夏、空をみながら

 私は家に帰ると、ベッドに突っ伏した。何があるわけではない。なんの変哲もない。間違いなく私の部屋だ。夏になると二階の南側の私の部屋は湿気と熱気でむっとした空気に覆われる。私はエアコンのリモコンを机からとって、冷房を入れた。

「なんか面白いことってないかなぁ…」

ひっくり返って天井に目をやり、今日一日の光景を思い浮かべる。クラスの景色、保健室の景色、φの笑顔…

 

 小学校の頃の私は何にも考えてなくって今思えば何も考えないほど幸せなことはないと思う。児童会には入っていたけれど、ただただ仕事をこなすだけで、おしゃべりしてほとんどの時間を過ごしていた。

「委員長、面倒くさいー」

「それでも会計か?ちゃんとこなせ」

「えー」

私はしぶしぶ筆を進めた。会計なのになんで毎月の運動習慣のプリントを刷らなければならないのだろう。会計なのに会計の仕事なんて全く回ってこない。そもそも支出がないのだから収入もない。ただ、名前だけの会計だった。

「おわりましたぁ」

「ご苦労だった。帰っていいよ。」

会長はちょっと変わっていて、私は嫌いじゃなかった。なんていうか口調がちょっと大人びていて、いつも冷静だった。

 クラスではいい子を常に演じていたつもりはないが、結果としていい子になっていた。誰かに何か問われていても無難な言葉を口にする。喧嘩はしないし、言い合いもない。周りから見たらどうかなんて気にしていたわけではないけれど面倒事に巻き込まれるのは勘弁だった。

 そう考えると今の私は…

「あー…」

天井を見ながらだらしない声を出す。クラスメイトとはあんまり話さないわけではないけれど極力最小限になるようにしている。学力が問題になったこともなければ、成績に影響するような問題行動もない。ただ、色々と考えるようになったせいで、一日が長く感じられるようになった。スマートフォンに触れると、メールが一通だけ来ていて、ほかには何の通知もなかった。メールだってどうせ母だろう。いつも私が帰ってくる頃には家族はみんな働きに出ていて、帰りになるとこうして母から定期便が届く。どうせ冷蔵庫にある夕食のことだろうと高をくくってメールを開いてみると、意外にもφからだった。

「今日はありがとう」

「なにが?」

「いや、保健室に来てくれて」

「別に君のために行ったわけではないよ」

「そうじゃなくてもうれしい。僕は体が弱いから…」

「うん」

「クラスに友達いるんでしょ?」

「なんで」

φにしては珍しく、突っ込んだ話をしてきた、クラスに友達なんていない所為か、なんだか少しイラっと来たけれど、そのまま聞き流すこ都にした。

「僕のこと、みんなになんて言われてるか知ってる?」

知っているけれど私は瞬時にわからないと答えてしまった。

「φっていうんだって、空集合φ何も持たない人間で、何の個性もない証拠なんだって」

「そう…なんだ」

心の中では私はφと呼んでいたけれど、口にするときは君とかあなたとか誤魔化し誤魔化し呼んでいた。

「だから君も僕のこと、φって呼んでいいよ」

「本当に?」

私は躊躇った。φなんていじめじゃないか。それをφ自身はどう思っているのだろうか。

「ねぇ、φ…」

「何?」

「私、心の中でずっとφのことφって言ってた」

「だろうね」

「知ってたの?」

「薄々…ね…」

そうなんだ、と私は思い、少し考えた。φなんて名前で呼ばれるのはどんな気持ちなんだろうかと。φ何て言われて、空集合で空っぽな子なんて言われてうれしいわけがない。それでも彼は良いって言った。どういう意味なのだろうか。

「僕ね、φなんて呼ばれてるけど、実際はちょっと嬉しかったりするんだ」

「なんで、いじめじゃん」

「君はそういう風に思うかもしれないね。でもね、僕は生まれてから今まで、一回も渾名とかで呼ばれたことなくって、結構嬉しかったりもするんだよ」

健気な子がそんなことを口にすると私の胸に何か形のない黒いものがこみあげてきた。悪なのだろうか、それともやっぱりなんかよくわからないブラックボックスなのだろうか。そう考えながらφとのメールを終えた。

