Article 4. Who Stole the Heart?
Article 4. Who Stole the Heart? ①
三十分ほど、そのまま待っていた。連絡も飛ばしてみたが、当然と言っていいのか返事はない。直感が告げている。先週の欠席とは決定的に違う、何かが起きているのだと。
提出予定だった憲法のデータをひとまず確認しようと思い、いつものロッカーまで行った。本当なら、集合してからデータを回収し、
ロッカーを開けると、
あるはずの記録媒体はそこに置かれてはいなかった。謠子の私物もすっかり片づけられている。まるで、初めからそこには
残された自分の私物に紛れて、一枚の紙があることに葉月は気づいた。取り出して確認してみる。そこには一言だけが書かれていた。
「ごめんね」
几帳面な字は、間違いなく謠子のものだった。そしてこのロッカーに入れられている以上、葉月にあてられたものであることもまた、疑いようがなかった。
憲法のデータは謠子が持ち出したとしか考えられない。謠子はどうしてしまったのか。理解を超えた展開に、呼吸が速くなる。そのとき、紙の裏側にも何かが書かれていることに葉月は気づいた。
「
思わず口に出して呟く。意味は、まったく分からなかった。
憲法のデータは提出用のものとは別にクラウドで共有している。そちらがどうなっているか気になり確認すると、これまでのバージョンも含めてすべて消去されていた。発表用の基礎資料として記録していた各種のデータも、一切合切が消えていた。
とにかく落ち着こうと思い、頭の中で状況を整理する。約束の時間に謠子は来なかった。憲法は謠子が持っていった。それ以外のデータは消えた。書置きは、自分に向けられたもの。謠子が自らの意思で行方をくらましたであろうことは、もはや明白だった。だがその意図がわからない。謠子は一体何をするつもりなのか。
葉月は途方に暮れていた。何の予兆もない、突然の失踪。
とにかくこのまま放っておくわけにはいかない、と葉月は思った。先週の突然の欠席とは違い、明らかな異常事態だった。待っていればそのうち帰ってくるなど、この状況ではありえない。だが一方で、自分にできることなど一体何があるのかと絶望しそうになる。
少し落ち着いて、とにかく情報が欲しいと思った。葉月は
“弓美さん、
すぐに返事がきた。
“前と違うって、どういうことよ。”
すがるような気持ちで、メッセージをつなぐ。
“課題のことはご存知ですよね? 謠子は憲法のデータを持ち出したみたいです。それに、私にむけてごめんねって……。”
葉月は、泣き出しそうになっていた。メッセージを送った直後、フリーグラスに着信が入った。弓美からだった。
「葉月! おい、大丈夫か? 状況がよくわからないんだけど、一体何がどうなってる?」
事態を悟ったのか、直接電話をかけてくれた。葉月は震える声で返す。
「わかりません……。本当に、何でこんなことになってるのか。ごめんねっていう書置きがあったんです。これ、普通じゃない……」
要領を得ない葉月の言葉を聞きながら、電話口の弓美は、何か考え込んでいるようだった。
「書置きか……。アイツはふざけてこんなことする奴じゃない。何かがあったのは、多分間違いないな」
弓美の言葉に葉月も同意を示した。弓美が問いかける。
「何か、手掛かりとかないのか」
「書置きの裏にもメッセージがありました。000って」
「000? なんだそれ。こんなところで妙に遊び心入れやがって謠子のやつ……」
弓美が悪態をつく。どうやら、彼女にも意味は分からなかったようだ。弓美ならばひょっとして、と思っていた葉月は、淡い期待を打ち砕かれて消沈した。弓美がいらだちながら質問を続ける。
「おい葉月、謠子の様子に、何かおかしなところとかなかったか」
何がおかしいかと言われれば、全部おかしかったのだ。先週の謠子の欠席のときから。それは、ここ二か月半ずっと一緒に過ごしてきた葉月が、一番よくわかっているはずだったのに。
