Article 2. It's NOT My Own Intention ⑤
土曜日の大学は、平日とは打って変わってがらんとしていた。キャンパスを歩く人影も、びっくりするくらいまばらだ。リアルディストピアってこんな感じなのかな、と
いつもの自習室に着くと、すでに謠子は来ていた。そこで葉月は、おや、と思う。
謠子が、テーブルの上に不思議なものを広げていた。ホログラムで何かが空中に投影されている。謠子は真剣な顔で、それとにらめっこをしていた。
「謠子、それ、何?」
葉月が声をかけると、謠子が飛びあがらんばかりの勢いで驚いた。どうやら集中しすぎて葉月に気づいていなかったらしい。「いきなり脅かさないでよ!」と抗議する謠子に詫びを入れながら、葉月は彼女の前の椅子に向かった。
テーブルの近くまできて、謠子が何をしていたのかようやく分かった。テーブルと水平に映し出されたボードに白と黒の正方形が交互に並んでおり、その上に馬やら城やらをかたどった小さな駒が投影されている。
「それってチェス? 謠子、チェスやるの?」
「ええ、まあね」
空中に浮かぶ盤面を見つめたまま、謠子が答える。いつになく真剣な表情だった。
「へえー。ちっちゃいころから遊んでた、とか?」
葉月はルールも知らないので、どこでこんなものと出会うのだろうと、なんとはなしに気になって聞いてみた。
「始めたのは去年よ。前々から興味はあったのだけど、なかなか機会がなくって。それからは時たま遊んでるって感じかしら」
謠子は前に趣味などないと話していたが、読書に紅茶にチェスと、むしろ多趣味な部類なのでは、と葉月はそんなことを思う。
謠子が駒を動かした。わずかな間をおいてすぐに敵の駒も動く。対戦相手はAIだろうか。
チェスと聞いて、葉月はふと思い出したことがあった。
「そういえば、『鏡の国のアリス』にもチェスが出てきたよね? この間読み終わったんだけど、チェスのルール知らなくて、その辺よくわかんなかったんだよね」
葉月がそう言うと、謠子は顔を上げてまじまじと葉月のことを見つめた。あり得ないものを見るような目をしていた。
「え、なにその目」
「信じられないわ」
謠子がぼそりと言う。
「えーっと」
「こんなに面白いのに! チェスを知らないなんて! ちょっとこっち来なさい葉月、私が一から説明してあげるから!」
有無を言わさぬ気迫に、葉月は思わずたじろぐ。だが、拒否権は用意されていないようだった。
それから一時間ほど、葉月は謠子の熱血指導を受けていた。勢いこそ鬼気迫るものがあったが、説明自体は懇切丁寧で、初心者の葉月にもとても分かりやすかった。駒の動きだけでなく、棋譜の読み方、書きかたなんていう突っ込んだ部分も、簡単にではあるが教えてくれた。
さらに謠子は、『鏡の国のアリス』のストーリー自体がチェスのルールに従っていることと、お話の中で駒たちがどのように動いていたかも説明してくれた。うまくできてるなあ、と葉月は感心するばかりだった。
「ということで、ルールは大体こんな感じね!」
謠子はまだ興奮冷めやらない様子だった。「せっかくだからいまから一戦やりましょう」と対戦まで申し込まれたが、およそかないっこないことは分かっていたので、葉月は遠慮しておいた。だが、謠子はチェスができずにぐずり続けている。彼女はもはや、何のためにわざわざ土曜日に大学に来たのかを完全に忘れてしまっているようだった。そのことを諭すと、謠子はしぶしぶ引き下がる。
「うー、絶対よ、今度絶対勝負するんだからね」
謠子の恨めしそうな視線が刺さる。何も悪いことしてないのに……と若干の被害者意識にさいなまれながら、これ以上謠子の意識がチェスに向かないよう、葉月は話題を切り替えた。
「そ、そういえばさ、『鏡の国のアリス』の最後って、結局どっちの夢だったと思う?」
二つのアリスの物語――『不思議の国のアリス』も『鏡の国のアリス』も、あの奇怪な世界のすべては、結局夢の中での出来事ということになっている。葉月が尋ねたのは『鏡の国のアリス』の締めくくりについてだった。アリスの二度目の冒険は、最後に一つの謎を残して終わる。
――ねえ子猫ちゃん。夢を見たのは私か、赤の王様か、どっちかに違いないのよ。
それは、『鏡の国のアリス』の物語がアリスの見た夢だったのか、赤の王の見た夢だったのかという、読者に投げかけられた最後の問い。
苦し紛れに繰り出された葉月の質問に、謠子は意外にも目を輝かせながら食いついてくれた。
「あら、いいこと言うわね! そうねえ……。いろいろな解釈があると思うのだけど、私はどちらも夢見てたんじゃないかと思ってるの」
