Article 2. It's NOT My Own Intention ⑩

 と飲んで以来、づきは落ち着かなかった。


 胸のざわめきを紛らわすように、無心で課題に取り組んだ。ふとしたときに気を緩めると、あのときのうたの顔が脳裏にちらつく。


 やめよう、課題に集中しよう。手を動かしている間だけは、余計なことを考えずにすむ――。


 自分の中のもやもやが何なのかわからないまま、葉月は悶々と一週間を過ごした。


 六月最初の水曜日。葉月と謠子は立法学の講義を終えた後、いつもの自習室にいた。


磯川いそがわ先生にいただいたアドバイスで、道が開けそうだわ」


 そう言う謠子の様子には、特に変わったところはないように思える。そのことになぜか安堵ともやもやを覚えながらも、葉月は話を進めていった。


「いまの憲法の条文を片っ端から真逆にしていくっていうのと、思想統制をするっていうのと、大きな方向性が二つあったよね。私的には思想統制の方が、重要度高いんじゃないかなって思ったんだけど、どうかな」


「そうね。先生のお話、とても説得力があったもの。まずは、そちらから進めましょうか」


 少し間をおいて、葉月が口を開く。


「ねえ謠子。いままでずっと考えてこなかったんだけどさ、憲法の前文ってあるじゃん?」


「前文……って、条文の前にある前書きみたいなやつのこと?」


「うん。それでさ、今回盛り込もうとしてる思想統制――特に、信仰や崇拝の部分って、創造主である私たちの話とかも出てきて、かなり国の在り方そのものに触れてるよね? 一般的に見ても、前文ってそういう内容が盛り込まれてることが多いから、このタイミングで書いたらどうかなって思ったんだけど……」


「確かに、私が読んだ憲法も、その部分で国の理念とかそういうことを書いてあったように思うわ。じゃあ、どんな内容にするか検討していけばいいのね?」


 そこで葉月は、「実は――」と切り出して言った。「もう考えてきたんだよね」


「えっ」と驚きの声を上げる謠子のコンタクトに、指を弾いてフリーグラスの画面を共有する。


(前文)

 古来より人の世に争いが絶えることはなく、また文明の発達によって、人の世に格差が生じ、かつその拡大はとどまるところを知らない。人類は平等な存在であって、これに反する状態が存在していてはならない。人類は平和のうちに暮らし、これらを脅かすものから永久に免れていなければならない。そしてまた、かかる平等と安全の実現こそが、人類にとって他の何物にも優先する根源的な幸福であると確信する。創造主は、永久の幸福、平等および安全を、人類および人類社会普遍のあるべき姿として切望する。

 創造主は、これら人類共通の理想である幸福、平等および安全を人びとに与えるとともに、かかる理想の真なる体現と実現とを遍く知らしめるべく、ここにうたこくを建国した。そしてまた創造主は、かくして建国されたる謠葉国の礎をなす恒久普遍の大典として、その名において、ここにこの憲法を制定し、謠葉国に付与する。


 無言で読み込む謠子に、葉月は説明をする。


「内容としては、国の在り方の説明と、創造主の行為を説明してる感じ。謠葉国は、平等と安全こそが幸福だっていう根本思想に基づいていることを明文化しているんだね。こう書いておけば、無意識のうちにでも、国民の価値観が、平等と安全を最上のものと感じるものになるんじゃないかな」


「まさに思想統制ね」


 謠子が端的に感想を述べた。


「それから、この憲法は創造主である私たちが謠葉国民に与えたものなんだってことを強調してみた。国是の幸福、安全、平等も、創造主から与えられたものだってことになってるね」


「彼らがいま平和に暮らせるのは、すべてそれらを与えてくれた、創造主のおかげだってことにしているのね」


「うん。彼らが暮らす平和は、自分たちの努力で勝ち取ったものじゃない。ただ与えられたものなんだ。だから彼らは、平和を自分たちの誇りにできない。自分たちの力で守っていかなきゃいけないんだっていう強い意思がないから、結果としてAIの言いなりになりやすいんじゃないかなって」


 謠子が感心したように声を上げた。


「前文のレベルから、民衆の意思を骨抜きにしているのね」


「それから、もう一つがこっち」


 葉月は、フリーグラスのウィンドウを切り替えて、謠子に見せた。


(内心の制限)

第○条 国民の内心は、国家秩序の維持に必要な範囲内において、制限される。

 二 執行機関は、国民の内心を直接調査することができる。調査の結果必要と認めるときは、執行機関は、これに対し指導を行うことができる。


「これも、国民の内心をコントロールする方法の一つ。謠葉国民は、国の秩序維持のために、心の中を国に把握されることになる。反逆を企てている人間がいれば、政府がそいつを捕まえて内心を取り調べられるんだ。もしクロなら、指導が待ってる」


