Article 2. It's NOT My Own Intention ⑨
大学から五分ほどのところにある、
「だからあ、どうしていつもフラれちゃうのかしらあ。ねえどう思う?
日本酒をお猪口に注ぎながら、真由がくだを巻く。
店に入ってから一時間半ほど経過していたが、真由はすでに相当出来上がっていた。ひと月ほど前に知り合った男と、連絡がつかなくなったらしい。遊園地デートでお化け屋敷に入ることをかたくなに拒否したら、喧嘩になってそれきりということだった。
私に聞かれても知らん、というのが葉月の正直な思いであったが、放っておくと面倒くさいので、適当にお茶を濁すことにした。
「まあ、そのうちいい人見つかるよ……。それに、お化け屋敷ごときでわーわー言う男なんか、放っておいて正解だって」
「よね? よね? ああ、私のことわかってくれるのはやっぱり葉月ちゃんだけだわあ!」
「うわ、ちょっと抱きつかないでよ!」
絡みついてくる真由を引きはがしていると、向かいに座っていた
「
「本人の名誉のためには何とも言いづらいところだけどね。似たような話、すでに今年に入って三回目だよ……。前回は、ご飯にソースだっけ? 何か食べ物関係でドン引きされたらしくて」
「ご飯にマヨネーズ! 別にご飯に何かけて食べたって自由じゃないのよ!」
真由が大声で訂正がする。
「で、その前は、カレーのルーを左側に持ってくるのが許せないとかなんとか」
「ルーが左はあり得ない」
「左だと何か不都合があるんでしょうか」
速攻で自己主張を繰り出してきた真由に、謠子が真面目な顔で質問した。適当に流せばいいものを、謠子も謠子で相変わらずだな、と葉月は呆れてしまう。
「いい質問よ、謠子ちゃん。いい? そもそも、一般的な右利きの人間を基準にすれば、ルーを右側にしてスプーンでルーをすくってかけて食べるのがあるべき姿であって……」
案の定、真由は独特の理屈でよくわからない説明を始めてしまった。葉月は欠片も聞く気が起きなかったが、謠子は真面目な表情を崩さず聞き入っている。もう勝手にやってくれとばかりに、葉月は無言で料理を口に運んだ。
「よって、左利きは例外としても、基本的にルーが左側はあり得ないわけ」言葉を切って、真由は日本酒をあおる。「ああ、本当に、どうして私は幸せになれないのかしら……」
彼女がたどり着く結論はいつも同じだった。葉月から見ても、真由は見た目もきれいだし、穏やかな性格だし、もっと引く手あまたでもおかしくないのにな、という印象はある。いや、妙に感覚がずれているところとか、この酒癖の悪さとか、思い当たるところもあるにはあったが。
「どうせ私は誰にも愛されず、このまま一人寂しく死んでいくんだわ……。どんなに研究ができたって、役職貰ったって、本当に欲しいものは何一つ手に入らないのよ……」
頭脳優秀な三十三歳独身研究者の胸の内は、傍から見るよりも複雑なようだった。
「またそうやってすぐ悲観的になるんだから……」
呆れるばかりの葉月だったが、一方の謠子はと言えば、そんな二人のやり取りを見て楽しそうに笑っていた。
「ちょっと、笑ってないでコイツを何とかしてよ謠子」
思わず愚痴が出る。
「でも、もう先生完全にダウンみたいよ?」
へ? と横を見てみれば、真由は机の上に突っ伏して死んでいた。葉月がトイレに行くよう勧めると、むくりと起き上がり、店員に付き添われて店の奥へと歩いていく。
「まったく本当におめでたい奴……」
もう溜息しか出なかった。
「いいわね、姉妹みたいで」
千鳥足の真由の背中を心配そうに見つめていた謠子だが、やがて視線を葉月の方に戻すと、そうぽつりと言った。
「姉妹というよりは舎弟みたいな扱いだけどね。でも、今日みたいに頼れるときは頼れる人」
真由とは、物心ついたころからの付き合いだ。親戚に使う言葉として正しいのか葉月にはわからなかったが、
「なるほどねえ。葉月が誰かと仲良くしてるのって、ちょっと新鮮で」
謠子がぼそりと言う。
「それ、どういう意味⁉」
葉月は膨れ顔で言った。実際のところはそうなのだが、謠子にもそんな風に思われていたことを知って、猛烈な恥ずかしさが襲ってきた。謠子もお酒が入って、普段より踏み込んだ会話をしてきているようだった。
「ごめんごめん。他意はないのよ。葉月って、一人でいる方が好きなタイプなのかなあって思って」
「まあ、どちらかといえばそうだけど。よく話すのは、真由と、あとは幼馴染が一人」
真由と友世は、葉月にとって本当に貴重な理解者だった。二人とも、人嫌いの葉月に対してもうまく距離感をとって付き合い続けてくれている。そのことには、感謝しかない。
「でも、逆にいいなあと思うの、そういうの。微妙な仲の知人がたくさんいるよりも、本当に自分のことをよくわかってくれて、それでも付き合ってくれる人が一人でもいる方が、よっぽど大事なことだと思うわ」
そう口にして、謠子が遠い目をする。
謠子の考え方には、葉月としても共感できるところがあった。ただ、たまたま昔からの人間関係に救われているだけの自分に人付き合いを論じる資格などあるのだろうか、とも思う。
何となく思考がネガティブな方向に向きそうだったので、葉月は意識を切り替えようとする。謠子こそ交友関係はどうなんだ、と尋ねようとした矢先。
「――ねえ、葉月にとって、私ってどんな存在かしら?」
葉月の目に入ったのは、謠子の寂しそうな顔。
そしてその耳に届いたのは、予想外の質問だった。
「えっ」と声にならない声が出る。完全に固まってしまう。
