アリスは夢見る、心のままに

榎木睦海

Article 1. Down the Loophole

Article 1. Down the Loophole ①

「くそっ、やられた……」


 まだ若干の肌寒さの残る四月の初め。


 がらんとした教室で、野田のだづきはひとり机に突っ伏していた。ついでに世界の理不尽さを呪っていた。――なぜ私がこんな目に合わねばならないのか、と。


 講義が終わってから、もうすでに八分が経過しようとしている。一緒に受講していた他の学生たちは、サークルの勧誘で賑わうキャンパスへととっくに繰り出していた。


「どうしてこんなことに……」


 だというのに、葉月は一向に立ち上がろうともせず、ひたすら震えてうめいていた。いつもなら、大声でわめきながらビラをまき散らす新歓連中に、毒の一つでも吐いているところだ。しかし、いまはそんな余裕はない。


 葉月はどうしようもなく、深い絶望に沈んでいた。



 いまから一時間と三十八分前。午前十時三十分。法学部が本拠地としている一号館の、四階の教室に葉月は入室した。講義開始の十分前というこの微妙な時間、まだ人影はまばらだった。教室内は、初回の講義の前にありがちな、どことなく落ち着かない空気で満たされている。葉月は室内をぐるりと見渡し、隅の方に空いている席を見つけると、目立たないようにそちらに向かった。そのままそろりと席に腰を下ろす。


 鞄を横において、左手で眼鏡のつるに触れた。瞬間、葉月の視界いっぱいに半透明のウィンドウが広がる。そこには、今日の天気やらトップニュースの一覧やらが所狭しと並んでいた。葉月はそれらにざっと目を通したあと、今度は目線を左端に飛ばして、メッセージアプリを呼び出した。


 だが、一面に映し出されたのは赤色――企業からの広告メッセージばかりで、人間からのものは一つもなかった。人付き合いに乏しい葉月のアプリは開店休業状態で、久しくまともなメッセージを受信していない。葉月はそれをじっと眺めていたが、やがてカーディガンのポケットに突っ込んだままの右手の指先を軽くこすり合わせて、ウィンドウを閉じた。


 葉月の眼鏡――フリーグラスはネットワークにつながっていて、持ち主が望む情報をそのまま視界に投影してくれる。操作は目線と、デバイスに連動させた指先だけで行うことができた。一昔前までは、タブレットを片手用に縮小したみたいな携帯端末が、スマートフォンなどと呼ばれて世界中で大流行していたらしい。だが、眼球と手元の画面との間にわずかな距離があることすら許せなくなった人類は、さらなる端末開発を進めていった。結果、視界との距離ゼロ、すなわち眼鏡ないしはコンタクトレンズ型のデバイスが、携帯端末の究極形として世界を席巻することになった。フリーグラスは普通の眼鏡やコンタクトとしても使えるようになっていて、葉月のものも度入りだった。


 目線と指先でフリーグラスをいじりながら、葉月は内心ほくそえんでいた。毎週水曜の二限に開講されるこの「立法学」が、いわゆる「楽単」であることを事前に知っていたからだ。


 事前にリサーチしたところによれば、この授業の概要は以下のような通りだった。出席は取らず、評価方法は期末試験一本勝負。講義内容は、引退間際の老教授が淡々と教科書を読み上げるだけ。試験は、最後の講義で問題が事前に発表される上、採点は非常に甘く、教科書を適当に要約すればそれでよい。そのため、学生からのこの講義に対する評価は、「出席の必要なし。単位取得は確実。楽に単位が欲しい人のための超優良科目」といったところに落ち着いていた。


 もちろん、複数のソースを通じて裏は取ってある。情報の出所は、学内の有志によって発行される電子情報誌や、インターネット上に書き込まれた無数の科目情報などだ。二十世紀の時代には、そうした情報は、サークルの先輩だの、同級の知人だのから入手するしかなかったらしい。学内での人付き合いを可能な限り避けてきた葉月には当然そんな伝手などなかったが、いまは個人でも容易に情報の収集が可能だ。いい時代に生まれてよかった、と葉月は思う。


 葉月の右隣に見知らぬ学生が座った。ガラガラなのになんでわざわざ隣に来るかな……と葉月は内心で悪態をつく。軽く咳払いをして、椅子を少し左に寄せた。


 立法学が何をする学問なのか葉月は微塵も知らなかったし、興味もなかった。立法に関する学問であるらしい、という中学生でも理解できそうなことしか連想されなかったが、それでも特に問題はなかった。この科目の単位は、履修登録をした時点で、もはや取得したも同然なのだから。


 初回である今日だけは一応出席しておくことにしたが、来週からは一切来るつもりはない。このことは、葉月にとって重要な事実を意味していた。葉月は、水曜日にこの科目しか登録をしていなかった。来週以降の出席をしないということは、つまり毎週水曜日が休日になるということだ。土日と合わせて夢の週休三日。来週の今日は何をして過ごそうか。最近金欠気味だし、とりあえず丸一日バイトを入れるか――。葉月の意識は、すでに未来に向いていた。


