Article 3. A Nomads' Tea Party ⑤
外に出て、傘を忘れたことに気づいた。気にせず、そのまま雨の中に身を躍らせる。最寄りの駅まで駆けていった。
ずぶぬれの格好で電車に乗った。周りの乗客に何事かという視線で見られたが、
その事実が、葉月の胸に重くのしかかる。怒りも困惑もいまはもう全部消えて、ただただ悲しみだけがそこにあった。
聞けば、教えてくれると思っていた。あるいは、言いたくないことならば、言いたくないと言ってくれればよかった。……嘘をつかれるとは、夢にも思っていなかった。
自分と謠子の間柄は、結局その程度だったのか。
電車を降りて、自宅までの道をとぼとぼと歩く。雨は一層激しさを増していた。服も下着も、びしょ濡れだった。
アパートに着くや否や、乱暴に鞄を投げ出して風呂場へと向かう。給湯器をセットして部屋に戻ると、濡れるのも構わずベッドにもたれかかるように床に座りこんだ。
結局、こんなもんか。葉月はそう思っていた。
なんだかんだ仲良くやっていると思っていた。それなりに、信頼関係を築けていると思っていた。でもそんな風に思っていたのは、自分だけだった。
期待した自分が、悪かったのだ。
お風呂の沸き上がりを告げるアラームが鳴った。のろのろと服を脱いで洗濯カゴに放り込み、風呂に入る。
湯船につかっている間も、葉月は悲しみに浸っていた。それでも、雨で冷え切った体はじわじわと温まっていく。そんな中で、胸と湯の熱さが混じり合う不思議な調和を、葉月は感じていた。焼けるような胸の痛みが、何かに溶け出していくような――。何も考えられない頭で、葉月はその感覚にただ身を任せていた。
どのくらいそうしていただろうか。締め付けられる心を温かい湯にほぐされて、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
風呂から上がって、冷静さを取り戻した葉月はひとまず部屋の後片付けをすることにした。濡れた床を拭き、カバンの中身も取り出して乾かした。ベッドもぐしょぐしょだったが、所詮はただの水と思い至り、これは放っておくことにした。
テーブルに腰を落ち着けて、これからのことを考える。手元には淹れたての紅茶があった。前に謠子におすすめされて買ったアールグレイ。ここ最近は、落ち着きたいときにはそれを飲むのが習慣になっていた。
まず頭に浮かんだのは、課題をどうしようかということだった。何はともあれ、課題は完成させて提出をしなければならい。だから必然、謠子ともケンカ別れしたまま、というわけにはいかなかった。
さっきの自分を振り返る。あらためて猛烈な後悔に襲われた。さすがに感情に身を任せ過ぎたと、葉月は反省する。いくらなんでも言い過ぎだし、やり過ぎだった。謠子に嘘をつかれたのは事実とはいえ、物事には限度がある。
それに――。謠子にだって、人知れぬ事情はあるはずなのだ。彼女が好んで嘘をつくような性格でないことは、短い付き合いとはいえ葉月だってよくわかっていた。
そもそも、怒りの原因は謠子に嘘をつかれたことだけだったのか。自分の中にここ数日渦巻いていた嫉妬やいらだちを、発散したかっただけではないのか――。
冷静になって振り返れば振り返るほど、謠子に合わせる顔がなかった
紅茶を一口飲む。ベルガモットの静かな香りが、すっと鼻の奥を抜けていった。
とにかく、誰かと話したかった。フリーグラスのメッセージアプリを起動する。
*
大雨にもかかわらず、友世は黙って来てくれた。場所は、葉月の家からほど近い喫茶店。友世の家からはだいぶ距離がある店だったが、彼女からの指定だった。
「ごめんね、友世ちゃん。雨の中わざわざこんなところまで」
「別に、大丈夫よ」
友世は、それだけ言って口をつぐんだ。「どうしたの?」とも「大丈夫?」とも聞かない。あくまで、葉月が自ら話し出すのを待っているようだった。それは、自分のペースで話せるという意味で葉月にとってありがたいことでもあったし、同時に、自分の意思で行動することを試されているようにも思われた。
「あのね、友世ちゃん」意を決して、葉月は口を開いた。「私、人にひどいことしちゃって」
「大学の課題の人?」
友世も、薄々察しはついていたようだった。うん、と答えてから、葉月は一言一言を絞り出すように、言葉を紡いでいった。
「人付き合いなんてロクなもんじゃない、ってずっと思ってた自分がいて、でも、あの人といるのはなんだか楽しくて。それで最近、あの人との距離感が、自分がどうしたいのかがわからなくって」
「ひどいこと」の説明にはまったくなっていなかった。だが、友世は黙って聞いてくれている。
「そんなとき、あの人から質問されたんだ。『葉月にとっての私ってどんな存在?』って。私は、答えなかった。答えなんて決まり切ってたのに。でも、答えなかった。そのことに、私はずっともやもやしてた。」
少し、沈黙が流れた。「それから?」と、今度は友世が促しをくれる。
