Article 2. It's NOT My Own Intention ④
結局、水曜日の午後は埋まらないままだった。思いがけずフリーの時間が取れた
ALISへのログインは久々だった。思えばこのところ、立法学の課題にかかりっきりで調べ物や考え事ばかりしていたな、と葉月はしみじみ思う。
森の小屋を出て、いつもの通り街の方へと向かう。
ALISにも四季があって、現実世界と連動している。現実世界では五月も折り返しを迎え、もう肌寒さを感じることはない。だが、この森の空気は相変わらずひんやりとしていて、葉月はそれが気持ちよかった。
葉月が足を向けたのは、バーだった。
バーとはいっても、世界観の都合上そう呼ばれているだけで、実態は単なる飲み物屋だった。ただしALISならではというべきか、その品ぞろえは尋常ではない。アルコール類はもちろんのこと、世界中のありとあらゆるドリンクが楽しめるようになっていた。
入口の扉を押して中に入る。飲み物のあるところに人が集まるのは、仮想空間であっても変わりない。バーは、それなりに混雑していた。ぐるりと中を見回すと、右奥のテーブルに開いているスペースを見つける。人波を縫いながら、どうにか席に着いた。
店員を呼んで、エッグノッグというドリンクを注文した。指を鳴らして店員が呼び出したそれは、牛乳をベースにしたもののようだった。ふわふわした口当たりと甘さに心地よさを覚えながら、葉月は一息つく。
その時だった。後ろの方から、突然葉月を呼ぶ声がした。
「あれ、ムーンさんじゃない? 久しぶり、元気にしてた?」
驚いて振り返ると、トカゲのアバターをした男が、葉月の方を見ていた。目が合うと、手を振ってくる。そのまま席を立って葉月の方に歩いてきた。
「こ、こんばんは」
突然のことに驚きながらも挨拶をする。ムーンというのは葉月のハンドルネームだった。自分の名前からとったものだが、安直すぎたかもしれない、と葉月は若干後悔している。
現実世界同様、ALISにおいても葉月は人付き合いを好まなかった。とはいえ人間が集まる以上、誰かと関わることを完全に避けることはできない。実際、葉月もALIS内に何人か知り合いがいた。
ただ葉月にとって好都合だったのは、こちらでは人付き合いを避けていてもあまりとやかくは言われないことだった。匿名の仮想現実であることはユーザーたちもよくよく承知していて、濃い人付き合いに期待しない風潮がある。現実世界もこんな風になればいいのに、と葉月はいつも思っていた。
トカゲ男の方を見ると、誰かに通信機能で連絡を飛ばしているようだった。こんな世界観だが、実態は最新鋭の仮想空間である。ユーザー同士の通信方法も当然のように用意されていた。お互いに自分のIDを教え合えば、テレパシーよろしく個別回線で直説会話をすることも可能だ。おそらく以前一緒にいた相方に自分のことを伝えたのだろう、と葉月は思う。
「いやあ本当に久しぶりだね。いま、サチも呼んだんだけど。あれ、俺のこと覚えてる? この前のイベントのときに隣だった」
「え、ええ。覚えてます」
前を見ると、魔女のような恰好をした女がこっちに向かってやってくるのが見えた。サチだった。
「あ、本当にムーンさんだ! 久しぶりだね、最近どうしてたの?」
「お久しぶりです、サチさん。最近ちょっと忙しくって」
具体的な話は伏せた。ALISでは、現実の身元がばれるような話は普通しない。葉月も例外ではなく、本来の自分につながるような情報が出ないよう気を付けていた。二人も深くは突っ込んでこなかった。
彼らとは、二月のイルミネーションのイベントで、たまたま席が隣だった。ALISの世界でのイルミネーションは物理法則に縛られないため、現実ではおよそ見られないような内容になっている。その評判を聞いて葉月も行ってみたのだが、そのときに声をかけられて、イベント後にいっしょに食事をした。葉月は乗り気ではなかったが、強く誘われたので断り切れなかった。
悪い人たちではないと思う。二人は現実では恋人同士で、いまはALISに熱中していると言っていた。男の方はちょっと強引なところがあるけれど、気さくで付き合いやすい、という部類になるのだろう。女の方も、優しい雰囲気が感じられる人ではあった。ただ、そのぐいぐい来る感じが、どうしても葉月のあまり得意なタイプではなかった。
何と話したものか固まっている葉月をよそに、サチたちは二人で話し始めた。その様子から、先ほどまでしていた会話の続きだろうと推測する。割って入ることもできず、葉月は黙って二人の会話を聞くことにした。
こういうとき、謠子なら自分からどんどん話に加わっていくのだろうか、などと葉月はふと思う。そういえば謠子だってぐいぐいくるタイプだが、あれはなぜだか許せるのはなんでだろうな、とぼーっと考えていた。
二人の会話のトーンが変わったことに気づいて、葉月の意識が現実に引き戻される。
