Article 1. Down the Loophole ⑤

 うたと別れてから、づきはまっすぐ家に帰った。なんだかんだで、もういい時間になっていた。


 楽な格好に着替えてから、葉月は記憶が薄れないうちに作業を始めた。謠子とのやり取りを少し整理してメモを作成する。それから、課題に関係のありそうな本を何冊かダウンロードして、これも併せてまとめておいた。フリーグラスにフォルダを作って、一緒くたに格納する。きっと、実際に課題を進めていく中で役に立つだろう。


 作業を済ませると、葉月は買ってきた弁当を食べて、それから風呂に入った。温まった体を冷ますべく、冷蔵庫から牛乳を取り出して一息ついた。


 課題の方向性が決まってよかった、と葉月はあらためて安堵する。が、一難去ってまた一難だと、すぐに思い直した。あの意味不明な相方と、果たしてうまくやっていけるだろうか。あらためて考えると溜息しか出なかった。


 葉月はコップをテーブルの上に置いて、その横にあるヘッドフォン型のデバイスに目をやった。時刻は午後十時。時間的には問題ない。手に取ったデバイスを装着して、ベッドに横たわる。デバイスが自動で起動した。


 瞬間、葉月の意識が落ちた。


 目を開けると、葉月は、古い小屋の小さなベッドの上に横たわっていた。ゆっくりと体を起こす。頭の中が、少しもやがかったような感じがする。意識の切り替えのときはいつもこうだ。だが、それももう慣れた。ベッドから降りると、そのまま小屋の扉を開けた。


 目の前には森が広がっていた。足元からは石畳の小道が先へ先へと延びている。葉月はゆっくりと歩き出した。


 ひんやりとした森の空気も、足を通して伝わる石畳の硬さも、すべて本物にしか思えない。そもそも、いまこうして歩いている自分自身が、まぎれもなく野田葉月本人であると確信できてしまう。記憶も感覚も、間違いなく自分のものだ。だが、これが現実のものではないことを、葉月は知っている。


 ALISアリス


 半年前に実証実験が始まった仮想現実のことを、みんなそう呼んでいる。日本発祥のEASイーエーエス社が開発、提供する次世代型感覚共有仮想現実体験システムだった。利用者が身につけたヘッドフォン型のデバイスを通じて、仮想空間に自分自身を再現する。詳しい仕組みについては葉月もよく知らなかった。何かで読んだところによると、接続者の脳とリンクしたデバイスがシステムとなんやかんやの情報をやり取りして、自分の感覚が仮想空間に共有されるのだそうだ。


 ALISの実現は物理学、工学、情報科学、脳科学、社会科学、哲学等ありとあらゆる分野で議論を巻き起こしていた。もっとも葉月にとっては、そんな議論はみじんも興味をそそるものではなかったのだが。


 大切なことは、いまこうして感じている森の冷たさが、土の匂いが、フクロウの鳴き声が、どこまでも現実としか思えないという事実だけだった。喧々諤々の議論が繰り広げられる中である専門家が言った、「脳がそう認識している限り、ALISはもはや現実そのものでしょう」という言葉にだけは、葉月も賛成だった。


 森を抜けて草原に出た。石畳はさらに先へと続いている。葉月は周囲の景色を眺めながら、黙々と歩き続けた。


 現実とは明らかに違うことの一つとして、葉月の姿が実際のそれとは大きく異なっているという点があった。ALISの世界では、接続者は皆自由にアバターの姿をとることができるし、とらなければいけない。それが、ユーザー間のトラブル防止のために定められたルールだった。


 葉月も、猫を模したかわいらしいキャラクターの姿をしていた。もっとも、匿名なのをいいことに随分と派手な格好をしているユーザーも多い中、葉月の格好は現実同様、地味なものだった。アバターとして実体化させる際の副作用か、視力程度であれば多少は調整できるようで、ALISの中では葉月も眼鏡いらずだった。