「それから、私は自分があの人のことをどう思ってるのか、すごく意識するようになった。……本当は、きちんと伝えなきゃって思ってたんだ。でも、いまさら質問を蒸し返すのも、それこそ変だって、意識しすぎだって思われそうで、結局伝えられなかった。だから、せめて態度で示そうと思って、課題に打ち込んだんだ」
自分の中によどんでいた思いを一つ一つ形にしていくほどに、葉月は再び胸の奥が熱くなっていくのを感じていた。それを鎮めるように紅茶を口にして、さらに続ける。
「でも、そのあとさらにいろいろあって。向こうはきっと普段通りだったのに、私一人で空回りしてたんだ。日常の些細なことも、変に解釈しちゃって、一人で気落ちして、イライラが募って。そんな気持ちで今日会ったら、ちょっとしたことで嘘をつかれたんだ。それで、爆発しちゃった」
「それ、八つ当たりじゃない」
友世の言うとおりだった。端的に言ってしまえば、葉月の行動は子どもじみた八つ当たりでしかなかった。
「嘘をつかれたことについては、葉月も怒る権利はあると思うわ。言うべきことは言っていいと思う。でも、そのことと葉月が一人でうじうじしてたこととは、別問題よ。もちろん、よくわかってるでしょうけど」
その言葉を葉月はかみしめる。
友世がカップをかき混ぜるマドラーの音だけが静かに響いていた。ミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを口にして、それからふと、友世が表情を崩した。
「葉月、最近変わったよね。前はこんなことで悩むタイプじゃなかったのに」
思わず、「えっ」という声が出た。二の句を告げずにいる葉月に、友世が続ける。
「ずいぶん素直になったんじゃないかしら」
「そうかな……」
そんな指摘をされるのは意外だった。
謠子の素直さを見て、憧れる気持ちはあった。でも、自分には無理だといつも悶々としているばかりだった。
葉月の口から、自然に言葉が出る。
「あの人を見てて、素直ってとってもいいことだなって思ったんだよね。それで、私もあんな風に素直になれたらなって思って、でも全然ダメだなあなんて思ってたのに」
変わりたくても変われないままの、野田葉月のはずだった。
そんな葉月の言葉を聞いて、友世がクスリと笑う。
「その発言自体がありえないほど素直だわ。ちょっと前までの葉月なら、そんな人に弱みを見せるような言い方、絶対しなかったもの」
そこで初めて、確かにと思う。
自分でも自覚はしていないまま、それでも少しずつ謠子の影響を受けて、変われていたのか。そのことに気付いて、こんな状況なのに、嬉しさがこみあげてくる。
「そっか、よかった」
そう短くつぶやく。そんな自分に向けられた友世の視線は、とても優しげだった。それから、友世が葉月にあらためて一つの問いを投げかけた。
「それで、葉月はどうしたいの」
核心的な質問だった。結局、問題はそこなのだ。起きたことの分析をいくらやっても、物事は前に進まない。大切なのは、これからどうするか、どうしたいかということだった。
葉月は、何も言えずにいた。友世も押し黙ったままの葉月をしばらく見つめていたが、やがて口を開いた。諭すような、それでいて優しい口調だった。
「別に、それを私に言う必要はないわ。でも、答え出てるんでしょう?」
葉月の沈黙を、友世は肯定と受け取ったようだった。
「言いたいことは言えるときに言わないと、きっと後悔するんじゃないかしら。いまさら私が言うまでもないでしょうけど」
葉月は黙ってうなずいた。その様子を見て、友世はコーヒーの残りを飲みきると立ち上がって荷物をまとめる。
それじゃ、と言って立ち去ろうとする友世に、葉月は声をかけた。
「話聞いてくれて、ありがとう」
友世は振り返ると、微かな笑みを浮かべて言った。
「今日の分は、今度ケーキで受け取るわ」
*
友世が帰ってから少しして、葉月も喫茶店を出た。
自宅について、ひとまず着替えようとする。気がせいていたせいか、テーブルの上にあった何かに腕がぶつかった。それは、謠子が使っていたものと同じチェスセットだった。いつか彼女と対戦するため、勉強しようと思って買ったもの――。
謠子は、狭い世界に閉じこもっていた葉月にいろいろなことを教えてくれた。チェスのことも、紅茶のことも、シミュレーションのことも、そして――素直になることも。
フリーグラスのメッセージアプリを起動する。
素直に、ならなきゃいけない。そのことの大切さを教えてくれた人に伝えなきゃいけないことがある。そのためには、まず会って話さなければいけない。直接言葉にして伝えないと、きっと意味がない。
メッセージを打ち込む手が震える。いま言わないときっと後悔する。友世の言葉と、何よりも自分の気持ちに背中を押された。指を弾いて、思いを飛ばす。
“話したいことがあります。どこかで、時間をもらえませんか。”
返事はすぐに来た。
“金曜日の午後、空いています。”
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