「でね、とにかく何かおかしいんだって」
「どんなふうにおかしいってのさ」
「いきなり現れたと思ったら、また突然消えたんだって。幽霊かしら?」
「仮想空間に幽霊は出ないだろ……」トカゲ男が呆れ顔をする。
「ねえ、ムーンさんは聞いたことある? チェシャ猫の話」
いきなり話を振られた。
「ええっと、チェシャ猫……ですか? 『不思議の国のアリス』の? 読んだことならありますけれど……」
謠子のすすめを受けて、二つの『アリス』をつい先日読み終えたばかりだった。タイムリーな話題に葉月は面食らう。
「え、チェシャ猫ってアリスに出てくるの? ううん、でもいまは物語のチェシャ猫じゃなくて、アリスのチェシャ猫、あーわかりづらいな、こっちのALISのチェシャ猫の話よ。ていうか、アリスにチェシャ猫が出てくるから、こっちのもチェシャ猫って呼ばれてるんだ……」
サチは『不思議の国のアリス』を知らないようだった。アリスとALISでこんがらがっている。言葉のややこしさにいらだちを混じえながらも、サチが説明してくれた。そんなサチの話を聞いて、葉月はおそるおそる質問をした。
「こっちのALISにもチェシャ猫がいるんですか?」
「なんでも、いきなり現れては消える、正体不明のアカウントがいるんだって。不気味だ、っていろいろ噂になっているのよ。で、そいつのことをみんなチェシャ猫って呼んでいるの」
チェシャ猫は、アリスの物語の中に出てくる神出鬼没の猫だ。アリスのチェシャ猫も自由に姿を現したり消したりできるから、誰かがそれにちなんで名付けたのだろう。なんにせよ、そんな話は葉月にとって初耳だった。
「初めて知りました。それって、いつごろからですか」
「ここ一週間くらいの話かしら」
どうやら、葉月がALISに顔を出さないうちに、そんな話が広まっていたらしい。
「運営側のアカウントだったりしないんでしょうか?」
物理法則の限定を解除できる運営なら、そんなことは朝飯前なのではと思い、葉月はそう口にする。
「俺もその線は考えたんだけど、違うんだって」
トカゲ男が否定する。
「確かに、運営なら普通にできることだと思うのよ。でもそいつ、アカウント情報の確認もできなかったっていうのよ」
「アカウント情報、ですか?」
どういうことだろう、と葉月は思う。
「ほら、運営側って『オフィシャル』の属性が付いていて、アカウントを確認すれば一般ユーザーと区別できるようになってるじゃない? でも。情報参照を要求したら、『ノーデータ』とかいう情報が返ってきたって……」
サチは気味悪そうな表情を浮かべ、寒気をこらえるように両腕をこすっている。ノーデータなどという状態は、葉月も聞いたことがなかった。
「運営側に問い合わせた奴もいたんだけど、そんなアカウントは運用してないって回答だったってさ」
「確かにそれはよくわからないですね。ノーデータでも、アカウント参照の要求自体はできたってことは、NPCじゃないってことでしょうし」
二人の話を受けて、葉月は感想を述べる。不思議な話だった。仮想世界にも都市伝説ってあるんだな、と葉月は思った。
「少なくとも、『中に誰かがいる』ことは間違いなさそうなのよ。こっちからは正体もわからないその誰かが、悪意をもって何かしてきたらと思うと、リアルに怖いわよね」
「大丈夫だって。ヤバいことになったら、システムが接続を解除してくれるんだろ?」
怯えるサチをなだめるように、トカゲ男が言葉をかける。
システムというのは「赤の女王」のことだろう。彼女は管理者として、絶え間なくALIS中を監視している。何かトラブルが起きれば、赤の女王が即座に利用者とALISのリンクを強制切断して、利用者の安全を確保することになっている――そんな話を葉月も以前耳にしたことがあった。葉月はふと中央広場にそびえる巨大な城のことを思い返した。
「そうだ。そいつってさ、どんなアバターしてんの。まさか……ほんとに猫? ムーンさんみたいな?」
トカゲ男が葉月――いまは猫の姿――を指さしながら言った。
「いいえ、見た目は普通の女性だったって。それこそ、どこにでもいそうな」
そう告げたサチの言葉を聞いて、それじゃあチェシャ人間じゃん……などと葉月は思ったが、もちろん口には出さなかった。
「おっと、そろそろ時間だな」
トカゲ男が時計を見て言った。葉月もつられて時計を見る。十一時五十五分を指していた。
「ムーンさんも、変なことに巻き込まれないよう気を付けてね」
「じゃ、また機会があったらよろしくな」
葉月に別れを告げて、二人はログアウトしていった。姿が徐々に薄れていく。そういえば、ログアウトの瞬間もいきなり消えるよな……と葉月は思ったが、噂になるくらいだから、チェシャ猫の消え方は多分それとも違うのだろう。
不思議な話に思いを馳せながら、葉月も意識を現実に戻していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます