Article 4. Who Stole the Heart? ②

弓美ゆみさん!」


 思わず大声を上げる。弓美はづきの方につかつかと歩いてくると、車を指差して言った。


「乗りな!」


 葉月が困惑していると、弓美は葉月の手を引いて車の方へと連れて行き、そのまま助手席に押し込んだ。彼女も運転席に戻り、車を発進させる。


「車って、えっ、どこにいくんですか⁉」


「アテがある。少し距離があるから、しばらくドライブデートだな」


 弓美がにやりと笑いながら言った。どうやら、冗談を飛ばす余裕くらいはあるらしい。相変わらずの調子に呆れたが、一方でいつもと変わらない彼女の様子のおかげで少し平静さを取り戻せて、葉月としては助かった。それにしても、アテがあるとはどういうことだろう。


 だが、弓美が来る直前に気づいたことを思い出して、すぐに葉月の頭からそんな疑問は吹き飛んだ。


「弓美さん! 聞いてください! ALISアリスです! メッセージの意味が分かりました。000ゼロゼロゼロは、チェスの棋譜でキャスリングを表します。その意味するところは、入城です!」


「チェスだぁ? 入城って、どういうことさ」と戸惑いをあらわにする弓美。 


「キングの動きです。キングとルークが、ゲームが始まってから一度も動いていないとき、これを同時に動かすことができる。この動きを、キャスリングっていうんです」


 うたが説明してくれた動きを、弓美にそのまま伝える。だが、弓美は相変わらず困惑した様子だった。


「駒の動きは説明されてもよくわからん。チェスが、一体何の関係があるっていうのさ」


「ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』は、チェスをモチーフにしています。チェスの――アリスの世界のお城に入城する。それはつまり、ALISの中枢であるあの城に、謠子がいるってことなんじゃないかと思います」


 葉月に『鏡の国のアリス』を読むように言ったのは謠子だ。間違いなく、彼女はキャロルのアリスとALISを関連付けている。こじつけも相当あったが、葉月は自分の推理に間違いはないと、なぜだかそう信じていた。弓美からツッコミが来るかと思ったが、意外にも彼女は不敵な笑みを浮かべていた。


「ははあ……なるほどそういうことね。実は、私のアテもALISなんだ。こっちの根拠は別にあるけど、いまのでウラが取れたかな。間違いない、アイツはいまALISにいる」


 どうやら、弓美も何か情報を持っているようだった。


 と、そこまで彼女の言葉を聞いて、葉月は混乱していた。


「ALISに行くなら、車なんか飛ばしてどうするんですか。すぐに家に戻って、ログイン用の端末からALISに接続しないと」


 葉月の制止を、弓美は一喝した。


「おいおい、んなもん持ってきてどうすんだよ! ALISの一般ユーザー向け開放は、昨日で終わってるんだ。あんたの家の端末なんて、もうただのガラクタだよ」


 確かに弓美の言うとおりで、その事実を理解した葉月は絶望した。それはつまり、ALISへの接続はいまの葉月には不可能ということを意味していた。謠子がいるかもしれないのに、そこに向かう手段はもはや存在しないのだと。


 悲痛な表情をしてうつむく葉月に、弓美が声をかけた。


「そんなこの世の終わりみたいな顔すんなよ。何の方策もなく車なんか出すか。ALISに行くアテも、ちゃんとあるよ」


 弓美の言葉に、葉月は顔を上げた。


「一体、どうやって……」


 どうやっても、そんなことはできないはずだった。あれは、EAS社が管理する最新鋭のシステムだ。EAS社が道を開かない限り、一般人である葉月たちにはどうしようもない。途方に暮れていると、弓美が話しかけてきた。


「なあ葉月。あんた、謠子からどのくらい聞いてる?」


 わけのわからない質問をぶつけられた。


「何の話ですか?」


 そのまま質問で返すしかなかった。


「家族のこととか、大学入る前とか」


 やはり、よくわからなかった。そんなことが、謠子のプライベートが、今回のことに一体何の関係があるのだろうと葉月はいぶかしんだ。とりあえず知っている限りのことを答える。


「家族はいないって、謠子は言ってました。妹さんをたいそう可愛がっていたみたいで」


「それだけか?」


 それだけとはなんだ、と葉月は少し不愉快な気持ちになった。彼女の不幸な過去だ。謠子も、きっとそれなり熟慮して、葉月にこのことを話してくれたのだろう。それに対して、「それだけ」とはあんまりな言い草ではなかろうか。だが、ここで言い争っても仕方ない。葉月は、端的に結論だけを述べることにした。


「ええ、そうです」


 赤信号で車が止まった。


 弓美は黙って進路を見つめている。交差する側の信号が赤に変わった。こちら側が青に変わる直前、弓美は一瞬視線を落としてから、すぐにまた前へと戻した。その間も、ずっと彼女は口を引き結んでいた。彼女の不思議な動きに、どうしたんだろうと葉月が不審に思っていると、弓美がゆっくりと口を開いた。同時に、車が発進する。