 葉月の説明を聞いて、謠子が重々しく言う。


「要は、人の心を覗き見していいってことね?」


「まあ、そういうこと」との葉月の返事を受けて、謠子が静かに続ける。


「なかなかエグいルールね……。どれだけ物理的な制限を受けても、人間にとって内面は、誰にも手が出せない聖域のはずなのに。誰だって、心にだけは誰にも直接踏み込んできてほしくないと思っているし、踏み込めないことが保障されているから、安心して暮らせるものね。でもこの憲法は、そんな最後の安息地さえも、奪おうとするんだわ」


 この憲法の前では、いまの自分が抱えているもやもやも、すべて白日の下にさらされてしまうだろうか――。そんなことを葉月が思っていると、謠子が質問してきた。


「ねえ葉月、第二項のところ、『指導を行うことができる』ってあるけれど、これはそんなに優しい指導を意味してるわけじゃないのよね?」


「そうだね。どちらかと言えば、他人の内心を強制的に書き換えるような激しい『指導』だね……。言うこと聞かないなら、二度と帰れないタイプの」


 予想される展開を口にする。我ながら恐ろしいことを言っているなと葉月は思った。


「この部分は、憲法に書いておくべきことなのかしら?」


 謠子の疑問は続く。


「微妙なところだけど、国家機関に授権をしておくっていうのは、方向性としては重要じゃないかな。もうずっと議論してる通り、憲法は一般的には国家権力を拘束するものだけど、主権者である私たちとしては、この憲法は国家権力を縛るにはもう十分だと判断してるよね?」


 謠子の理解を促すように、葉月は問いかけた。謠子が「ええ」と言葉を返す。そのまま葉月は続けた。


「だけど憲法には、権力の拘束以外にも、国民の権利制限を明文化して国民に意識させるっていう使い方もあるんじゃないかな。私たちはもう十分国の権限を制限したから、今度は国をあるべき姿に導いてもらうために、執行機関に権限とお墨付きを与えてあげればいいんだよ」


「なるほどねえ。じゃあ、一旦これでシミュレートしてみるわね」


 結果は上々だった。民主革命を起こそうという思想を事前に察知して芽を摘めるようになったことで、ディストピア体制の生存期間は、大幅に伸びていた。


「ここまでの平均存続期間は二百年ほどだったけど、今回はおおむね三百年を記録したわ。磯川先生様様ね」


「今度お礼を言いに行かなきゃね。今回の結果を見て、修正すべきところってあるかな?」


「そうねえ。民主革命に至る背景には、国への信頼の弱まりがあるのよね。例えば、今回は創造主、つまり私たちへの信仰が弱くなったために、次第に反体制的な思想が生じていったわ。ほかの神様なんかを崇めだして、創造主への気持ちが薄くなっていったのね。彼らが生み出した新しい教義の中には、現体制に疑問を抱かせるものもあったでしょう。ここを突いてみるのはどうかしら」


 謠子が冷静に分析をした。


「なるほど。それじゃあ、信教の自由を制限すればいいんだね」


「うん。それは一つの回答になると思う。葉月、作文お願いしていい?」


 謠子に言われるまでもなく、葉月は作業に取り掛かっていた。すぐに書き上げると、謠子に共有する。


(信教の制限)

第○条 創造主以外への信仰は、これを認めない。


「これはあんまり凝っても仕方ないから、シンプルなのでいいかなって。これで一回やってみよう」


 予想通り、ディストピア体制の存続期間は若干伸びた。


「悪くない結果ね」


「うん、そうだね」


 謠子の意見に賛同する。突然、謠子が切り出してきた。


「だんだん国家が安定してきて、シミュレーションにかかる時間が長くなってきたわね」


 葉月も、ちょうどそんなことを思っていた。シミュレーションの基本は複数回テストだ、と前に謠子に教わったことを思い出す。一回あたり十五分もかかっていたのでは、作業効率としてはイマイチだった。


「少し、速度を上げてみるわ。そうね、とりあえず二十倍速くらいにしてみようかしら」


「結構早回しだね……。二十倍ってことは、一分が四百年!」


 葉月は思わず声を上げた。


「これからもっともっとディストピアを成長させていくんだから、いまのうちに作業をしておいた方がいいと思うわ。少し時間を頂戴」


 謠子はそう言うと、早速作業に取り掛かった。


 謠子が作業をしている間、葉月はフリーグラスをいじりながら考えていた。


 実はもう一つ、用意してきた条文がある。それは、これまでまったく議論にも出てこなかったもので、自分が勝手に考えて作ったものだ。はっきり言って、全然頓珍漢なものかもしれない。


 シミュレーターを調整している謠子。その背中を見て、なぜだか胸が熱くなる。


 謠子が作業の完了を告げたのと、葉月が意を決して切り出したのは、ほとんど同時だった。


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