自分にとって謠子が何か。そんなこと、葉月は意識したこともなかった。課題を一緒にやる、たまたま一緒になったチームメイト。そんな程度の認識でしかなかった。
でも、と葉月は冷静に考えてみる。果たして本当にそうなのだろうか。
この一か月間で、一番会話を交わした人間は一体誰だったか。
その時だった。葉月は後ろから思いっきり押されて、盛大に前に倒れた。どうにか体を起こして振り返ると、真由が背中に寄りかかってきていた。どうやらトイレからテーブルに戻ってきたところで、力尽きたらしい。慌てて謠子が駆け寄ってくる。二人でどうにか起こし上げた。
真由はもう限界のようだった。謠子の方を見ると、目線で「もう帰ろう」と語りかけてくる。店員にお会計を払おうとすると、「真由につけておくから大丈夫」とのことだった。どうやらいつもこんな感じらしい。お店側も勝手知りたる、という様子だった。
「私、真由送っていくから、謠子は先帰ってていいよ」
「送っていくって、どうするの」
「遊びに行ったことがあるから、場所知ってる」
葉月が答えると、謠子は私もついていく、と言った。一人で大丈夫だといっても聞かなかったので、結局三人でタクシーに乗る流れになった。
助手席に乗り込むと、葉月は運転手に行先を告げた。後部座席では謠子が真由を介抱してくれている。
真由が住んでいるマンションまでは、車だと数分の距離だった。短い時間ではあったが、多少落ち着ける時間を手に入れて、葉月はあらためて考えていた。ドタバタのうちにうやむやになった、謠子の質問が頭の中でこだまし続けている。
いまからでも、答えてあげるべきだろうか。
謠子は何を思って質問したのだろう。問いかけた瞬間の、彼女の思いつめたような表情が目に焼き付いて離れない。自分のことをどう思ってるかなんて、普通は他人に面と向かってするような質問ではないように思う。
考えあぐねていると、謠子の方から話しかけてきた。
「葉月って、なんだかんだ優しいよね」
先ほどの質問とはまったく別の話題だった。違う話題に切り替わったことになぜか安心する自分に、葉月はもやもやした気持ちを覚える。
「それ、どういう意味よ」とりあえず言葉をつないだ。
「先生のこと、こうやってちゃんと送っていく学生なんて、なかなかいないと思うけど?」
「一応、親戚だし」
「それは確かにそうね……。でもほら、葉月ってなんだかんだ言いながら、手の届く限り自分にできることを一生懸命やってるんだなって」
褒められているのか貶されているのかわからない言い草に、葉月は混乱する。自分はそんなにいつもいろいろ言っているだろうか。
「別に、私は一生懸命なんかじゃないよ」
「もっと素直になったらいいのに。私は葉月のひたむきで真面目なところ、好きだよ」
いきなりそんなことを言われて、葉月は何も言えなくなってしまった。かろうじて頭に浮かんだのは「面と向かってそんなこと言える謠子が素直すぎるんだよ」という言葉で、結局それも口には出さなかった。
そうこうしているうちに、マンションについた。タクシー代は謠子と割り勘した。
真由の鞄から鍵を取り出してエントランスのオートロックを抜け、そのまま五階の真由の部屋に入った。ベッドに寝かせて部屋を後にする。外からは鍵はかけられないが、まあ一晩くらい大丈夫だろう。
マンションを出て、駅までの道を謠子と二人で歩く形になった。
ひとまず謠子にはお礼を言った。女性とはいえ、葉月一人で真由を担ぐとなれば大変だったと思うので、実際のところは同行してくれて助かった。
「困ってるときはお互い様よ」と謠子は気楽な返事を返してくれたが、どうやって話を続ければいいかわからなくて、葉月は話題を切り替えた。
「そういえば、前に
「ええ」
「最近、変な噂が流れてるみたいでさ」
謠子が、不思議そうな顔をする。そのまま葉月は続けた。
「なんでも、正体不明のアカウントが目撃されてるんだって。神出鬼没で、そう、いきなり現れたり消えたりするって。それで、『アリス』にちなんでチェシャ猫って呼ばれてる。ちょっと気味悪いよね。謠子ってコンピューターとか強いから、何か思い当たるところあるかなって」
謠子は黙ったまま、何かを考えているようだった。
二人はそのまま無言で歩き続けた。しばらくして、ようやく謠子が口を開く。
「ごめんなさい、葉月。私にもよくわからないわ。不思議な話ね」
「だよね。謠子そもそもALISやってないし。なんかごめんね」
駅に着いた。謠子とは別路線だったので、改札をくぐったところで別れた。
結局、最後まで会話のぎこちなさはぬぐえないままだったな、と葉月は思う。謠子の質問に答えなかったせいで、何となく自分が変になっている気がした。
「自分のことを本当に理解して、それでも付き合ってくれる人がいることが大事だ」と言った謠子の目がどことなく寂しそうに見えたのは、葉月の気のせいだっただろうか。謠子はときどき、ああいう目をすることがあるような気がする。それは葉月の思い過ごしか、あるいは謠子なりの事情があるのだろうか。そういった諸々を含めての質問だったとしたら。葉月にとっての謠子はなんなのか、答えてあげるべきではなかったのか。
でも――と葉月はそれでも一歩引いてしまう。仮に謠子が答えてほしかったとしても、自分自身はどうなのか。
葉月は、居酒屋での会話がずっと気になっていた。
だから、チェシャ猫の話を聞いたとき、明らかに謠子が動揺していたことにも、葉月は気づかないままだった。
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