Article 3. A Nomads' Tea Party ③

 園には五分ほどで着いた。現実では、もう梅雨入りまで間もないという頃合いだ。十九世紀の英国を模したこの中央エリアには梅雨こそないものの、春の終わりに溢れる生命力は、こちらでも変わらなかった。園内には色とりどりの花が咲き乱れていて、多種多様な香りが漂っている。入口にあった案内板を見て、づきは何となく心惹かれる方に足を向けた。


 それぞれの植物のそばには、名前と特徴が書かれた小さな札が立っている。その一つ一つを読みながら歩いた。どれも見事な鮮やかさで、これがすべて仮想現実だとは到底信じられなかった。解説によれば、日本ではお目にかかれない種も多くあるようだったが、残念ながら葉月にはそれに感嘆できるほどの知識もなかった。


 視線を落として花を見ていると、ふと視界の端にちらつくものがあった。反射的に顔を上げると、遠くで誰かが早足で歩いて行ったようだった。ちょうどその方角には、背の高い生垣があって、向こうが見通せなくなっている。この場所に、そんなにせわしない人間は似合わない。どんな人物か葉月はふと気になって、確かめてやろうと思った。


 さっき見た案内板によれば、生垣の奥は確か行き止まりだから、さっきの人物は左右のいずれかに進むしかない。そこで、姿が見えるはずだった。


 予想通り、その人物は右手に曲がって、葉月の死角から外れた。すらっとした長身と、肩下まである髪が歩く勢いで揺れているのが目に入った。


 そこにいたのは、うただった。


 あまりにも予想外の展開に、葉月は混乱していた。


 だって、謠子はALISアリスをやっていないはずじゃなかったか――。


 謠子はそのまま道を進んで、植物園の外れへと向かおうとしている。このままでは見失ってしまう。葉月も、急いで後を追った。


 謠子が向かった方に早足で進みながら、冷静さを取り戻してきた頭で考える。


 別に、いま時点で謠子がALISにいることは、過去の言動とは矛盾しない。例えば、ALISのサービス終了の知らせを聞いて、せっかくだからと最後にログインしたという可能性もある。新規アカウント数がここにきて急増している、とそんなニュースが流れていたことを葉月は思い出していた。謠子は前に意識が飛ぶのが怖いと言っていた気がするが、最後ともあって勇気を出してみたのかもしれない。


 自分の中で納得のいく仮説が立つと、気持ちも落ち着いてくる。何もおかしなことはないのだ。ただ、追いついて普通に接すればいい。謠子が進んでいった生垣の右手の道は一本道で、その先も開けている。急がなくても、見失うことはないだろう。


 追いついたら、声をかけて、話をして。それからどうするだろう。もしかすると、ALISを一緒に回ることになるだろうか。今日はもう時間がないから、今度どこかで待ち合わせをして……。


 そこまで考えて、葉月は自分の思考に驚いていた。


 確かに、この非現実を誰かと共有できたら楽しいだろうと思ったことも、ないわけではなかった。しかし、自ら人付き合いを断っている以上、都合のいいときだけ時間を共有したいというのが虫のいい話であることは、葉月も自覚していた。それでももし誘うとすれば友世か真由だったが、友世はALIS自体を嫌がっていたし、真由はALISには抵抗はなさそうだが、多忙なようで声をかけづらかった。二人以外に一緒にいて楽しいと思える人間などおらず、そもそもほかに自分に付き合ってくれる人間など望むべくもない。


