Article 1. Down the Loophole ⑥

 キャンパス内の建物は、多数の教授陣が研究室を構え、各学部が本拠地としている学部棟と、主に学部共有の教室と学生用の自習室で構成される教室棟の大きく二つに分かれている。づきうたは、教室棟の一室にいた。


「テーマ、認めてもらえてよかったわ」


 ぶどうジュースを飲みながら、謠子が嬉しそうな表情で言う。


「こんなにあっさりいくとは思わなかった」


 葉月がそれに答える。もっとも、言葉の上でこそ同意しているが、その声色には呆れがにじんでいる。


 今日は二回目の講義だった。各チームのメンバーを決めておくことが、今回までの宿題となっていた。課題テーマの締め切りは来週だったが、すでに決まっているチームは報告してもいいということだったので、葉月たちもチーム報告と一緒にテーマも横山よこやま教授に伝えていた。


「最初のリアクションは微妙そうに見えたけれど」


「まあ、そんな感じだったかもね」


 謠子の感想に対して、葉月はわざとぼかした返事をした。


 おそらく、横山教授はテーマを聞いた時点では、理由をつけて却下するつもりだったに違いない。少なくとも最初の反応はそのような雰囲気だった。ところが、険しい顔でなんやかんやと理屈を述べる横山教授に対して、謠子は有無を言わせない様子で話を進めていき、気が付けばなぜか横山教授が折れてしまっていた。謠子は「認めてもらった」などとのんきなことを言っているが、葉月の眼には認めさせたようにしか見えなかった。強引なやつだとは思っていたが、いざ他人が詰められている様子を見ると、呆れるばかりだった。


「葉月、なんかちょっとバカにしてない?」


「いや、別に」


 ふくれ気味の謠子を軽く受け流す。徐々に謠子の言動にも慣れてきて、葉月はもうほとんど緊張はしなくなっていた。いまはもう、どうやってこの自由奔放な女を乗りこなそうかという方向に、気持ちがシフトしている。


 とはいえ何か言い返されるのも怖かったので、葉月は本題に話を切り替えるべく言った。


「テーマも正式に決まったし、これからどうするか考えないと」


 実際、問題はここからだった。講義が終わっても帰らずに、謠子とこうして教室棟の自習室で打ち合わせをしているのも、今後の具体的な進め方を検討するためだった。


「とりあえず、いくつかの国の憲法には目を通してきたんだけれど、あまりピンとこなかったわ」


 謠子が困り顔をする。


 まあそうだろうなと思う。何せ、曲がりなりにも一度は勉強し、その後も日々法律に触れている葉月ですら、大して理解できていないのだ。


「私も資料をダウンロードして読んでみたけど、正直どうやって進めたらいいのか思いつかなかった。一応、一年のときに習った基礎的なことは、なんとなく思い出したけど」


 わからないなりに頭を働かせるしかないと考えているのか、謠子は積極的に話を展開していった。


「あのさ、いまの憲法って、一応ディストピアじゃないわけよね?」


 当たり前のことを聞いてくる。


「……そりゃそうでしょ。歴史の失敗からいろいろ学んで、人類社会は一応、自由が第一ってことになってる」


「じゃあさ、いまの憲法をそのままぜーんぶ否定してしまえばいいんじゃないかしら?」


「は?」


 葉月のフリーグラスが謠子からの通信を受信する。ピンときていない葉月に向かって謠子が飛ばしてきた、電子六法のデータだった。


「ほら、憲法ってこんなに条文あるじゃない? これを一個一個逆の意味にしていくのよ。『する』を『しない』にするとか、『できる』を『できない』にするとか。自由の憲法を反対にすれば、ほら、ディストピア憲法の出来上がりよ!」


 葉月は一瞬だけなるほどと思った。だが、直後に謠子が読み上げた条文を聞いて、すぐにそれではだめだと悟る。


「例えば、これはどうかしら。『行政権は、内閣に属する。』これをひっくり返してみるのよ。えー、行政権は、内閣に属しない。……え? 属しない? じゃあ、行政権はどこに属するのよ!」


