Article 1. Down the Loophole ②

「なお、課題はチームで取り組んでもらいます。これから自己紹介をしてもらいますが、来週までに一緒に組むメンバーを見つけておいてください」


 づきは空いた口がふさがらなかった。傍から見れば相当な間抜け面をしていただろう。葉月にとって何よりも嫌なことは、誰かと協力して事に当たることだった。単に授業が理解できないとか、暗記量が多すぎるとか、そういった悩みとは一線を画していた。誰かと協働すると、必然人とのつながりが生じる。それは葉月が考えうる限り最大の苦痛で、チームで課題に取り組むというのは、まさにその最悪に身を置くことにほかならなかった。


 学生たちの自己紹介が始まった。皆、名前と学年、所属のほかに、出身地や趣味、抱負などを述べている。話のうまい学生の番では、笑い声も上がっていた。しかし葉月は、呆然としていて碌に聞いていなかった。本当は話をよく聞いて、少しでも自分が組めそうな人間を見つけるべきだったのだが、もはやそこまで頭が回っていなかった。


「はい。では皆さんの自己紹介も終わりましたし、時間も丁度良いところですので、あとは課題を発表して、最後に簡単な説明をして、今日は終わりにしたいと思います」


 自己紹介が一巡したところで、教授はタッチペンを手に取ると、デジタルボードに文字を書き始めた。真っ白な頭で、葉月はじっとそれを見つめる。目の前には次のような文章が書かれていた。


“学内最新の社会シミュレーションシステムを使って、仮想国家における法を制定せよ。”


「ここに書いてある通りですが、皆さんには、法学部が所有しているシミュレーションシステムを使いながら、法の制定、すなわち立法という行為に取り組んでもらいます。講義では、立法に関する理論を中心に解説しますので、適宜それを皆さんの法に反映していってください」


 その後横山教授は、今後のスケジュールや全体的な進め方、シミュレーターについてなどの簡単な説明をしていった。次回の冒頭で各チームのメンバーを報告してもらうので、来週までにチームを作っておくようにと最後に告げて、講義は終了した。


   *


「どうしてこんなことに……」


 葉月はうつむきながらも、猛烈に考えていた。とにかくうなだれていても仕方ない、と思い直す。時計に目を向けると、十二時十分を指していた。顔を上げたことがきっかけとなり、意識が一気に現実に帰ってくる。


 周りを見渡して、誰もいないことに気づく。チームを組むタイミング自体を逃したことを、葉月はいまさらになって理解した。万事休すだった。


 もはやお手上げとなったことで、かえって葉月は冷静さを取り戻していた。おなかが空いていることに気づいたので、ひとまず外に出ることにする。とにかく、今日はこれで終わりだ。お昼を食べて帰ろう、と思った。


 扉に向けて歩いていき、力なく開くと、葉月はそのまま廊下へと踏み出した。


 と、その時だった。


「あ、やっと出てきたわ! あのーちょっとお話ししたいんですけど」


 いきなり話しかけられて、葉月は心臓が飛び出るかと思った。尻尾を踏まれた猫よろしく距離をとって、思わず身構える。声のした方を見ると、ずいぶんと背の高い女性がいた。扉のすぐ横に立っている。どうやら葉月を待ち伏せしていたようだった。


「な、なんですか」


 ひとまず返事をする。こんな状況にもかかわらず、葉月の頭に最初に浮かんだ感想は、「うわ、すごい美人」というものだった。非常に整った顔立ちで、知的な目元が印象的だ。肩下まである黒髪はよく手入れされていて、適度なつやがあった。葉月が小柄なせいもあるが、顔を見ようとすると、目線が自然に上向く。百七十センチくらいはありそうに思えた。細身の体に薄いブルーのブラウスと白のレーススカートといった出で立ちが、より一層長身を引き立たせている。


「え、いや、だから。ちょっとお話ししたいんですけど」


 女性からの返答はしかし、少しずれたものだった。


「はぁ……」


 呆けた返事をする葉月だったが、すでに脳はフル回転を始めていた。扉の横で待ち伏せ。要領を得ない会話。まともなやつじゃない、という結論に至るまで、そう時間はかからなかった。どう理由をつけて逃げようか、と考える。


「立法学の人よね? 私、他学部聴講で受講してるんだけれど、勝手がよくわからないのよね。一緒に組める人、探してて」


 私急いでるんで、と言いかけて、葉月は口を閉じた。なるほど、そういうことか。


 異常事態にあって、葉月の頭はこれ以上ないくらい回転していた。目の前にいる背の高い女は、どうやら一緒に課題に取り組む人間を探しているらしい。他学部聴講のため知り合いもおらず、葉月と同じく講義終了後にチームを組むのに出遅れたのだろう。そこで、一人居残っていた自分に目を付けたのか。すでに学生たちが散ってしまった以上、来週までにチームを作るには、こうするしかない。そこまで考えて、葉月はこの千載一遇のチャンスを逃すまいと話に乗ることにした。


「なるほど、そういうことでしたか」


「はい、そういうことなんです」


 そっくり言い返して、彼女はニコニコしている。やはりどこかつかみどころのない女だった。続く言葉を待っていた葉月だったが、彼女は一向に口を開こうとしない。痺れを切らして、葉月の方から話しかけた。


「……課題、やるんですよね?」


「やるつもりです。ご一緒にいかが?」


 妙な勧誘の仕方だった。これからお茶でもするのかというような気軽さだった。葉月の頭の中では危険信号が鳴りっぱなしになっている。それでも、天からたらされた一筋の蜘蛛の糸のような申し出に飛びつくしかなかった。


