Article 2. It's NOT My Own Intention ⑦
本の山をかき分けるように置かれた四人掛けのテーブルに、葉月たちは座っていた。白のカットソーにベージュのスカートを合わせた女性が洗面台の方から出てくる。三人分のコーヒーを淹れた真由は、葉月と
「今日はわざわざお時間いただき、ありがとうございます」
「葉月ちゃんの方から訪ねてくるなんて、珍しいこともあるのね」
葉月の挨拶に、真由が柔らかな声で答える。肩上ほどの長さできれいに整えられた髪が、窓から吹き込む五月の風に揺れている。
「あはは。いやまあ、ちょっと困ってて……」
「恋愛相談?」
コーヒーを吹き出しそうになった。
「はあ? 何言ってんの⁉ そんなはずあるわけないでしょ。 第一、恋愛相談だとして、じゃあ私の横にいる彼女は一体なんなんだ!」
「あら、彼女さんなのね。やっぱり恋愛相談じゃない」
「そういう解釈か。さすが法学者だな。物事はすべて解釈次第ってか? もう突っ込む気力もないわ」
入室五分でどっと疲れてしまった。
真由は、いつもこんな調子だった。三十代前半にして准教授の地位を射止めた、新進気鋭の若手研究者とは到底思えない。謠子も相当変なやつだが、真由も負けず劣らず独特の空気感を漂わせる人間だった。
「自己紹介が遅れてごめんなさい。磯川真由です」
「情報科学部四年の蔡原謠子っていいます」
「あら、あなたが蔡原さんね! 葉月ちゃん、とんだ有名人を連れてきたわね!」
謠子の名前を聞くや否や、真由が驚いたように言った。有名人? 一体何の話だろうと葉月は思う。法学部の先生である真由と情報科学部の学生である謠子に、とりたてて接点があるとは思えなかった。
「謠子が有名人て……。なんですか、それ」
葉月は思わず質問する。だが、真由はそれ以上その話をする気はないようで、謠子との話に戻っていた。
「ところで、蔡原さん――いいえ、謠子ちゃんでいいわね。謠子ちゃんは、葉月ちゃんとどういう仲?」
真由は話があっちこっちに飛ぶ。謠子の方も有名人云々のくだりに触れる気はないようで、立法学の講義で一緒になったことを説明していた。真由の意味深な振りは気になったが、ここでこれ以上掘り返しても無駄だろうと思い、葉月は泣く泣く疑問をそっと胸の内にしまっておくことにする。
「あの、先生と葉月はどういった経緯でお知り合いに?」
真由がしたのと同じ質問を今度は謠子が口にした。それを受けて、真由が驚いたように言う。
「あれ。葉月ちゃん、説明してないの?」葉月を一瞥し、真由が続ける。「私と葉月ちゃんはね、いとこ同士なのよ。葉月ちゃんのお父さんの姉が、私の母なの」
謠子が「ええっ!」と驚愕の声を上げる。
「まあそんな感じで、大学入る前から知り合いというか親戚というか……」
葉月は補足した。
真由が自分の通う大学で働いていると知ったときは、葉月もかなり驚いた。東京で就職したらしいことは何となく親から聞いていたが、まさか学者になっているとは思いもしなかった。上京する際には真由の家にお世話になるというような話も出たが、独り暮らしに憧れていた葉月はそれを断って、結局いまのアパートで暮らしている。
「葉月ちゃん最近全然顔を見せてくれないから、私の存在は葉月ちゃんの中で闇に葬られたのかと……」
真由がいじけたように言う。
「別にそんなことはないけど……。というか、ちょっと前も飲みに行ったじゃん」
真由が東京に進学するまでは、家が近いこともあって、よく彼女に地元で連れまわされていた。彼女の上京後は疎遠だった時期もあったが、葉月がこうして東京に来た後は、また付き合いが復活している。もっとも、関係性としては相変わらず真由が葉月を連れまわす形で、場所が地元の山林から東京の飲み屋に変わっただけだが。
「いいですね、二人とも仲よさそう」
謠子が葉月たちを微笑ましげに眺めている。
「まあね。謠子ちゃんも、葉月ちゃんと仲良くしてあげてね。ちょっと気難しい子だと思うけど……」
「はい。至らない点も多いですが、責任をもってお預かりします」
大きなお世話だし、謠子の返答は何かおかしいだろう――。葉月は謠子を連れてきたことを若干後悔していた。この二人は引き合わせてはいけなかった気がする。
「くだらない話はそこまでにして、そろそろ本題に入っていい?」
葉月が強引に話を切り替える。それから、きちんとしたお願い事として――先生と学生の関係として、口調を元に戻して真由に言った。
「さっき謠子が言ったとおり、今日は、横山教授の立法学の課題について、アドバイスを頂きに来ました。課題の概要と進捗を説明しますね」
それから葉月は、これまでの試行錯誤を真由に説明した。
「今年の立法学は、いつもと随分趣向が違うのね」真由が目を丸くする。
「ほんと、横山教授だなんて知ってたら、とりませんでしたよ」
