Article 3. A Nomads' Tea Party ④
再び水曜日がやってきた。
文字通り三日三晩思い悩んだ葉月は、結局謠子を問いただすことに決めて家を出た。
東京もすっかり梅雨入りし、今日も雨だった。
人間、傘をさすと視野が狭くなる。物理的な意味合い以上に、普段は見えない、自他を隔てる境界のようなものを突然意識させられるような気がする。すれ違う人の意識も自然とその内側に向いてしまっているようで、時折、誰かと傘同士がぶつかった。雨の日はどうしても他人に気を配る余裕がなくなるものだなと、葉月はふと思った。
大学までの道を歩きながら、傘の内側の世界で、葉月は決意を新たにする。
理性がどれだけ押しとどめても、見て見ぬふりなんてもうできない。すべてを、正直に聞こう――。
立法学の講義が始まっても、葉月はまったく集中できなかった。いつ、どうやって謠子に話を切り出そうかとずっと考えていた。午後はいつもの通りシミュレーションを行う約束だ。ゆっくり話をするのであればそのタイミングだろう。ただ、課題は課題としてきちんと進めておく必要がある。やるべきことはこなさなければならない。ひとしきり今日の作業を進めたところで、帰り際に話をしよう、と葉月はそう心に決めた。
隣に座る謠子を盗み見る。何となくぼんやりとしていて、講義に集中できていないようだった。手も全然動いていない。謠子はいつも真面目に講義録をとっているから、そんな様子にとても違和感があった。
普通でないのは、どうやら自分だけではないようだった。てっきり謠子はいつもの様子でいるかと思っていたので、予想外の状況に気持ちを揺さぶられる。
直近で謠子に会ったとき――先週学食で弓美と一緒にいたときは、積極的に葉月と会話しようという感じではなかったものの、さほど大きく変わったふうでもなかった。あの後から今日までの間に、何かがあったのかもしれない。それは、謠子がALISにいたことと関係があるのだろうか。やはり問いただしてみるしかないと、葉月は強く思う。
講義を終えて、道具をしまってある共用ロッカーに寄り、自習室に入る。もう幾度となく繰り返してきたお決まりの流れ。だがそれも、いまの葉月にとっては一つ一つの動作がじれったく感じられた。
とにかく、やるべきことはやってしまわねばならない。まずは今日の作業を終わらせよう。話はそれからだと自分に言い聞かせ、葉月は切り出した。
「とりあえず、今日からはいまの憲法をとにかく真逆にして盛り込んでいくって話だったよね。実は私の方でいくつか案を作ってきたから、それから試してみていいかな?」
葉月の問いかけに、相変わらずぼーっとした様子の謠子が、やや遅れて反応を返す。
「……え、ええ。いいわ。やりましょう。ええっと、シミュレーターの準備をするわね」
「お願いね」
謠子の反応の鈍さに、葉月は少しいらだっていた。課題なんて早く進めて、ALISについての話がしたいのに。
「ねえ謠子、大丈夫? 体調悪いの?」
その言葉に、謠子ははっとしたように葉月を見る。
「え? ああ、大丈夫よ。私は今日もすこぶる元気」
とてもそうは見えなかったが、謠子の方でも自分が葉月にどう見られているかに気づいたようだった。作業を促すという目的は達したものと思い、葉月もひとまずここはそれ以上追及しないことにする。
謠子がシミュレーターの起動をしている間、葉月は条文の準備をしていた。悶々としながら書き進めた、この三日間の数少ない成果物。作業を終えて席に着いた謠子に、それを見せる。
(言論および表現の制限)
第○条 国家秩序に反する言論および表現は、これを認めない。
二 検閲が行われたときは、国民は、これに従わなければならない。
条文を見て、謠子は淡々とそれを音読したきり押し黙った。業を煮やして、葉月の方から話しかける。
「こんな感じなんだけど、どうかな」
「……いいんじゃないかしら」
気のないリアクションだった。仕方なく、葉月の方で条文の趣旨を説明する。
「
「ええ、いい方法じゃないかと思うわ」
「今回の条文がある限り、国民は体制に反するような思想を抱いても、それを他人に伝えることが難しくなる。ネットやテレビなんかを通じて大々的に思想を拡散することもできないから、ごくごく近しい人に自分の思ってることを伝えるのが関の山ってとこ。これじゃ、到底国家をひっくり返すような大きな革命運動の発生には至らないんじゃないかな。謠子、第二項の意味は分かる?」
