エティオーグ ~ 大天使フォルテナ

 4人が廂間の館へ向かったのは昼過ぎ。差し当たって特別な会話は為されておらず、オルガの行こうぜの一言で待機していた3人が腰を上げ、現在に至っている。オルガから何かを報告するということはなく、また、エル、セシリア、クリアンカから昨日の出来事を尋ねるということもなかった。オルガを先頭に第三の館へ向かい、手馴れた仕草で鍵を開けて中へ入る先頭に黙って続いた。足音が澄んだ空気と落ち合い、甲高く響く。重さもタイミングも疎らであることが音の貫通性を高めていた。オルガを除いた3人は歩きながらとりあえず目でgateを探す。魔族へ通ずる入口を。だから館の最奥に魔族の影を見つけた時には思わず、心の準備不足を露呈して息を飲んでしまった。ファラム・ランサにおいて最後の相手となるであろう魔族、トムネ。その姿、やはり老翁。魔族の生命反応はとても小さかった。魔力などこれっぽっちも感じられず、威圧感はゼロ。もしかしたら連れ去られた人間かという考えも頭を過ぎったが、口を開いた魔族トムネによってその可能性は否定された。

「ようやっと来ましたか、強き者。随分と時間がかかってしまいましたね。まぁ、元より戦闘能力が著しく低い人間族では致し方のないことですが。何はともあれ、これでやっと私も務めを終えることができそうですね。・・・して、如何ですか、力を手にした気分は。多くの犠牲を払いましたが、それ程の力があれば魔獣や魔族に怯えるだけではない、抵抗することもできるでしょう。ましてや独りではない様子。どうやらミカガミとブベンが上手いことやったみたいですね。良かった、良かった。どうやら一件落着というやつですな。」独り笑壷に入るトムネ。両の眼はほとんど役をなしていない。老境に入っていてもう立ち上がることもできない。ミカガミよりも二百歳多く年を重ね、およそ千年と言われる魔族の寿命を全うしようとしていた。一方で誤解の対象であるエル、オルガ、セシリアとクリアンカの4人は抗うこともできなかった。力なき魔族への攻撃方法を拵(こしら)えてはいなかった。だからトムネの方が察するまで金縛りにあったように動けなかった。

「同胞を守る為に力を振るうことは悪ではありません。力なき英雄は無力。どうか英雄に、未来を創造できる英雄になって下さい。そんな英雄が人間族から生まれても悪くはないでしょう。」無言(しじま)を通す4人に対し、ついにトムネが違和感を察知するのだった。

「そう・・・ですか。どうやら招かれざる客がお見えになったようで。それでは、ミカガミとブベンを倒してここまで来られたのですね。驚きました、魔族でもないのにそこまでの力を。想像だにしていなかったので色々と喋りすぎてしまいましたね。」

「俺たちは、ファラム・ランサを元あった人間族の国に戻す為、これ以上人間を魔族にされない為に、貴方を殺しに来ました。」口を開いたのはエルだった。

「うまくいきませんでしたか。申し訳のないことで。力に、なれませんでしたか。」今しがたエルが言ったように、4人はファラム・ランサに混乱をもたらした根源であるトムネを殺すべくここまでやってきた。それで大尾にこぎつけられるはずだった。ツイと剣を振り下ろすまでもなく、コウと槍で突くまでもなく、目の前の魔族を滅ぼすことなど、例えるならば赤子の手を捻るが如く・・・誰にもできなかった。

「ひとつ、伺いたいことがあります。」歩み寄るはクリアンカ。

「どうぞ。」

「魔族に転生させられてしまったものを元に戻すことはできますか。」

「いいえ、それはできません。少なくとも私はその確実な方法を知りません。」申し訳なさそうにゆっくり首を振るトムネに対してクリアンカは、そうですか、とだけ答えた。


 もう暫くの間、転生の儀は施していない。トムネにそれだけの魔力や法力の類は残っていなかった。従って人間族を集めたり外部の反乱分子を駆逐するのはブベンの役目、その人間の転生を試みるのがミカガミだった。トムネは無用な来客を拒むためファラム・ランサに結界を巡らせ、早急な英雄の出生を試みた。同時並行に時が移る中で人々の祈りや願いは元の姿を取り戻し、英雄は外部から召喚された。ミカガミとブベンは4人の英雄によって滅ぼされ、トムネは・・・その魔族の処置判断はファラム・ランサの民に託された。もはや至純の魔族には人間族の子供ほどの力も残されていない。煮るも焼くも容易。4人はファラム・ランサに張られた結界を解かせると、館の出口に向かった。そこで待っていた民に事情を説明、手を下すべきかの決断を放り捨てて宿へと戻るのだった。

 ファラム・ランサ中の住民が廂間の館で老いた魔族を囲む中、4人は宿の一室に身を隠すように籠っていた。疲労はないが触れるべき話題、尋ねるべき事柄に不安は隠せなかった。

「さて、これでお別れですね。オルガの目的が満たされたかどうかは分かりませんが、これ以上の長居は無用でしょう。皆さんはどうされますか、ああ、そうか、船の手筈を整えなければなりませんね。」いつになくクリアンカの口が滑らかだった。あたかもさっさと3人を送り出そうかというように。

「クリアンカ、お前ェはどうするんだ?」オルガが問う。

「私はまだ決めていません。時間は幾らでもありますので、ゆっくり考えようかと思います。」あまりにも清々しく余裕の笑顔を見せるクリアンカに対して他の3人、特にオルガの表情は険しく、エルは無表情、セシリアも腕組みをして床を見つめていた。クリアンカの嘘に対して誰も何も言葉を発さない。そのことが3人に真実を与え、クリアンカを諦めさせた。そしてもう一押し。

「話してよ、クリアンカ。」エルが促した。再び沈黙。そして、

「やはり、隠し通せませんね。」ついにクリアンカも観念した。



 「ボクもフォルテなみたいに強くて大きなリリト族の戦士になるんだ。」

「フォッ、フォッ、フォッ・・・そうか、そうか。しかしなクリアンカ、それはなかなかに大変なことだぞ。」

「うん!だから毎日槍の練習もやってるんだ。もう猪にだって負けないんだから。」

「ほ~、それは凄いな。本当に儂よりも強くなるかもしれんな。だがなクリアンカ、槍をうまく扱えるだけでは強くはなれんぞ。」

「え~、何で?じゃあ、剣も弓矢も練習すれば強くなれるかな?」

「ん~、そうではなくてだなぁ。」

「じゃあ、どうすれば強くなれるの?」

「まずは女の子に優しくなくてはいかん。女の子に優しくないものは絶~っ対に強くなれん。それと、何でも食べること。好き嫌いをなくすことかの~。」

「う・・・フォルテなの意地悪。」

「クォッ、クォッ、クォッ・・・おや、クリアンカは何が嫌いだったかな?」

「ピーマンとナス・・・嫌い。」

「そうじゃった、そうじゃった。儂と同じじゃったな。」

「えっ!?」

「ん、知らんかったかな。儂もピーマンとナスは大嫌いだ。食えん。カッ、カッ、カッ。」

「本当?本当に?」

「うむ。自慢じゃないが、食えん。だからピーマンとナスが食べられれば、クリアンカはこの大天使と呼ばれるフォルテナよりも強くなれるかもしれんな。」



 エル、オルガ、セシリア、クリアンカの4人がエティオーグを発って三日後、リリトの民も同様にエティオーグを離れ新天地へ鹿島立った。大天使フォルテナを置いて。ただし現在、クリアンカ以外には存分に槍を扱えるものが粗方出払ってしまった為に極力安全な道を抜けるべく、クリアンカ等(ら)を先導役として利用した。道があろうがなかろうが、険しかろうが構わない。誰もが翼を背負っているから。目的は道中の安全確保、もしも魔獣が徘徊していればクリアンカが排除、次の拠点までの移動経路を作り出す。そしてどこか静かで平和な、手足・羽を伸ばせる空気の良い土地を探し出す。影の動きから察するに、どうやら安息の地はひとまず見つかったようだ。これで始まる。場所はエティオーグ。死都エティオーグにてフォルテナを、魔族と化したフォルテナを、殺すのか。



