸が苦しくなる。横で眠る彼女の手を、葉月はいたわるようにそっと握った。


 と、唐突に弓美が焦るような声を出した。


「クソっ、まいったな。最後の最後でセキュリティがかかってやがる。てか何だこの意味不明なポエムは!」


「ポエムって……」


 状況が急転し、葉月は猛烈な不安に襲われた。


「どうも謠子は招かれざる客が侵入してこないよう、最後に防衛線を張ってたみたいだ。……おい、これ、わかるか?」


 弓美がうなりながら、モニターを見るよう促した。そこにはこう書かれていた。


 アリスは夢見る、心のままに

 不思議は染みる、午後の切れ間に


 わたしは願う、あべこべの国

 こことは違う、世界をすぐに


 これこそ見せ場、忘れるなかれ

 もしも外せば、久遠の別れ


 すなわち俗に、最後の一手

 かの夢の国、名前を言って


「何ですか……。これ……」


 示されたのは八行の詩。その下には、パスワードを打ち込むためのフォームが用意されている。


「パスワードを入れなきゃ進めない。その答えを知りたいんだが、アンタ、何か聞いてないか?」


 弓美が期待するような目で葉月を見る。だが、葉月にはまるで心当たりがなかった。


「すみません……。まったくわかりません」


「書置きといい、アイツ切羽詰まってるのかどうなのか、よくわからんな……」


 弓美がため息をつく。腕組みして画面をにらみながら、彼女が忌々しそうに続けた。


「詩の書きぶりを見る限り、チャンスは一回きりっぽいな」


 久遠の別れ、という単語が目に付いた。もし間違えれば、それきりということか。


 ここまで来たのに、と葉月は焦りを覚える。そんな自分を落ち着かせるため、とにかく思ったことを口に出す。


「答えの方向性は……何でしょうかね」


「『かの夢の国、名前を言って』ってあるから、それが答えなんだろう。夢の国って、浦安か? ……んなわけないか」


 弓美はお手上げといった風でくだらないボケをかましていたが、その目を見るに彼女はまだ諦めていないようだった。


「どう考えてもこれはアンタに向けたメッセージだ。気合で答えをひねり出してくれ。私も何か手掛かりになりそうなものはないか当たってみる」


 言うや否や、弓美は辺りにつながっている設備類を確認しはじめた。


 葉月は改めてモニターに目を向ける。


 夢の国の名前。いったい何だろうと、葉月は考える。弓美の言うとおり、もしこのメッセージが自分に向けられたものなら、必ず答えにたどり着けるはずだった。考えればきっと答えは出る――。それだけを信じて、葉月は思考を巡らせる。


 アリスは夢見る、夢の国。夢、夢……と考えて、葉月はここに来るまでに車の中で引っかかっていたことを思い出した。


 ALISの夢。


 そこで葉月はピンときた。――違う。そっちのALISじゃない。アリスの夢だ。そう、アリスの物語は、すべて夢だった。『不思議の国のアリス』も『鏡の国のアリス』も、どちらも夢の国での出来事。


 ということは、答えは二つに一つだった。「不思議の国」か「鏡の国」か。


 どっちだ……と葉月はさらにヒントになりそうなものを探す。もう一度詩をつぶさに読み返した。


 国を示す単語は、詩の中にもう一つあった。二行目に「あべこべの国」と書かれている。「かの」というのはこの部分を指しているのだろう、と葉月は推測する。


 あべこべ……ジャバウォックの詩。『鏡の国のアリス』は、その名の通りアリスが鏡を通り抜けるところから始まる。そこでアリスは気づくのだ。本の中に書かれたジャバウォックの詩があべこべで、鏡の国の中の鏡に映さなければ読めないことに。


 だから「かの夢の国」とは「あべこべの国」で、それはつまり「鏡の国」――。


 葉月は、「分かりました!」と弓美に声をかけようとした。ところが間の悪いことに、先に彼女から話しかけられた。


「手掛かりになりそうなものはなかったが、代わりに残りの設備とプログラムが何なのか分かった。謠子のやつ、どうもALISの根本プログラムに干渉できるような何かを構築しているみたいだ。……ただ、目的が分からない。これも秘匿接続でALIS側の目を欺くためのものか? いやでも、別にそこまでしなくても接続自体はできるはずなんだがなあ」