「この前の欠席のときから、何となく雰囲気はおかしかったです。昨日の打ち合わせのときも……。話しているときも、心ここにあらずって感じでした。何て言ったらいいんでしょう、ここにいない誰かに話しかけているような」
「ここにいない誰か……」
弓美が、葉月の言葉に反応した。その間にも、葉月は必死に記憶の糸を手繰り寄せる。もっとわかりやすい、手掛かりになりそうなものはないか。だが、これと言って具体的な何かには、思い当たらなかった。
「とにかく、いまからそっち行くから待ってろ。場所は法学部棟でいいな?」
「え、いまからって。ちょっと弓美さん! あっ」
一方的に切られた。
とりあえず、弓美を待つことにした。こんな状況なのだ。謠子の捜索に協力してくれる人間、しかも謠子を知っている共通の知人の存在は、とても心強かった。二人で話せば何か打開策が浮かぶかもしれない。とにかく、いまは弓美だけが頼りだった。
弓美を待つ間も、葉月は何か手掛かりはないか振り返っていた。同時に、どうしてこんなことになったのだろう、と葉月は思う。
いや、本当はずっと前から予兆はあったのだ。ここ二週間の謠子の様子は明らかに普通ではなかった。突然の欠席も、音信不通も。もっと真面目に考えておくべきだったのに、自分は何もしなかった。葉月は、猛烈な後悔の念に襲われていた。
一方で、彼女が連絡を絶っていた間はどのみちコンタクトを取れなかった以上、取りうる手段がなかったのもまた事実ではあった。そういう意味では、何かアクションを起こすとすれば、やはり昨日しかなかったのだ。
昨日の謠子は、完全におかしかった。終始視線はどこかに泳いでいたし、ずっと心ここにあらずと言った風だった。喧嘩をした日の謠子も気持ちがあさっての方向を向いているようだったが、あの感じとも違っていた。あのときは相応の落ち着きのなさが感じられたが、昨日の謠子の様子を一言で言えば、静だ。不気味なほど静まり返った雰囲気。それは、何か大事が起きるときの、嵐の前の静けさにも似ていた。
葉月は、自分の浅はかさを後悔していた。なぜ、もっと事情を聴こうと思わなかったのか。なぜ、謠子の様子にもっと意識を向けなかったのだろうか。悔いても仕方のないことだったが、葉月は悶々と考え続けた。
ふと、昨日謠子が提案してきた条文が頭をよぎった。個人幸福の追求の禁止。人の幸福の在り方まで国が決めてしまう、
過去を振り返っても後悔ばかりが出てきて、気持ちがふさぐ一方だった。謠子の居場所がわかるような情報にも思い当たりそうにない。葉月は記憶を探るのをやめて、再び現状に目を向けることにした。
やはり手掛かりになりそうなものと言えば、謠子が残した書置きだろう。ごめんね、という言葉は、純粋な謝罪に思われた。その几帳面な文字を見るたび、葉月は胸が苦しくなる。
問題は、裏面のメッセージだった。これは明らかに何かを示している。だが、葉月にパッと思い当たるものはなかった。
何か、謠子はこれにまつわるような話をしていなかったか。数字のゼロが三つ。ゼロゼロゼロ……。
次の瞬間、葉月はピンときて、思わず小さな声を上げた。
謠子がチェス盤とにらめっこしていたあの日。駒の動きと棋譜の書きかたを教えてくれた。あのとき、チェスの駒にはいくつか特殊な動き方があると、謠子はそう言っていた。昼下がりの教室、差し込む日差しに溶けるような、軽やかな声が脳裏によみがえる。葉月は、その言葉を声に出して反芻した。
「――キャスリング。棋譜に書くときは、000……」
そして、そのときの駒の動きは。
その時、窓の外に真っ赤な車が止まった。目立つ色に、思わず顔を上げてまじまじと見る。すると、中から一人の女性が降りてきた。シャツにジーンズのラフな格好をしていた。
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