設問自体を真っ向から否定する回答に、葉月はそんなのありか、と嘆息する。
「どちらもって、どういうこと?」
「これはあくまで私の仮説で、そうだったら面白いなっていうだけなんだけど。夢を見ていたのは確かにアリスなのだけど、実はそれは、赤の王がアリスに見させていたものだったとしたらどうかしら?」
「あー……なるほど。肉体的な意味で夢を見てたのはアリスだけど、実質的な夢の主人は赤の王だったってこと?」
赤の王は、アリスの夢を支配して、思うがままの夢を見させていたと、謠子はそう解釈をしているようだった。
「だから夢を見てたのは、どっちかじゃなくてどっちもなのよ。そうなると、あの物語の中でのアリスの主体性は一気に怪しくなのよね。彼女はただの夢の器に過ぎなかったことになる」そこで一度息を吐いて、葉月の顔色を窺うように謠子は言った。「ここから先は本当に私だけの解釈なんだけど……」
さすがの謠子も、自説を延々と繰り広げることに抵抗があったようだ。ただ葉月としては純粋に興味深かったので、そのまま続きを促した。
「アリスの冒険は、赤の王が見させた夢物語だった。それってつまり、赤の王こそがあの物語の作者、つまりルイス・キャロルだったってことじゃないかと思うのよ」
ふむふむ、と葉月は思う。そうなると、まさに『鏡の国のアリス』自体がキャロルの作ったお話なので、主人公であるアリスもキャロルの夢の中の人物ということできれいにつじつまが合う。アリスはただ、赤の王――キャロルの意思に従って、彼の物語を夢見たのだ。感心する葉月だったが、謠子はすぐに自説を打ち消すように続けた。
「ただ、一般的には、白のナイトがキャロル自身を表してるって言われているから、こんなこと考えてるのは私だけだと思うけど……」
葉月が読んだ翻訳版にも、白のナイトこそがキャロルだと、そんな解説が付いていたことを思い出す。謠子の考えは面白い説だとは思うが、いわゆる「独自の見解を述べるもの」なのだろうなあと、そんな印象だった。それから、葉月はふと思い至ったことがあった。
「でもそれって、よく考えると結構あれだよね」
「あれって、何かしら」
謠子が小首をかしげる。
「さっき話してくれたストーリーに従えば、最後に白のクイーンになったアリスが赤のキングにチェックをかけてチェックメイト、でしょ。それって、大人になったアリスにキャロルが詰まされたかったとか、そんな方向にも話が行きそうで……」
「そうなると、いよいよ愛情深い話ね」
いや、愛情深いのは確かにそうなのだが、アリスのモデルになった実在の少女――アリス・プレザンス・リドルとキャロルの当時の年齢を考えると、なかなかこう、思うところがあった。白のクイーンに成長してからという前提なので、一応はいいのか、などと葉月は考えてしまう。
それにしても、言いたかった含みが謠子に正しく伝わっていなかったことに、葉月は軽い衝撃を覚えていた。意外と純粋なやつなのか……という目線で謠子を見ていると、彼女が口を開いた。
「ごめんなさいね、そろそろ課題に取り掛かりましょうか」
せっかくチェスの話を打ち切ったのに、結局また関係ない話ばかりしていた。葉月も強引に頭を切り替えて、これまでのことを整理する。
「……ええっと、前回までの流れのおさらいからいくよ。私たちはようやく統治機関のコントロールに成功したんだけど、今度は国民がディストピアを嫌がってすぐ革命を起こして、さあ困ったって状況だったよね」
「そうね。だからこれからは、国民の革命を止めるために、憲法にどんな条文を盛り込むかを考えていくって流れだったわね」
謠子の言葉に、葉月はうんうんとうなずいた。謠子が続ける。
「前回は、終わり際に『革命を禁止する』って条文なんかを足してみたけど、これはあんまり効果なかったのよね」
葉月は、前回を思い出しながら謠子の言葉に続ける。
「そうだね。そのあとに、『国民は武器を持ってはいけない』ってのを入れて、これはそれなりに効果的だった」
確か、二倍くらいにはディストピア期間が延びたように記憶している。ただ、それでも五分とちょっと、つまり百年プラスアルファ程度の治世だった。現実に照らせば、江戸時代の半分ほども体制が維持できていない。
前回を振り返ろうと、前と同じ憲法であらためてシミュレートしてみた結果も、やはり同様だった。
「何か考えてきた?」と尋ねる葉月に、謠子は気になることを告げた。
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