「実は、私もちょうど組む人探してて……」


「じゃあ決まりね。私、情報科学部四年の蔡原さいはらうたっていいます。よろしくね。あなた、お名前は?」


「法学部三年の野田葉月です」


「ふーん。法学部生なのね。これは頼もしいわ」


 あれよあれよと話は進む。彼女の勢いは止まらない。


「とりあえず、連絡先交換しときましょうか。ほら、こっち見て」


 ずっと視線を合わせないようにしていたのがバレたかと焦り、思わず彼女の顔を見る。と、目が合った。直後、一件の申請通知が葉月のフリーグラスに送られてくる。目の前にいる女のコンタクトレンズ型のフリーグラスが飛ばした、連絡先交換の申請だった。こんな状況でなければ速攻でゴミ箱に放り込みたいところだったが、葉月はやむなく情報交換の承認をする。


 直後、小さな音がしてお互いの端末がリンクする。葉月のデータと彼女のデータが、それぞれの端末に格納された。


「はい、おっけーね。また後で連絡するわ。私これからちょっと用事あるから、じゃあね!」


 そう言うと、彼女は葉月の横を抜けて、廊下の先へスタスタと歩き去って行った。葉月はただ、その後ろ姿を呆然と眺めていることしかできなかった。彼女が通り抜けたあとには、甘い匂いだけが残されていた。


   *


 大学近くの定食屋で昼食を食べた後、葉月はそのままバイトの遅番に出ていた。一年ほど前から、中華料理屋の調理担当をしている。二十一世紀も後半に入り、かなりのことが自動化された社会にあって、店主は頑固にも人の手で料理を作ることにこだわるタイプだった。だがそんなこだわりのおかげで、葉月は生活費の足しにありつけている。


 厨房での仕事は世間で思われているよりもハードだ。くたくたになった葉月は、よろめく足で更衣室へと戻る。葉月はいつも疲れているタイプの人間だったが、今日は一段と疲弊していた。ドアも心なしかいつもより重い。肉体的疲労もさることながら、昼間の出来事のせいで気疲れしていた。帰ったらとっとと寝よう、と思いながら、のろのろと着替えていく。キッチン仕事で汚れるのが嫌で、葉月はバイトのときだけ普通の眼鏡にかけ替えている。フリーグラスをかけ直して、起動した。

通知が来ていた。メッセージの色は青。人間からのものだった。


 他人から通知が来るなど、いつぶりのことだろう。久々の事態に緊張が走る。誰からのものかなど分かり切ってはいたが、それでも葉月は恐る恐る確認した。


 差出人は、やはり蔡原謠子だった。


「蔡原謠子」ってこう書くんだ、というのが葉月の素朴な感想だった。だが、緊張は解けない。こわばる手で、メッセージを開く。


「ハロー、葉月! これからよろしくね!」


 そっと端末の画面を落とした。


 もう一度開いた。


 メッセージは消えていなかった。


 葉月はひとまず店の外に出て、それからゆっくりと春の夜空を見上げた。月も見えない曇り空だった。上を向いたまま、深くため息をつく。


「なんて返せばいいんだ……」


 思わず独り言が出た。葉月の一日は、まだ終わらないようだった。いきなり名前で呼んでくるタイプのやつだったか……いやそもそも、ハローはおかしくないか? などと思いながら、葉月はとぼとぼと駅へ向かって歩き出した。


 この時間の電車は、いつも空いている。葉月は適当な席に腰掛けた。椅子に座るのは実に五時間ぶりだ。ぐったりと座席に寄りかかりながら、なんと返したものかずっと考えていた。


 人と関わると、こうやって悩まないといけない――。葉月が極力他人と接するのを避けてきた理由の一つが、それだった。


 蔡原謠子の勢いに押されて連絡先を交換したこと自体が間違いだったと、葉月は早くも後悔し始めていた。別に、一科目も落としてはいけないというほど切羽詰まった状況でもない。このような事態になった以上、立法学の単位取得自体を諦めるという手だってあったのに。


 バイト先の最寄駅から自宅の最寄駅までは、電車で十分ほどの距離だった。さらにそこから五分ほど歩けば、自宅のアパートにつく。普段ならぼけっと半分無意識に帰っている道順。だが、今日の葉月はそうはいかなかった。


 メッセージアプリを落としては再起動する。そんな動作を、幾度となく繰り返していた。だが何度開き直しても、メッセージは消えてなくなったりはしない。悩んでいるうちに家についた。上京して三年目、住み慣れたワンルームの狭い部屋だった。


 カバンを適当においてベッドに向かう。その上に無造作に置いてあった黒いヘッドフォン型のデバイスをどかして、どさりと座り込んだ。


 このまま返事をしない、という選択肢もあった。ただ、それはさすがに失礼な気がして、結局葉月は挨拶だけ返して寝ることにした。立法学の履修を続けるかどうかは、またあらためて考えよう。夕食は賄いで済ませている。あとは、風呂に入るだけだった。


 風呂から上がって、フリーグラスを起動する。メッセージアプリを開き、またしても葉月は考えこんだ。いっそ明日の朝落ち着いて考え直そうか。――いや、それでは問題の先送りにしかならない。


 結局たっぷり三十分悩んでから、意を決して葉月は返信した。


「こんばんは。今日はお疲れ様でした。よろしくお願いします」


 何ということない普通の返事で、葉月はもう満身創痍だった。

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