Article 3. A Nomads' Tea Party ⑩

 午後。自習室でいつものように二人は座っていた。


「もう、いきなり休んじゃうから私困っちゃったよ。前に送ってくれたデータをもとに発表資料のたたき台をまとめておいたから、確認してくれる? まったく、少しは感謝してよ」


 づきは、そう言って資料案をうたに送る。


「ごめんなさいね。ほんと、迷惑かけてごめんなさい」


 謠子が平謝りする。その声を聴いて、葉月は気が付いた。――そう、静かなのだ。謠子の声は、底冷えしそうなほどの静けさに満ちている、そんな風に葉月には思われた。


 でも、きっと気のせいだろう――。そう葉月は自分に言い聞かせる。自らの内に湧いた違和感を振り払うように、葉月は続けた。


「憲法自体はもう完成ってことでいいかな? 正直、これ以上いじくるところないと思ってるんだけど」


 葉月の言葉に謠子はしばし考え込んでいたが、やがてぽつりと口を開いた。


「人の幸せって、何かしらね」


 無機質な声が室内に響く。質問の意図がわからず、葉月は混乱する。


「幸せって……。お金がたくさんあるとか結婚してるとか、子どもがいるとか? あ、それともうたこくの話? だったら、最初に決めたように、平等と安全が実現されていることでしょ。謠子ったら、いまさら何を……」


「そうね、ごめんなさい」


 困惑する葉月に謠子が詫びを入れる。それから彼女は、思いもよらないことを言った。


「……ねえ、謠葉国憲法に、最後に一つだけ条文を付け足してもいいかしら?」


「ええっと、別にかまわないけど、どんな条文?」


 戸惑いながらも、葉月は説明を求める。謠子は、「いま送るわ」と言ってメッセージを飛ばした。そこには、こんな条文が記されていた。


(個人幸福の追求禁止)

第○条 国民の幸福は、すべて創造主の意志のもと謠葉国によって与えられるものであって、個人としての幸福の追求は、認められない。


 予想外の内容に、葉月は相変わらず困惑するしかなかった。一体どういう意図でこれを書いたのか、その趣旨を知りたかった。だが、葉月が質問するよりも先に、謠子が話し始めた。


「人間、みんな自分の幸せが大切よね。だからそれを実現するために努力して、人生をささげて、みんな一生懸命生きているわ。それはとても素晴らしいことだと思う。もちろん、努力しなかった人間は幸せを手に入れられないけれど、それもその人が選んだ道だものね。仕方ないわ。みんな自分の人生の責任を、自分で引き受けている」


「それは、そうだね」


 謠子の言に、葉月は肯定の意を示す。


「自己決定の原理自体が近代市民社会の根本原理だから。自分のことは自分で決めて、その成果も、失敗も、全部自分のものとして受け止める。そういう社会がいまの世の中だよね」


 話が見えなかったが、謠子の言葉の意図を汲もうと、葉月は自分に言い聞かせるようにそう言った。


 自由の代償に責任があり、両者のバランスを自分で取りながら、人は生きている。そうやって世の中は回っている。


「ええ、そうね、成功は努力のおかげ、失敗は自分のせい。でも、みんながみんな必ずしもうまくいくわけではないわ。夢破れたり、志半ばで折れたりする人もいる。そもそも、誰かと誰かの幸せが、相容れないものだっていうこともある。この世の中は、必ず誰かにしわ寄せがいく仕組みになっている」


 そうつぶやく謠子の目は、葉月の方を見てはいなかった。視線を落とし、何かに取りつかれたかのように話している。


「もちろん、それはそうだけど、ある程度は仕方ない――みんなそう思ってるんじゃないかな。人間は完璧な存在じゃないから、どうしたってひずみは出るよ。それをどうにかするならば、私たちは全知全能の神になるしかない」


「完璧であること」を人間に求めた社会――前世紀に行われた、人類史上最大の社会実験――がどのような末路をたどっていったか、知らない謠子ではないだろう。そこにはただ悲劇だけが横たわっているのだ。謠子も、葉月の言葉に同意する。


「誰かが社会のひずみを受け止めて、人類社会は成り立っている。それは仕方のないことね。でも……」


 そこまで口にして、謠子は窓の外を見た。その目は、いまはここにいない誰かに向けられているように思えた。葉月は、黙って謠子の言葉を待った。


「でも、ディストピアの中なら、そうしてみるのもありなんじゃないかって思ったのよ」


 謠子の条文の意味が分かってきた。


 謠葉国は平等の実現を標榜している。一方で、個々人による幸福の追求は、必然的に持てる者と持たざる者とを生み出すだろう。それはまさに格差が生ずることに他ならず、謠葉国が掲げる平等とは本質的に相容れない。他人を蹴落としてでも自分が幸せになりたいという気持ちは競争を生む。もちろんその結果として文明の発展が促されてきたのもまた事実だが、それはまさに格差の発生を代価にした報償だ。誰かを犠牲にしながら、人類社会全体では進歩していく、それがこれまでの人類の歴史だった。謠子はこれを止めようというのだ。


 一方で、それを実行したら、謠葉国はどうなってしまうのだろう。葉月はさらに思考を巡らせる。自由競争が排除されれば、必然的に文明の発展は停滞することになる――。


 だが、そのことも謠葉国に限っては問題とはならないな、と葉月はすぐに気づいた。そもそも、謠葉国は文明の発展を国是においていないのだから。ただ永久不変の安全と平等が実現されること、それのみが謠葉国の目標なのだ。たとえ文明が停滞、さらには後退しようとも、安全と平等さえ実現されれば、謠葉国の悲願は成就する。社会を維持できないほどに文明が後退してしまう可能性もあるが、そうならないために管理統制AIがいるのだ。どれほどの文明水準かはわからないが、どこかの時点で下げ止まりは訪れるだろう。 


 であるとすれば、謠葉国において個人の幸福の実現とは、誰かを犠牲にしたにもかかわらず何のリターンも得られない完全に無意味な行為を意味する。画一化された幸福が、自由競争を排除し、社会秩序の安定をもたらすだろうことは自明だった。


「もちろん、試してみるのはありじゃないかな。うん、この条文はこの上なくディストピアっぽいし」


 そこまで考えて、葉月は謠子に同意した。謠子が小さく笑う。


「ありがとう、葉月。誰かを犠牲にして一部の人間が幸せになるなんておかしい。幸せは、みんなが好き勝手に追い求めていいものじゃない。むしろ、みんなで決めた幸せを一緒に実現していくんだ。それこそが、人類普遍の理想社会だ。そんな風に思う人もいるでしょうから、その思想をここで反映させてみるわ」


 謠子はとても楽しそうだった。葉月は、課題に取り組むときの彼女のこれまでの姿を思い出していた。新しい考え方や難しい問題にぶつかったとき、謠子はいつも、いまみたいな表情をしていたはずだ。


 ひっかかっているのは自分の気のせいで、やっぱりいつも通りの謠子に違いないんだ、と葉月は自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返した。


 シミュレーターへのセッティングは、あらかじめ謠子が準備しておいたのかすぐに終わった。おそらくこれで最後になるだろうか、シミュレーターを起動する。


 五分たっても、十分たっても、デジタルボードに映し出された画面が止まることはなかった。


「ずいぶん長いね……」


 葉月は思わずぼそりとつぶやいた。


 二十分しても止まらなかった。


「これ、終わらないぞ」


 葉月が言うと、謠子はシミュレーターを停止させた。キリがないと判断したのだろうか。画面に表示された数字を見て、葉月は小さく声を漏らす。


「十万年……」


 葉月のつぶやきに、謠子は恍惚とした表情で言った。


「ついに、私たちは来るところまで来たのね。完璧と言っていいディストピアを、実現させたのよ」


 とうとう、たどり着いた。葉月たちの目の前には、十万年たっても終わることのないディストピアがあった。権利と自由すべてを代価にして、幸福と平等と安全とを人類に約束した永遠の楽園が。


 ――ついにやってやった。そんな、脳みそがしびれるような達成感を、葉月は感じていた。だがそれとともに、小さな恐ろしさも胸の内に抱いていた。自分たちは、ひょっとしてとんでもないものを生み出してしまったのではないかと。


 でも所詮はシミュレーションでしかない、と葉月は自分に言い聞かせる。学生が課題で作った、最適化されたモデルの中での、架空の話でしかないのだから――。


「これでようやく、すべて終わりね……」


 謠子が、小さく、それでいてどこか重々しくつぶやいた。その目には、複雑な感情が宿っているように見えた。自分だけでなく謠子にも、この二か月半の課題にいろいろと思うところがあったのだろうと、葉月は思った。


「課題、提出期限だし、明日出しに行くってことでいいよね?」


 葉月が問いかける。データだけであればそのまま送ればいいが、提出に際して簡単な口頭報告をすることになっている。そのため、直接二人で横山教授のところに出向く必要があった。その提案に謠子は黙って小さくうなずいた。わざわざ提出用にクラウドから憲法を落として、ポータブルの記録媒体に格納する。それをいつものロッカーにしまって、二人は大学を後にした。


 帰り道、葉月はぼんやりと考えていた。


 ようやく、課題が終わった。いろいろなことがあったなあと、長いようで短かった二か月間半を振り返る。あとは明日の報告と最後の発表だけだ。ここをそつなくこなせば、単位も取得して、すべておしまいだ。


 課題が終われば夏休み。謠子と海に行く。


 謠子――。結局、何事もなかったのだろうか。確かに、今日の謠子の様子には何となく引っかかるところもあった。だが、それは自分がいつも以上に彼女のことを意識していて、それに引っ張られすぎたせいだろうと、葉月は徐々にそんな気がしてきていた。


 きっと考え過ぎなのだ。明日課題を提出すれば、ややこしいことは全部終わり。心配することなど何もないと、葉月は自分にそう言い聞かせた。


 自宅に帰ると、せっかくのなのでALISアリス終了のカウントダウンに参加することにした。お祭り騒ぎは苦手な葉月だったが、柄にもなく周囲と一緒に盛り上がっていた。まるで、心の中の違和感から、目を背けて逃げ出すかのように。



 そして、翌日。


 約束の時間に、謠子は来なかった。

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