Article 1. Down the Loophole ⑦

「とりあえず、そういう内容を盛り込めばいいのかな?」


 妙な空気になってしまったので、づきは話題を元に戻した。


「そうね。安全、平和、平等、幸福。じゃあまずはその部分に関する条文を作っちゃいましょう。とりあえず、簡単に書いておこうかしら」


 そう言ってうたが再度デジタルボードに向かう。ところが、ペンを持ち上げたまましばらく固まっていたかと思うと、すぐに困ったような顔をして葉月の方に振り返った。


「いまの部分をとりあえず条文っぽく書いてみようと思ったんだけど、私、条文なんて書いたことなかったわ……。どんなふうに書いたらいいかわからなくって。葉月、お願いしていい?」


 私だって条文なんか書いたことないよ、と思う葉月だったが、謠子に書かせるのも確かに無理な話で、引き受けざるを得なかった。謠子からペンを受け取り、葉月はデジタルボードに条文を書き出す。


第○条 この国は、安全、平等および幸福の実現を理想とする。


「こんな感じでどうかな。安全と平和は意味が近そう……というか、平和によって安全が確保されるのかなって思ったから、思い切ってまとめちゃった。条番号は最後まで作らないと決まらないから、とりあえず空欄で」


「おお、それっぽい!」


 謠子の称賛の声を聴いて、少し気分がよくなる。勢いが乗ってきた葉月は、謠子に質問した。


「ディストピアって、国民の権利と自由――つまり人権――を抑圧して、国家が好き勝手できるようになってればいいんだよね?」


「うーん。大体、そんな感じかしらね。創作ではいろいろなパターンがあるけれど、突き詰めていけば、個人の意思より、全体の都合が優先されている、ということになるのかしら」


「じゃあ、もうこれでいいんじゃないかな」


 葉月は続けて書き出した。


第○条 国民の基本的人権は、これを認めない。


 葉月は、得意げな顔をして謠子の方に振り返る。


「要は、人権なんか一切無視、国は何でもできる、ってことにしちゃえばいいんでしょ。ディストピアに憲法があったら、正直この一文があればそれでいいと思うんだけど。……あれ、私、この課題終わった気がする」


 葉月は半ば本気でそう思っていた。ディストピアを一言でいえば「人権のない国」なのだから、難しいことは考えず、それだけ書いておけば十分ではないか――と。


「なるほどね。考え方としては、確かにその通りだと思うわ。でも……」


 だが、謠子は葉月の意見に理解を示しつつも、どこか引っかかっているようだった。


「でも?」


「さっきの、憲法をひっくり返しただけではだめだっていう議論で思ったのよ。ルールを作るってそんなに単純じゃないんだなって。複雑な人間の行動を、こんな短い文章でコントロールできるのかしら……」


「まあ、それは何とも言えないけれど」


 そう言われると自信がない。こうなると、実際のところ葉月の考えた憲法の実力がいかほどのものなのか、確かめてみるしかなかった。そこまで考えて、葉月はふとある疑問に思い至る。


「ところで、私たちが作った憲法って、どうやって評価すればいいの?」


「それはほら、シミュレーターがあるって教授が言ってたじゃない。もう葉月ったら、ちゃんと講義聞いてた?」謠子が呆れたように答える。


「聞いてたよ! 聞いてたけど、シミュレーターがどうのとかいうところはよくわかんなかったから忘れてただけ! そもそも私文系だし」


 この女にたしなめられるなんて、と憤慨する葉月。


「確かに葉月は文系だし、よくわかんないよね。その点、私の専攻はまさにシミュレーションだから、この部分は任せて」


 謠子は得意げになる。情報科学部とは、どうやらそういった分野を主に取り扱う学部のようだった。


「で、シミュレーターはどこに?」


 葉月はさらなる疑問を口にした。その様子を見て、謠子が再び呆れたような視線を葉月に向ける。


「どこにって、そこにあるじゃないの。第一、シミュレーションをやるからこの部屋を押さえてるんじゃない……」


 そう言って、謠子がデジタルボードとは反対側の壁を指さす。そこにはいくつかの機械が設置してあった。確かに、他の打ち合わせ室にはそんなものは置かれていない。なるほどそういうことだったのか、と葉月はいまさらながら納得した。


「それで、シミュレーションってどうすればいいの」


 憲法議論のときとはうって変わって、今度は葉月が謠子を質問攻めにする番だった。


「簡単に説明すると、大体こんな感じね。まず、私たちが作った憲法をシミュレーターに放り込む。シミュレーターには、私たち人間の行動パターンのモデルがあらかじめ組み入れられていて、あるルールが作られたときに人間がどのようなふるまいをするかをシミュレートするようになっているわ。あとは時間経過に従って、シミュレーターの中の人間社会がどうなるかを観察していけばいい。もし途中でディストピアじゃなくなっちゃったら、それはディストピア憲法としては失敗作ってことになるわね」