 しばらく行くと、巨大な城が見えてきた。あの足元には、十九世紀イギリス風の街が広がっている。そのまま歩みを続ける。


 葉月はこの世界が好きだった。ALISはその世界観ごとに、十のエリアに分かれている。一応、いま葉月がいるエリアが、ALIS全体の中枢となる中央エリアということになっている。ここ以外にもいろいろなエリアがあって、葉月も前に未来都市風の世界にログインしてみたことがあった。だが何となく落ち着かず、結局この大英帝国華やかなりし頃の世界にばかり訪れている。


 近世と現代の谷間、アナログとテクノロジーが交錯するこの時代は、不思議な混沌に満ちている。どれか一つと定まらないそのあいまいな空気感が、どことなく自分の性格に合っているのだろうか、などと葉月はそんな風に考察していた。もっとも、あくまでリアルなのは外目だけで、中身は最先端の技術がてんこ盛りだから、そんな分析がどこまでアテになるのだろうかとも思われたが。


 街の入口についた。このあたりまで来ると、ぼちぼちほかのユーザーともすれ違う。ネズミやら青虫やらロブスターやらが、人型にデフォルメされてあちらこちらをうろついていた。初めてログインしたときは葉月も妖怪屋敷か何かかと驚いたが、いまではもう違和感もない。第一、葉月自身もれっきとした化け猫なので、そもそも人のことは言えなかった。


 道行くアバターたちの数は、しかしそれほど多くはなかった。このまま街の中央まで行くとさすがに賑やかにはなってくるのだが、それでも現実の世界に比べればとても落ち着いた雰囲気だ。


 葉月がALISを気に入っているもう一つの理由がこれだった。この世界は、全体的に人が少ない。ALISの実証実験は日本国内だけを対象としていて、総アカウント数は五百万だとか一千万だとか言われている。もちろん、すべてのアカウントが同時接続することはないので、現実に仮想空間を共有する人間は、もっとずっと少ない。それに、なんだかんだ人気のエリアは現代エリアや未来都市エリアで、雰囲気はあるものの快適さに欠ける中央エリアは、そこまで人が集まる場所でもなかった。


 街の中央部につながる街道に差し掛かった。そこでは、市場が開かれていた。


 市場とはいっても、実際に何かが売り買いされているわけではなく、あくまでそういう演出に過ぎない。ALISの世界には、通貨に相当するものは実装されていない。仮想世界ゆえに、ありとあらゆるリソースが実質無限に存在するためだった。現実世界で空気を買う人間がいないのと同じように、無限に存在するものを対象とする経済は成立しない。何でも無限に手に入るALISでは、財の蓄積、交換という概念自体が存在しなかった。


「そちらの子猫ちゃん、何かお飲み物はいかが?」


 ぼーっと歩いていると、いきなりウサギ姿の男に話しかけられた。


「え、えーっと、コーラ一つ」


 おどおどと葉月が答えるや否や、ウサギ男は指をぱちりと鳴らす。と、次の瞬間にはその手にコーラが握られていた。


「はい、どうぞ」


「ありがとうございます……」


 突然話しかけられて驚いたが、ちょうど喉が渇いていたので好都合ではあった。


 通貨がない代わりに、ユーザーは運営側のアカウントに声をかければ、欲しいものを用意してもらえる。雰囲気を演出するために、彼らは出店のおじさんに扮しているし、飲み物も店ごとのメニューにあるものから提供されるようにはなっていた。しかし、そんな世界観さえかなぐり捨てれば、本当は戦車だってシロナガスクジラだって彼らは指先一つで用意できるはずだった。


 運営側のアバターには、EAS社の従業員が葉月たち同様にリンクしているものと、単なるプログラムに過ぎないNPCとの二通りがある。さっきのコーラウサギは「中の人」入りだったな、と葉月は炭酸のしびれに心地よさを覚えながら思い返していた。


 喉の渇きを癒しながら――もっとも、現実の葉月の肉体に水分が補充されるわけではないので、あくまで感覚だけだが――、葉月はさらに街の中心部に向けて進んでいった。今日は中央広場を抜けて、町はずれの丘に行こうと思っていた。丘は、ここから三十分ほど歩いたところにある。街全体と、その奥に広がる森や山々を一望できる、葉月のお気に入りの場所だった。ゆっくりと考え事をしたいとき、葉月はいつもこの丘に行く。


 中央広場は、その名の通り街の中央に存在していた。直径二百メートルほどの大きな円形で、広場の淵からは、街の各所につながる道が放射状に伸びていた。葉月が歩いてきた道から続いて広場でも市場が開かれており、こちらも賑わっていた。

 

葉月は、南西側の道から広場に入った。丘は北東の方角にあるので、そのまま真っ直ぐに進めばよかった。


 左手の方をちらと見る。葉月の左前、つまり広場の北側には、先ほど見えた巨大な城が間近にそびえたっていた。


 赤の女王――。


 あの城の中にはこの世界を管理するEAS社の人工知能がいると言われている。その人工知能の名前が、それだった。


 葉月の目の前で威圧感を放つ城が――正確にはその中にいる赤の女王こそが――ALISすべての中心だった。城には時計塔があって、広場に向けて巨大な時計が取り付けられている。人々の賑わいの中で、それは黙々と時を刻んでいた。


 そんな城を横目に見ながら、葉月は広場を突き進んでいった。街並みを眺めながらさらにしばらく歩くと、徐々に人気がなくなっていく。やがて、開けた草原に出た。さらにそこから少し行くと、丘のふもとに着いた。


 そのまま軽い足取りで丘を登り切った葉月は、腰を下ろして一息ついた。


 丘からは街が一望できた。もちろん城も見える。その先にある、葉月が目を覚ました森と、さらにその奥に広がる雄大な山々も。とてもプログラムで仮想空間に再現されたものとは思えない。どこからどう見ても現実そのものだった。


 葉月は後ろにぱたりと倒れこむと、大きく深呼吸をした。


 息を吐いて、おとといの出来事を思い出す。


 あれは語学の時間のことだった。四人で一組になって、英字新聞について議論するという回。ほかの三人が楽しそうに話す中、葉月は終始ドライに対応していた。そして彼女たちが帰り際に話しているのを聞いた。――「いくらなんでもアレはちょっとねぇ……」


 思い返すだけで、葉月の胸の内が黒いものに染まっていく。そんなに、他人と仲良くしようとするやつが偉いのだろうか。どんな風に他人と関わろうと人の勝手のはずなのに、なぜ糾弾されねばならないのか。


 自分も彼女たちも、みんな消えてしまえば、もうこんな思いはしなくていいだろうか。葉月の思考はどこまでも沈んでいった。


 どんどん暗い方に気持ちが向くので、頭を振って意識を課題のことに切り替えた。


 ディストピアの憲法。いまだかつて、そんなことを考えた人間はいないだろう。謠子にはああ言ったものの、横山教授がこのテーマを認めてくれるかは賭けだった。文言上は課題には反していないことは間違いないはずだが、単純に法学者として受け入れづらいだろう。三日後には彼に説明をしなければならないが、果たしてうまくいくだろうか。


 蔡原さいはらうたは不思議な女だった。一見して、何を考えているかわからない。だが何も考えていないのかといえば、そういうわけでもなさそうだ。傍から見れば無茶苦茶な女だったが、その実、人を強力に引き付ける不思議な気迫を葉月は感じていた。


 謠子なら、あの勢いで押し切ってしまえそうな気もしていた。とにかく、彼女には有無を言わせず物事を進めてしまえるだけの何かがある。


 ダメだったらそのときまた考えよう、と葉月は思った。


 ひとしきり考え終えて、よし、と小さな声を出して葉月は立ち上がった。そろそろ帰ろうか、と思う。時計を見れば、どのみちもう時間だった。


 すべてのアカウントは、午前零時をもって強制ログアウトされる。それが、接続者の実生活の保護と、ALIS内の秩序維持のためのALISにおけるルールだった。ALISの営業時間は毎朝八時から深夜零時まで。メンテナンスを行う時間が必要だ、という運営側の理由もある。


 強制的なログアウトには激しい不快感が伴う。追い出される前に、葉月は自分の意識を落とした。

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