「少し、昔話をしようか」


 弓美の口調は、いままでの彼女からは想像できないくらい落ち着いたものだった。


「あれは、私と謠子がまだ高校二年生くらいのときだったかな。私はアイツに初めて会った。と言っても、直接会うのはずっと後になってからなんだけどな。そもそも、あの時点では私は謠子を謠子だと認識すらしていなかった。私と謠子はインターネット上の、まあ、あまり大きな声では言えない場所で知り合ったんだ」


 一体、何の話をしているんだろう。大きな声で言えない場所? 謠子が? 弓美の方はともかく、謠子にそんなのは似合わないだろうと、葉月は率直に思った。


「謠子は、そんなことしないと思うんですけど……。また何かの冗談ですか?」


 だから、少しいらだち混じりに返した。いまはそんな与太話に付き合っている場合ではない。だが、弓美は話を続ける。


「冗談なんかじゃないよ。これからする話は全部冗談なんかじゃない。真面目に聞く気がないなら、いますぐ車から蹴り落とすぞ」


 えらい剣幕だった。葉月は思わず言い返そうとしたが、ふと我に返って口をつぐむ。弓美も、謠子の友人なのだ。冗談や酔狂でここまで自分に付き合ってくれているわけではないだろう。彼女だって、謠子の居場所を突き止めたいと思っている。その気持ちは本物のはずだった。弓美の話は、おそらく本当なのだろう。


「……あんたの気持ちもわかるよ。いまのアイツを見たら、誰だってこんな話信じないだろうさ。でも、全部現実なんだ。謠子に会うんなら、これからする話は知っておかなきゃいけない」


 彼女なりに気を遣ってくれたようだった。その言葉を聞いて、葉月はあらためて続きを促す。


「わかりました。続きをお願いします」


「あのときの謠子は、協力者を探していた。アイツは、あるシステムの開発に携わってたんだ。なあ葉月、それってなんだと思うよ? 謠子はな、ALISを作ってたんだ」


 葉月は、雷に打たれたような衝撃を感じていた。謠子がALISを? そんな馬鹿な。あんなもの、その辺の大学生――いや、当時謠子はまだ高校生だ――が作れるようなものではない。ALISはおそらく、人類史上最先端の仮想現実システムなのだから。


「そんな馬鹿なと思うだろう? だけど、確かに謠子は天才だ。間違いなく、それも半端じゃないくらいの天才。シミュレーション理論、それを実現するためのシステムの開発、さらにはそれらを可能にするだけの環境構築。どれをとっても、私が知る限りこの分野で謠子に勝てる奴なんていない」


 葉月は弓美の言葉に驚くばかりだったが、一方で、どこか納得してしまえる自分もいた。情報科学のことなどまったく分からないが、課題に取り組む中で謠子がたびたび見せていた驚くべき能力は、間違いなく葉月が現実に目にしたものだ。謠子の数々の実績の裏側には、そんな事情があったのか。


「だけど、その才能のせいで謠子の人生はめちゃくちゃになってしまった。……ああ、さっきの言葉は撤回だな。謠子以上の天才が一人だけいたよ。そいつが、すべての元凶だ」


 弓美の言葉には、隠そうともしない憎悪が含まれていた。謠子の人生をめちゃくちゃにした? その言葉を聞いて、葉月も思わず憤る。


「誰ですか、それ」


「アイツの父親だよ。EASイーエーエス社の蔡原さいはら博士。ALIS開発の総責任者だった。もっとも、一年前に病気でポックリ死んだけどな」


 葉月は息をのむ。謠子の父親がそんな人だったとは。それにしても、人生をめちゃくちゃにしたとはどういうことか。


「ALISの開発は、もうずっと前から取り組みが進んでいた。謠子の父親は何をトチ狂ったか、秘密裏に謠子と、妹の陽奈子ひなこちゃんをALISの開発に携わらせてたんだ。――陽奈子ちゃんも謠子ほどじゃないけど、これまた優秀な子だったよ」


 真由が悔しさをにじませながら目に力を込める。


「あのクソ親父は、娘二人の才能を見抜いていたんだな。その才能のせいで、蔡原姉妹は悲惨な人生を過ごした。外に出ることも許されず、蔡原邸の地下の設備で、ひたすら開発中のALISにかかりきりの日々だったって、謠子から聞いてる」


 葉月は絶句していた。想像もつかないような話だった。そんなのが許されるのは、小説か映画の中くらいだろう。この、二十一世紀も折り返しを迎えた日本で、そんなことがあり得るのだろうか。だが弓美はさっき真実だと言った。葉月も、弓美の言葉に偽りはないと思う。だとすれば、これが謠子の真実なのだ。


 葉月はふと思い出していた。家族の話をしたとき、わずかに謠子の顔がゆがんでいたのを。あの表情は、ひょっとすると悲しみだけからくるものではなかったのかもしれない。

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