 ふと、弓美のぼやきが引っ掛かり、吐き出そうとしていた言葉を飲み込む。「ALISの根本プログラムに干渉する」とはどういうことだろうか。


「弓美さん、それってどういう意味ですが。ALISに干渉するって」


「端的に言えば、ALISのルール自体を書き換えるってことだ。いやもちろん、そんなことをして何になるのかってんだけど……」


 弓美は、自分の発想に否定的なようだった。だが、葉月の頭が猛烈に回転を始める。


 謠子が残したメッセージが、ふと頭によみがえった。キャスリング。そもそも、ここに来るまでの間に一応は謎が解けたときから、葉月はずっと引っかかっていた。彼女のメッセージが、単に謠子がALISの城にいるということだけを意味するだろうか。あの謠子がわざわざ残した手掛かりなのだ。そんなに単純なものとは思えない。きっと、もっと深い含意があるはずだ。


 キャスリングで入城する駒は王だ。だが、赤の女王こそ存在すれども、そもそも王などALISの世界にはいない。なら、ALISのキャスリングで入城するのは誰だ? 現実に入城しているのは謠子本人で、決して王などではない。いや、本当にそうだろうか。王が入城することと謠子が入城することは、必ずしも矛盾しない。この二つの条件が両立するためには――。


 謠子自身がALISの世界の王ならば、矛盾しない。


 もしそうだとするならば、キャスリングは、謠子が王としてALISの城に入ることを示していたのだろうか。だがなぜ、謠子が王なのか?


「おい、アンタさっきなんか言いかけてなかったか? ひょっとして、答え分かったのか?」


 弓美に話しかけられたが、葉月は考えるのに必死で返事をしている余裕はなかった。


「王」という言葉、それに「夢見るアリス」というフレーズは、葉月に謠子とのいつかのやり取りを思い出させるものだった。


 ――夢を見たのはアリスか、赤の王か。


 その問い掛けに、独自説だとはにかみながら、謠子は何と答えたか。


 謠子は、どちらも夢を見たのだと解釈していた。アリスの夢は赤の王が彼女に見させたものだと。謠子が残したこの詩はきっと、彼女の『アリス』に対する解釈と無関係ではありえない。そんな彼女の解釈に従うならば。もし赤の王となった謠子が、アリスに夢を見させようとしているならば……。


 アリスは夢見る、心のままに――。そう、いまALISは夢を見ている。EAS社の心のままに。ALISは、EAS社が与えたルールに従って接続者を自己に――まるで人が夢見るように――再現する一個の機関だ。目の前にある設備とプログラムは、ALISのルールに干渉するためのものだと弓美は言った。その夢見のルールを謠子が書き換えたならば。


 ルールとは世界の在り方だ。それを書き換えるということは、違う世界を新たに創るということにほかならない。それはまるで、この二か月半、葉月と謠子が謠葉国に対してずっとそうしてきたように。


 謠子がALISに新たに見せる夢。世界の創造。いまのALISが否定されて、新たなルールのもとで謠子の夢の国が始まる。ALISは謠子の心のままに夢を見る……。


 モニターに映った詩が目に入った。そこに書かれた「かの夢の国」の文字。その意味するところは――。


「謠子の夢の国なんだ……。謠子は自分が赤の王になって、ALISに夢を見させる。新たなルールを与えて、いまのALISの世界そのものを、謠子は終わらせようとしている!」


 ALISの世界そのものを破壊することが、謠子の目的。


「おい、今度は何言ってんだよ、葉月」


 葉月の独り言を聞いて、弓美が困惑したように言った。だが、葉月は返事もせずに必死で考えていた。まだだ、まだ足りない。謠子は一体どんな夢を、どんなルールを、ALISの世界に与えるつもりなのか。


 かの夢の国。あべこべの国。あべこべ……ひっくり返し。まさか――。


「まさか、謠子は私たちの憲法を、あのディストピアを、ALISの世界で実現するつもりなの……」


 現実世界のあべこべの法。民主主義の対極にある、究極の管理社会。


 その国の名は、うたこく


 葉月はふらふらとモニターに向かうと、パスワードの入力フォームに答えを打ち込んでいった。一連の葉月の言動に困惑しきりな様子の弓美は、眉をひそめながらそれを見ている。葉月が入力を終えると、電子音が鳴った。


「あ、通った」


 弓美が気の抜けた声を上げた。

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