 謠子は自分で読んだ条文に自分にツッコんでいた。やかましいぞと葉月は思う。

「そのアプローチは確かに一手かもしれないけれど、そう単純にはいかないみたいだね」


 なんで……とうめく謠子に、葉月はたどたどしく説明した。


「憲法っていうのは国の在り方そのものを決めるルールだからじゃないかな。自由の国でもディストピアでも、例えば『政府』っていうものは共通して存在するでしょ。この二つの国を分けるのは、『政府があるかないか』じゃなくて『どんな政府があるか』なんだよ。ディストピアだって、いまの社会をそのまま真逆にしてるわけじゃない。だから、単純にいまの憲法をひっくり返していくだけじゃ、何にもならないんだよ」


「なるほど、そう言われてみればそうね。法律は二値問題じゃないものね。私のアプローチは間違っていたわ」


 謠子はよくわからない自問自答をしながら一人ぶつぶつとしゃべっていた。とりあえず納得はしてくれたようで、葉月もひとまず安堵する。


「やっぱり、全体の構成をゼロから考えないといけないかしら」


「うーん。そうだね。ただ、いきなり構成を考えるのもそれはそれで難しいような」


「とりあえず手探りで思いつくものを書き出してみる?」


 そう言いながら立ち上がって、謠子は壁に埋め込まれたスイッチをオンにした。それに連動して、葉月の右手側の壁がスクリーンモードに切り替わる。謠子はタッチペンを手に取ると、起動したスクリーン――デジタルボードに面と向かった。


「憲法は国の基本法だから、きっとどういう国にしたいとか、目指してるとか、そういうことって書かれてるはずよね? 実際私が見た憲法にも、そんな感じのことは書いてあったわ」


 謠子はそう言うと、デジタルボードに大きく「国の目指す姿」と書いた。几帳面な、きれいな字だった。


「そもそもディストピアって、何かを目指してるの?」


 書かれた言葉を見ながら、葉月は素朴な質問を謠子に投げかける。


「うーん。まあほら、私たちはディストピア国家を作ろうとして作ってるからちょっと特殊だけど、本当はディストピア国家だって最初からそうなることが目的だったわけじゃないと思うのよ。きっとありたい姿があって、それを実現するために最適な姿を突き詰めたら、ディストピアになっちゃったんじゃないかしら」


 なるほど、と葉月は思う。


「確かに、初めから国民を苦しめようと思って、国を作るわけじゃないか」


「そうそう。ディストピア国家だって、何か前向きな理想があって建国されたはずなのよ。その国に憲法があるとしたら、きっとその理念が謳われているんじゃないかしら」


「自由を犠牲にする代わりに、彼らが何を得たのか考えればいいのか。創作の中だと、安全とか、平和とか?」


 葉月は今日までの間に、資料代わりのSF映画をいくつか視聴していた。


「あとは、みんな平等とかかしらね? そもそも、みんな自分たちなりの幸せを追い求めて国を作るのよね。結果としてそれが彼らにとって幸せなものなのかは、何とも言えない感じだけど」


 謠子は、「国の目指す姿」の下に「目的」の二文字と、さらにその横に「安全・平和・平等・幸福」の四つの単語を書き足した。それから、謠子はデジタルボードから一歩離れて、無言でそれをじっと見つめていた。葉月も思わず黙りこむ。沈黙が流れた。


 いい加減何か話そうとしたその時、謠子がゆっくりと口を開いた。


「結局、ディストピアが追い求めたものは、あくまで人類の理想ってわけね。――私たちの理想って何かしら。何を得たら人類は幸せになれるのかしら」


「さあ、何だろうね」


 急にまじめなトーンで話し出す謠子に、葉月は戸惑いを覚えた。戦争とか平和とか幸福とか、案外そういうものに思うところのあるやつなのだろうか、と葉月は何となくそんなことを考える。思わず返事をしたが、さっきの言葉は別に自分に向けられたわけではなかったのかもしれない、と葉月はふと思った。

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