「なるほど。逆に永久にディストピアが続くのであれば、その憲法はディストピアの憲法としては完璧だった、ということになるのか」


 なじみのない分野だったが、葉月はどうにか理解しようと言葉にしながら謠子の話を聞く。


「そういうことになるわね。私たちは、できるだけ長くディストピアが続くような憲法を作ればいい。言い換えれば、どれだけディストピアが長く続いたかで、その憲法がよかったか、悪かったかを評価できるということよ」


 葉月が何となく進め方を理解したところで、謠子が改めて切り出した。


「せっかくだから、さっき書いてくれた憲法がどんな感じかシミュレーションしてみましょうよ。条件設定をするから、ちょっと待っててね」


 謠子は室内の機械に向かい合い、何やら作業を始めた。


 その時だった。


 シミュレーターを見た謠子が一瞬、驚くような表情をした。機械と向かい合う手が完全に固まっている。葉月は、思わず声をかけた。


「なに? どうしたの?」


 葉月の問いかけを聞いて、謠子ははっと我に返ったようだった。


「え? ええ、なんでもないわ。ちょっと珍しいタイプのものだなって思っただけ」


 謠子が慌てたように返す。なんだったんだろうと気になったが、このまま話を続けても気まずくなりそうで、葉月は再び手を動かし始めた謠子に別の話題を振った。


「ねえ、何か特別な作業が必要なの? この機械って、ほかのチームで文系ばっかりのところでも使えるはずだから、難しいことは必要ないように思うんだけど」


 落ち着きを取り戻したらしい謠子が、理由を述べてくれる。


「そうね。普通に使う分には特別なことはいらないわ。でもそれは普通の法律をシミュレーションする場合の話。憲法は、法律の前提となるルールなんでしょう? 法律のシミュレーターなら、憲法はデフォルトルールとして、つまりシミュレーションの当然の前提として、あらかじめ組み込まれているはずよ。でも、私たちはその前提条件をいじくりまわすわけだから、それができるように設定をしておかないといけないのよ」


 分かったような分からないような説明だった。とりあえずそういうものとして受け止めておくことにする。それにしても、情報科学部生ともなれば、このくらいは朝飯前なのだろうか、とふと思う。気になった葉月は、これも謠子に聞いてみることにした。


「ねえ、情報科学部生って、みんなこんなのいじくって使えるの?」


 作業をしながら、声だけで謠子は答えた。


「そんなことはないわ。学部生でこんなことできるの、私とあとはせいぜい数人よ。こう見えて、私優秀なのよ? まあ、ちゃんと勉強したら別に大したことはないんだけれどね」


 謠子はあっさりと言ってのけた。どうやら、専攻分野に関しては相当自信があるらしい。


 その後も謠子はしばらく作業をしていたが、やがてふーっと大きく息を吐いて、作業の完了を告げた。


「よし、これで大丈夫。それじゃあ、さっきの二つの条文をシミュレーターにかけてみましょうか」


 葉月は、何となく気持ちが昂った。コンピューターの中とはいえ、いまから、自分たちの世界を作るのだ。創造主として、この世界を正しい形、正しいディストピアに導いてやらねばならない。この世界を生かすも殺すも、葉月たちの手にかかっていた。


 謠子はシミュレーターを起動すると、機械のモニター部分をデジタルボードに連携させた。謠子自身は機械側のモニターを見ながら、葉月に問いかける。


「画面右上の数字が見える?」


「うん、見える」


 デジタルボードの右上に、十桁ほどの数字が羅列されている。


「これが経過時間を示しているの。現実世界の一分が、シミュレーターの中での二十年に相当するわ。秒換算でいうと、毎秒四か月でシミュレートをすることになるわね。じゃあ、スタートするわよ」


 すごいスピードだった。葉月は「うん」とだけ答えてじっと画面を見る。


 謠子が、画面内の“START”書かれた部分をクリックした。デジタルボードに映し出されたアイコンと数字が、目まぐるしい速度で動きだす。葉月はそれを固唾を飲んで見守っていた。ただ正直、何がどうなっているのかよくわからない。デジタルボードと、その反対側にいる謠子の背中とを、交互に見ていることしかできなかった。


 一分、二分と時間が過ぎていった。その間謠子はずっと画面とにらめっこをしていたが、やがて唐突にシミュレーターを止めてしまった。

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