放っておくとまた黙ってしまいそうだったので、葉月の方から先手を打って問いかけた。
「ええと、ごめんなさい。よくわからないわ」
「じゃあ説明するよ。第一項で表現の自由を制限するって書いたけど、これを担保するための方法が必要だと思ったんだよね。だから、明文で執行機関に検閲の権利を認めた。
「……なるほどね。第一項で情報伝播の制限を、第二項でその制限に実効性を持たせるための方法を書いているのね。じゃあ、これで試してみましょうか」
葉月の内心を察してか、さすがに謠子も課題に意識を向けたようだった。一応、条文の理解はできていた。謠子が憲法をセッティングして、シミュレーションが始まる。
シミュレーターが停止するまでの間、二人は席でじっと待っていた。謠子はまた気が抜けたのか、うわの空で窓の外を眺めている。じれる気持ちと、どこからくるのかわからないいらだちとが相まって何となく落ち着かず、葉月は謠子に話しかけた。
「この間の、学食のとき、
「……
「あのときあんまり会話に入れなかったんだけどさ、あの人、謠子の知り合いなんだっけ?」
いくらなんでも話題選びを間違えたかもしれない、と気づいたときには遅かった。学食で一人のけ者にされたときの気持ちが、葉月の中にふつふつとよみがえる。湧き上がる感情に従うまま、言葉に棘が混じった。
「ええ。知り合いというか友だちというか、みたいな感じだけど」
「ふうん。まあ、どっちでもいいけどさ。あの人、ちょっと失礼じゃない? 常識全然ないっていうか」
声に出して話しているうちに、どんどんヒートアップしてくる。ここ数日自分の中で渦巻いてきたいろんな感情が、行き場を求めて胸の内でたぎっていた。気持ちのコントロールが利かない。
「……確かに弓美は他人に対してあけすけな物言いをするから、もし気分を悪くしたのなら私が代わりに謝るわ。……でも葉月、そんな言い方はないんじゃないかしら。弓美だって、悪気があって言ったわけじゃないのよ」
謠子が、むっとしたように言い返す。彼女はいつも物腰柔らかいから、こんな表情をするのを見るのは初めてだった。それに少しだけどきりとしたが、それでも気持ちは収まらない。
「私はそうは思わないけどね。あの人の態度の方がよっぽど、ないと思う。初対面の人間に向かってあの言い草はないんじゃないの」
さらに畳み掛けると、謠子は少し黙って、それからゆっくりと言った。
「…………葉月の気持ちは分かったわ。弓美にも、そう言っておく」
「お願いね」
表面的には一応この話題は終わったが、葉月の頭の熱は冷めないままだった。なにより、謠子が弓美をかばったのが、葉月はとても気に入らなかった。それで、帰り際に聞こうと思っていた言葉が、つい口をついて出た。
「あとさ、謠子、ALIS始めたんだ」
うつむいていた謠子が、はっと顔を上げた。目が合い、じっと見つめ合う。
「何の話かしら。前も言ったとおり、私はALISはやらないわよ」
謠子が静かに言い切った。その言葉で、謠子との間に流れる空気が一気に張り詰める。
「謠子、それ本気で言ってる?」
自分でも驚くくらい低い声が出た。
「本気も何も、事実よ」
一瞬、謠子の目が泳いだ。それだけで十分だった。
頭の中が瞬間的に真っ白になって、それからすぐに、燃え上がるような何かが体中に湧き上がってくる。
葉月の中で、何かが爆発した。
「……うそつき」
葉月の小さな呟きに、謠子が「え?」と目を丸くする。あふれ出てくるものに流されるがまま、葉月は立ち上がって叫んでいた。
「謠子のうそつきっ! 私見たんだよ! 植物園で、謠子が突然消えるのっ! 私、全部見てたもん! なのに、どうして、嘘つくのっ……」
怒りと、焦りと、困惑と、何より悲しみで胸がいっぱいだった。
いきなり大声を上げた葉月を、謠子は座り込んだまま呆然とした表情で見つめていた。
「謠子なんか、もう知らない!」
カバンをひったくるようにつかんで乱暴に自習室の扉を開けて、葉月は廊下へと走り出る。
何もかもを振り切るように、教室棟の出口へと走り抜けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます