Article 1. Down the Loophole ③

 喫茶店の扉の前で、づきはフリーグラスのウィンドウを開いたり閉じたりしていた。時計は十三時四十七分を示している。待ち合わせの時刻までは、あと十分以上あった。


 謠子と組むことになってから四日後。二人の都合がつく日曜日に、大学近くの喫茶店で打ち合わせをすることになっていた。


 葉月にはまるで理解不能なことに、蔡原さいはらうたという女はどうやら課題に取り組むのを楽しみにしているらしかった。そんな彼女に、いまさら「立法学を諦めたい」とは切り出せず、結局葉月はなし崩し的に履修を続けざるを得なくなってしまった。


 課題を続ける以上は、今後の方針をあらためて決めなければならない。今日の十四時に集合して、コーヒーでも飲みながら話をしよう、という謠子からの提案がそのまま通ることになった。


 フリーグラスをまた開いて時計を見る。あと五分。


 全身がこわばっている。葉月の鼓動は激しさを増すばかりだ。緊張で早く目が覚めてから、ずっとこの時のことを考えていた。家の中でも落ち着かないまま過ごし、早目に外に出た。喫茶店には十三時半に着いた。


 何を話せばいいんだろう、と葉月は悩む。


 連絡先を交換してから、謠子と何度かメッセージをやり取りしていた。内容は課題や打ち合わせの日程に関することがほとんどで、突っ込んだ話は特にしていなかった。事務的なものであればどうにか対応できたが、さすがに直接会って話すとなると、雑談も避けられないだろう。日取りが決まってからこのかた、葉月はずっと気が重かった。


 またウィンドウを開く。視界の右下に表示された時計は、十三時五十九分を示していた。目線を正面に戻すと、謠子がいた。葉月に気づいて手を振っている。葉月はぎこちない動作で、小さく手を振り返した。


 喫茶店に入ると、ウェイトレスに二人掛けの小さなテーブル席へと通された。謠子と向かい合う形になるが、葉月はどこに視線を置けばいいかわからなかった。意図的に避けているだけで、コミュニケーション自体が苦手なわけではないと思っているが、それでもやはり少しは緊張する。


「何か飲む?」


 メニューを差し出して謠子が言った。おずおずと受け取って、メニューに視線を落とす。何か注文しなければ。葉月は、とっさに目についた文字を読み上げた。


「え、えーと、エスプレッソ」


 つっかえながら言う。どうもこういう場面には慣れていない。たどたどしい動作で、謠子にメニューを返した。謠子はそれをぱらぱらとめくっていたが、やがて店員を呼ぶと、葉月の分とまとめてオーダーした。謠子が頼んだものはよくわからなかったが、どうやら紅茶の一種らしかった。


「それで――」


 謠子が言った。目線を上げることもできず、葉月は謠子の胸のあたりをじっと見る。


「本題に入る前に、あらためて自己紹介とかしとく?」


「そ、そうですね」


「じゃあ私から。あらためまして、情報科学部四年の蔡原謠子です。いまは空間シミュレーションと人工知能の応用複合に関する理論に取り組んでいます。あ、でも、シミュレーション環境自体の設計とか、単純な機械いじりとか、そっちの方も割と自信あります。よろしくね」


 葉月は、言っていることの三分の一しか理解できなかった。つまり、わかった情報は学部と学年と名前だけで、すでに知っている以上のことは何もなかった。

 そのまま沈黙が流れる。


 葉月はふと、謠子がじっと自分を見つめていることに気が付いた。自己紹介はお互いがしないと成り立たない。今度は自分の番だった。逡巡しながら、ゆっくりと口を開く。


「法学部三年の野田葉月です。あ、法律はあんまり好きじゃないですけど。なので、ちょっとこの学部を選んだことを後悔してます。サークルは、特に所属してません。バイトは、キッチンを週に何日かしています。趣味は……」


 いざ口を開くと、とりとめもなくまくしたてるような形になった。しかし、それすらも言い切る前に途中で飲み物が来た。「エスプレッソのお客様……」と呼ばれて手を挙げると、異様に小さなカップが葉月の前に置かれた。中には、見るからに苦そうな液体が少量入っているだけだった。エスプレッソってこれか……と思いながら、心の中でため息をつく。そもそも、葉月はあまりコーヒーを飲まない。慌ててオーダーした結果、まるで望んでいないものを飲むはめになってしまった。


 どうしたものかと思いながら謠子に目をやると、彼女は手慣れた様子でティーポットからカップへと紅茶を注いでいた。彼女が使っているザルのようなものが付いた銀色の器具は、葉月が生まれて初めて目にするものだった。謠子はカップを持ち上げると、少し香りをかいでから、一口飲んだ。


「うん、おいしい」


 二人はそのあとしばらく、無言で各々の飲み物を飲んでいた。謠子はどこまでも優雅な感じで、紅茶を楽しんでいた。砂糖もミルクも入れずに、ストレートで飲むのが謠子流のようだった。白のシャツにピンクのプリーツスカートを合わせていて、相変わらず品のある感じだ。紅茶を飲む姿は、端的に言って非常に絵になる。器具を使うときの手慣れた手つきからすると、普段からよく紅茶を飲んでいるのだろう。葉月の方はというと、恐る恐るカップに口をつけてはあまりの苦さに思わず顔をしかめてしまうありさまだった。だが、紅茶をストレートで飲む謠子に舐められたくない一心で、何も手を加えないまま、どうにかカップを空にした。


「もう飲んじゃったの?」


 気づけば、謠子にまじまじと見つめられていた。


「あ、いやあ……」


「何か頼む?」


 謠子がメニューを手渡そうとするのを、いいです、と葉月は断った。


「葉月って変わった子だね」


 教室の入り口で待ち伏せするようなあんたにだけは言われたくない、と葉月は思った。愚痴を投げる代わりに、一つ質問しようとする。


「あの、蔡原さんて――」

「あ、名字で呼ぶの禁止ね。それから敬語もやめましょ?」


 話を遮られて、その上無茶振りが飛んできた。


「なんでですか」


 葉月は、そういうフランクな話し方は苦手だった。


「何かしっくりこないのよね。半年間のパートナーだし、気軽に行きましょう」


 こっちだってその距離感はしっくりこないんだよ、と葉月は思ったが、食い下がっても許してくれそうな雰囲気ではなかった。しぶしぶ従うことにする。


「わか、ったよ。……こんな感じでいい?」


「うんうん、それでいいわ」


 謠子は満足げだった。


「よし、お互いのことを何となくわかってきたところで――」


 謠子があらためて切り出した。


「課題の話をしましょうか」


 いよいよ本題だった。この課題に取り組むことに葉月はまだためらいがあったが、いまさら後には引けない。腹をくくって、「はい」と言葉を返した。


 しかし、そんな葉月の決心を砕くように、謠子が間抜けな声で首をかしげる。

「それで、課題はなんだったかしら?」


 いきなり耳を疑う言葉だった。振っておきながら覚えてないのかよ、と葉月はまたも呆れてしまう。仕方なく教えてやることにした。


「えーっと、『学内最新の社会シミュレーションシステムを使って、仮想国家における法を制定せよ』だったね」


 フリーグラスに記録した課題を葉月が読み上げると、謠子は唇の下に指をあてて、少し考えるそぶりをする。それから、謠子はゆっくりと言った。


「法を作れって言われても、まったく分からないわね……。私、理系だし、法律とか勉強したことないし……」


 謠子の反応は無理もないものだった。葉月自身も何から手を付けたものか途方に暮れていたが、まずはできることから始めることにした。


「……まずは流れを確認した方がいいのかな。来週の水曜日、二回目の授業でチームメンバーの報告。三回目の授業で、課題のテーマ、つまりどんな法を作るかを報告するんだね。で、七月の最初の授業までに、出来上がった課題を提出すると」


「ふむふむ。そうすると、次はとりあえずどんな法を作るのかを決めればいいのね。ねえ葉月……そもそも法って何?」


 謠子が根本的な質問を投げかけてきた。確かに法律にはなじみがないだろうから、仕方ないかと葉月は思う。


「一言でいうと……国のルール?」


 法と道徳の違い、みたいなことを一年生の最初の方で習ったような記憶があるが、葉月はロクに覚えていなかった。当たり障りのない範囲のことを、自信なさげに答える。


「ルールねえ。でも、ルールって言ったっていろいろあるわよね? 人を殺したら死刑とか、お酒は大人になってからとか、お前のものは俺のもの、とか」


 最後のは違うだろ、というツッコミはやめておいた。この女の勢いに乗せられたら負けだと、葉月はすでに学んでいた。


「そうだね。殺人に対する罰則は死刑だけじゃないけどね。あとは、契約に関するルールとか、税金とか。裁判のやり方のルールなんていうのもあるね」


「へー! 葉月、やっぱり詳しいじゃない! さすが法学部」


 本気で言ってるんだろうかコイツ。あるいは、無自覚に煽ってくるタイプか、などと思う。そんな内心は押し殺して、葉月はとりあえず話を振った。


「さいはらさん……えーと……う、謠子? いま挙げた中で何か興味あるものある?」


「うーん、あんまりピンとこないかな。第一、いきなり決めろって言われても、難しいわよね」


 謠子はそう言って再び考え込み始めた。下唇に手を当てて考えるのは、どうやら謠子の癖らしい。そんな姿もまたいちいち絵になっていた。黙ってれば美人なのに、と葉月は思う。しばらく考えていた謠子が、やがて口を開いた。

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