 だがいまの葉月は違った。謠子となら一緒にいてもいい気がしていた。謠子になら、そんな望みも叶えてもらえるような気がしていた。


 そうか、と葉月はようやく気が付いた。自分が何を望んでいたのかを。


 それが本音か。私は、謠子と――。


 生垣の奥の突き当りに来たところで、葉月は謠子がさっきしたように、右に曲がった。少し離れたところを、謠子が歩いている。


 このまま歩いて、追いつこう。きっとびっくりするに違いない。気づかれたら面白くないと、葉月は音を殺しながら、謠子の方へ歩いて行った。


 唐突に、謠子が歩みを止めた。どうしたんだろう。振り返られたらまずい――と思い、慌てて葉月は手近にあった物陰に身を隠した。


 謠子は、しきりに周りを見回していた。周囲を確認しているようなしぐさに、違和感を覚える。何を気にしてるんだろう? と葉月が思っていた矢先。


 謠子が、消えた。


 何の予備動作もなかった。まるで幽霊が姿をくらますかのような、突然の消滅。見間違いではなかった。確かにさっきまで謠子はそこにいたはずなのに。


 また混乱の波が押し寄せてきた。何だ、いまのは。必死に考える中で、葉月はある一つの言葉を思い出していた。


 チェシャ猫。突然現れては消えるという、ALISの都市伝説。


 さっきの謠子の様子は、まさにそれだった。


 謠子がチェシャ猫? でも、そんなはずはない、と葉月は自分に言い聞かせるように考える。だって謠子は、ちょっと前までそもそもALISをやっていなかったはずなのだから。どうにかして否定材料を探そうとするさまは、自分でも不思議なくらい必死だった。


 そんなはずはない、そんなはずはないのだ。


 葉月はただ、呆然と立ち尽くしていた。


 どのくらいそうしていただろうか。ぴぴぴ、と小さな警告音で、はっと我に返る。その音は、頭の中に直接響いていた。直後、意識が急速に引きはがされようとする。時間だった。午前零時を迎え、全ユーザーが赤の女王によって強制的にログアウトさせられる。意識が、落ちる。


 気がつくとアパートのベッドの上だった。


 場所が変わっても思考は途切れることなく続いている。現実の葉月の頭の中も、謠子のことでいっぱいだった。


 あれは普通の動きではなかった。謠子がチェシャ猫であってもなくても、何かがおかしいことは確実だった。それから、葉月はある根本的な事実に思い至る。


 そもそも、謠子は謠子の姿をしていた。


 ALISのユーザーは現実での自分の姿をとれない。必ずアバターに扮することが、ALIS利用の条件になっている。ユーザー間のトラブルを回避するため、運営側が設定したルールだ。


 謠子に成りすました別の誰かだという線も、同じ理由でありえない。現実の他人の姿をとることもまた禁止されている。それに、あのどこか品の漂う雰囲気やしぐさは、謠子本人のものとしか思えなかった。これは直感だったが、葉月は確信していた。あれは間違いなく、蔡原謠子その人だと。


 本人に、直接聞いてみるしかないだろうか。


 あるいは、見なかったことにするという手もある。どのみち、あとひと月足らずでALISそのものが終わるのだ。ALISが終われば、謠子がチェシャ猫だろうがそうでなかろうが、そんなことはもはや問題でなくなる。なるほど、今日のことをすべて忘れるというのは、葉月にとって一つの妥当な解のように思えた。


 ただ――と葉月は思う。それで、自分は納得できるのだろうか。


 葉月は、謠子が消える直前まで考えていたことを思い返していた。自分がどうしたいのか。これからどうなりたいのか。


 唐突に降って湧いた新たな問題は、あまりにも難しい選択を自分に突き付けているように、葉月には思われた。


 いままでの自分なら、目をつぶってすべてを忘れることを選んだかもしれない。謠子との関係も課題が終わればそれきりで、これまで通り何事もない日常を過ごしていくだろう。だが葉月は、自分の気持ちに気づいてしまった。


 ――私は、謠子ともっと仲良くなりたい。


 自分の中に芽生えたこの思いを前にして、見なかったことにするという選択は、許されるのだろうか。これからずっと、このもやもやした気持ちを抱えながら謠子と関わっていったとして、そのことに自分は耐えられるのだろうか。

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