 スマートフォンを充電器につないで、音楽を流しながら、天井を見直す。なんも変わらない。私が物心ついてからなんも変わらない天井。もちろん、ポスターなんかは張ってあった。ライブに行ったときに物販で買ったものとか、秋葉原で買った少しマニアックなものとか。私はなぜだか、初音ミクに惹かれるところがあった。これもある意味ではφ。

初音ミクの中には心も何んにもなくってただ歌うだけ、言われた通りに従順に従う歌姫。でも感情移入することもないし、それでいて、ポップスやジャズ、たまには英語の歌詞だって華麗に歌う歌姫を私は愛していた。音楽を聴くけれど今日は乗り気じゃない。そんな日は決まってかけるのがTell Your Worldだった。何もないところから、空集合から歌うことを介して、みんなに愛されている初音ミク。私は好きだった。彼女に感情があるとしたらどんなことを考えているのだろうか。そんな歌詞歌わせるな?それとも、もっと歌わせて?なんだっていいけど、なんも考えなくてもみんなに愛されるなんてこれ以上のものは無いんじゃないだろうか。うらやましい。天井にもマジカルミライのポスターが貼ってある。地震で少しだけちぎれてしまったし、太陽の照り返しをたっぷり浴びて色あせた初音ミク。机の上にはLat式のミクが笑っている。私もこんな風に笑えたらな。そんなに楽なことはないか。諦めよう。そんな事を考えているうちに日は暮れていき、夜になった。夕食を澄まして寝ることにした。

 


 翌日目が覚めると、ψから連絡が届いていた。Δが死んだって言ってたから死んだものなんだろうと、いや、その時は”死”ってものを漠然としか意識していなかったけれど、死んだんだ。とだけ考えていたから、生きていたとしても、あ、生きてたんだ。くらいにしか思えなかった。

「元気してる?」

「元気だよ。ψどうしたの?急に連絡取れなくなっちゃったから心配してたよ」

思ってもいないことを口に出す。最近こういう事が得意になった気がする。

「ダメだったかな」

「そんなことないよ。でも心配してたってだけの話」

「学校でデモがあって、携帯も没収されてなかなか連絡がとれなかった。急なことだったから連絡入れられなかった。ごめん。」

「いや、謝らないで、そんなつもりないから」

ψの年齢はいくつなんだろう。学年を聞いたこともないし、どこの誰かなんて本当にどうでもよかった。

「大学?」

「うん」

「怪我とかないの?」

「ないけど自宅がね…」

ψから話を聞いているとどうやらデモ隊が持っていた火炎瓶がたまたま自宅に飛んできたらしく、自宅が全焼したとのことだった。でもどうやら怪我はないみたいで安心した。

「今何時?」

「一時間違いだよ。」

「どっちに?」

「どっちって??」

「戻るか進むか」

「戻る方」

「そうなんだ。私学校行かなきゃいけないからまたあとでね」

「うん」

それから私は何日も連絡を取らなかった。そのうちψのことなんて忘れてしまって。自分の身の回りのことだけ考えていた。

 最近全世界でデモが発生しているらしい事は私は授業で聞いていたし連日のニュースで知っていた。中でも欧米がひどくて、イギリスに至っては日本の会社が燃やされたり、虐殺したりとひどい有り様だった。イギリスでの過激な運動は中東の過激派がかかわっているって話が有力で、それ以上の情報は私のところには入ってこなかった。中東に自分探しに行った人いたよね。あれって誰だったっけな。香田…

 朝からいやな話を考えてしまった。私は見ていないけど、動画が有名になっていたのは知っていた。けれども私は死が何なのかわからないのに死に対して拒絶反応を示した。だから身の回りの人にそんなことが起きないように人間関係は簡潔に、割り切って生きていた。Δやψとの関係だってそうだ。やっぱり誰かとつながっている事は安心感があるけれど、それ以上の関係になると途端に怖くなる。だから誰とも深く付き合わないし、核心に触れるような事は一切聞かない。それが私のスタンスだった。そういえばΔは元気にしているだろうか。幸いアメリカでデモが起きているという話は聞かないけど、それも時間の問題のようにも感じられた。

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