 そんなことを考えているうちに、始業の鐘が鳴った。不思議なことに、教室内の座席は三割ほどしか埋まっていなかった。楽単科目にしては少ないな、と葉月は少し心に引っかかるものを感じていた。一般的に、どんなに楽な科目でも初回くらいは出席する人が多い。もっとも、マイナーそうな講座ではあったので、まあこんなものかと葉月はぼんやり考えていた。


 入口の扉が開いて、男が入室してくる。担当教授のはずだったが、その姿は葉月の予想とはずいぶん違っていた。入ってきた男は、まだ四十代の半ばくらいに見える。引退間際の老教授じゃなかったのか、という素朴な疑問が頭に浮かんだ。考えを巡らせて、ああ、大学当局の事務員か何かが連絡にでも来たのだな、と勝手に納得しかけたとき、教壇に立った男が口を開いた。


「皆さんにはすでに事務所からメールで連絡が行っているとは思いますが、本講座をご担当予定だった江口えぐち教授は、ご事情のため先月末をもって当大学を退官されました。したがって、江口教授に代わって私がこの講座を担当します。あらためて、法学部教授の横山よこやまです。よろしくお願いします」


 葉月は、彼が何を言っているのかよく理解できなかった。メールで連絡? 退官? 横山? 何を言っているんだこの男は。彼が言った言葉を脳内で反芻する。メールで連絡。葉月は、あたふたとフリーグラスで大学事務局からのメールを検索する。どれだ。抽出されたタイトルを見る限りでは、それらしきものは来ていない。


 そうこうしているうちに、横山教授は出席を取り始めていた。名前を呼ばれて、葉月は慌てて返事をする。すぐに意識をフリーグラスのウィンドウに戻して、葉月は再び考えた。事務局からのメールは基本的に目を通しているはずだ。ただ、長いものだと細かいところまではいちいち読み込まないことも多い。長いもの、と考えたところでピンときて、あるメールを開いた。あった。「履修登録完了のお知らせ」というメールの中、登録決定された科目が延々と列挙された後に、目立たない注意書きがあった。


「立法学【水曜日第二時限】は、江口隆教授から横山康弘教授に担当を交代しての開講となります。登録の変更・取消を希望する方は、三月三十一日までに、ポータルの履修登録フォームから申請をしてください」


 葉月は、血の気が引いていくのを感じた。見落としていた。それから、大学事務局に対する怒りがふつふつとわいてきた。こんな大事な連絡、別メールできちんと連絡しろよ、と葉月は憤る。


 同時に、もう一つの疑問に合点がいった。この事情を事前に知っていたから、こんなに受講者が少ないのか。いくらあのメールがわかりづらいとはいっても、注意書きに気づいた人間はいたはずで、彼らは当然、仲間内でこの情報を共有する。仮にメールを読み落としたとしても、そんな注意深い知人を通じて、最終的にはこの事実を認知できた登録者たちが多かったのだろう。担当教授の交代を知るや、彼らは速やかに履修キャンセルの申請をしたに違いない。


 なんとなしに教室を見てみれば、葉月のほかにも何人かは面くらった顔をしている。彼らも、葉月同様あまり交友関係が広そうな感じではなかった。二十一世紀の後半にあっても、やはり人脈を制する者が大学生活を制するということのようだった。


 そのことを理解して肩を落とす葉月をよそに、横山教授の話は、この講座の方針の説明に移っていた。横山教授は、少し神経質そうな声を教室内に響かせている。


「前任の江口先生は、その、おおらかというか、学生の単位認定を甘めにされていたようです。その点については、各指導教授の方針ですので、私がとやかく言える立場ではありません。ただ私としては、学生の本分はやはり勉学だと思っています。ですから、皆さんにはきちんと勉強に励んでいただきたいと、そう思うところです。よって、出席は必須とします。毎回出席をとって出席点としますから、そのつもりでいるように」


 その言葉を聞いて、葉月は卒倒しそうになった。そういえば先ほど無意識に返事をしたが、確かに出席をとっていた。いまや、葉月の思惑は完全に水泡に帰していた。出席点があるということは、講義には出席し続けなければならない。週休三日の夢は、脆くも崩れ去っていた。横山教授の説明が続く。


「それから、立法学は実践的な学問ですので、ペーパーテストはそぐわないと考えています。よって、単位の認定は、皆さんに課題を提出してもらって、それを評価する形で行いたいと思います。テーマは、今日の最後に発表します」


 事態はさらに悪い方向に向かっていた。よりにもよって試験ではなく課題による評価とは。試験は直前に詰め込むだけでいいが、半期をかけて取り組む課題は、非常に手間がかかることが予想された。詳細は後ほどとのことだったが、どうせ楽なものではないだろう。


 しかし、そんなことすらもどうでもよくなるほど、葉月にとっては衝撃的な一言を、横山教授は口にした。

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