「まあまあ、そんなこと言わないで。……それで、あなたたちの国民たちに、革命を起こさせないようにするにはどうすればいいか? っていう相談ってことでいいかしらね?」
真由の理解はさすがに早かった。
「そうです。『革命は禁止する』なんて憲法に書いても、不満がたまってしまえばそんなもの誰も守らないんです。もっと抜本的な対策が必要と思って」
葉月の補足を聞くと、真由は少し考えてから質問をした。
「いまのところ、葉月ちゃんたちはどういうアプローチをしたらいいと考えてるのかしら?」
今度は謠子が答える。
「シミュレーターのログを見れば、どういう経緯でディストピアが崩壊していったか確認できます。差し当たっては、出てきた原因をトライアンドエラーで一つずつ潰していくくらいしか方法がありません。ただ、すでにこの方法にも限界がきています」
「まあそうでしょうね。ある程度はそれでも対応できるとは思うけれど、いずれわかりやすい課題なんて見えなくなってくるだろうから」
真由もその意見に賛同した。いったん話の流れが切れたところで、葉月はかねてから考えていた案をぶつけてみることにした。
「私、ちょっと思ってたことがあるんだけど、いいかな。ねえ謠子、前にいまの憲法の条文をそのまま裏返しても意味ないって話をしたの、覚えてる?」
「ええ、覚えてるわよ。一番初めに憲法の文案を考えたときよね。私が思いついた案を、葉月が止めたんだわ。ディストピアとはいえ、いまの民主主義国家を真逆にしているわけじゃないから、憲法をそっくりそのままひっくり返して条文にしても、うまくいかないだろうって話よね」
真由は、興味深そうに、それでいて楽しそうに、黙って葉月たちの話を聞いていた。
「そうそう。ただそれは、条文によりけりなんだと思うんだ。最初に謠子が提案してくれたときは、まだ国の統治体制も決まってなかった。あの状態でいまの憲法をひっくり返しても、意味はなかったんだよね」
「『行政権は、内閣に属しない』なんて書いても、じゃあ誰が行政権を持ってるのっていう疑問が生じるだけ。結局一から考えるのと大差ない、って結論だったわね」
そう謠子が以前の議論を振り返る。
「うん。でも、いまの私たちは違う。国の体制は決まって、国民の権利を制限する段階に来た。これだと、憲法をひっくり返すのって有効なはずなんだよ」
「うーん。ごめんなさい、まだピンとこないわ。条文によりけりっていうのはどういうこと?」と、困り顔をする謠子。
葉月は、もう少しわかりやすくかみ砕くことにした。
「憲法の条文は、国の統治方法を決めてる部分と、国民の権利を認めてる部分があるよね? 統治方法はもう固まったから、大事なのは権利を認めてる方。こっちの方を逆にしちゃえば、それは国民の権利を制限することになるんだよ。例えば、『権利を有する』を全部『許さない』とか『制限する』とかに変えちゃう」
「なるほど。憲法の条文でも、その性質ごとに参考にできたりできなかったり、って感じなのね」
謠子が感心したように言った。真由が口をはさんだ。
「葉月ちゃんのその考え方は、悪くないと思うわ。国の体制が固まったばかりだから、まずは基本的な要素として、現行憲法の逆をいくというのは素直な手よ」
真由に褒められて葉月は内心嬉しかったが、恥ずかしいので表には出さない。
だがそこで、真由が声色を変えて言った。
「でもね、やっぱりそれだけじゃ足りないと、私は思うわ。現行憲法の単なる逆写しじゃない、もう少し突っ込んだ分析が必要だと思うの。直感だけど」
直感と真由は言ったが、おそらくそれは信ずるに値するものなのだろうと葉月は思う。真由が社会科学の分野で踏んできた場数は、葉月たちとは文字通り桁違いのはずだ。その経験から何か引っかかるものが真由にはあったのだろう。ただ、現行憲法から導くだけでは足りないものなどどうやって探せばいいのか、葉月には見当もつかない。謠子の方を見れば、彼女も同じような表情をしている。
「それは、いまの憲法から遠く離れた概念を、一から思いつかなければならないということですか?」
謠子が恐る恐る疑問を口にする。もし本当にそんな作業を求められるのであれば、実に前途多難だった。そんな新概念の発案など、単なる学生である葉月たちにはあまりにも荷が重い。
だが、真由はあっけらかんとした口調で続けた。
「いいえ、案外そうでもないかもしれないわよ? ヒント自体は、やっぱりいまの憲法と歴史の中にあるんじゃないかしら。ディストピアは私の専門ではないけれど、大昔からこういう場合に支配者がどうするかなんていうのは、相場が決まっているのよね」
「と、言いますと?」
葉月は首を傾げた。
「思想統制よ。思想統制」
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