 「クリアンカは本当に釣りが上手じゃな。よくもまぁ、水中の見えない魚を釣れるものだ。」

「魚なら釣竿から見えるじゃないか。魚が食いついたら引き上げればいいんだよ、ほら!」

「見事なもんじゃの~。どら、こうかな、ほい。」

「だめだよ~、かかってないのに竿を上げたって。こうだよ、こう。ほっ。ん?あれ・・・」

「ん、どうした、クリアンカ。」

「あれ・・・うわ、ちょっ、わ~~、落ちる~~~。」

「フォッ、フォッ、フォッ・・・これは大物じゃな。そうなれば儂の出番。クリアンカ、竿を離すんじゃないぞ。せーの、どっこいしょー!」

「おおー!デカイーーー!!」

「うむ、見事なり。」

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「で、フォルテナ、クリアンカ――こんな大きな魚、誰が捌くの?どうやって料理するの?そもそも食べれれるの?おいしいの?っていうかどうやって釣ったの?毒なんかもってないでしょうね。保管しきれないし、そもそも家の中に入らないでしょう。外で切らなきゃダメね。全く、みんな呼んでこなきゃならないじゃないの。もう、何でもかんでも釣ってこないでよ、分かった?クリアンカ。フォルテナもお願いしますね。」

「はい。」

「はい。」

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「ねぇ、フォルテナ。」

「なんじゃ?」

「もしもあの魚がまずかったら・・・」

「儂ら、食べられじゃうな。」

「エーーーー!」



 「これで、お別れです。」クリアンカが以前より溜めてきた、恐らくはエティオーグを離れる時から吐き出す準備をしてきた思いを言語化した。影の動きを察知していたエル。オルガ、セシリアの3人にはこの一言も予想の範疇。だから応答も早かった。そしてまず異を唱えたのはセシリアだった。

「ホント、ドイツモコイツモ単細胞・・・」

「姫?」セシリアの独り言にクリアンカだけが戸惑いの表情を見せ、エルとオルガは納得と追慕の念から笑顔を浮かべた。まぁ、ドイツモコイツモに不満は残ったが。

「フォルテナを倒す。リリトの民を守る。だからついてこい。それでいいじゃない。」セシリアの言葉に首を振るクリアンカ。

「いいえ、姫。お気持ちはありがたいですが、守護獣とはわけが違うのです。相手は大天使フォルテナ。リリトの伝説にして英雄、勇者にして破壊神。名前くらいは聞いたことがあるでしょう。そんな危険に貴方たちを巻き込むわけにはいきません。」主人に逆らう従者といった所か。

「フォルテナなんて名前は聞いたことねェけどさ・・・」

「へっ?」続くオルガの発言に少し意表を突かれるクリアンカ。

「そんな相手にお前独りで勝てるのか。お前はそんなに強いのか。敵はそんなに弱いのか。」感情を押し殺した故に物質的質量と圧迫感を与える喋り方だった。

「やってみなくては分かりません。けれども私は皆さんが思っているよりもずっと強い。」オルガの重量に負けぬクリアンカ。

「何故そこに俺達を入れない。何で俺達が強いと言わねェんだ。俺達も巻き込んでみろよ。それとも何だ、俺じゃ足手纏とでも言うのか。」

「そんなことはあありません。決してそんなことは・・・貴方たちにも守るべきものがある。オルガ、あなたはガレオスを守らなくてはならない人だ。ガレオスが今、貴方を失うわけにはいかないでしょう。」

「要らぬ心配だ。ガレオスはそんなに弱くねェ。」

「王がいなくなれば民は彷徨うだけ。一枚岩のガレオスが内側から崩れたら―――」

「何度も言わせるな、俺は王じゃない。それに・・・」

「あのさ・・・」エルが割って入る。

 「リリトの子供たち―」エルの言葉にクリアンカの眼鏡に潜む瞳が僅かに揺らぎ、焦点を外した。

「あの子たちはクリアンカの帰りを待っているよ。エティオーグを出る時、あんなに別れが辛そうだった。あんなに苦しそうに『いってらっしゃい』を伝える子供たちを俺は初めて見た。クリアンカのことが大好きなんだと思った。そしてクリアンカ、君も、何より子供達を大切に思っている。だからさ・・・俺もフォルテナっていう名前は知らなかったけどさ・・・」

(エル、貴方もですか!?)

「子供たちとフォルテナを天秤にかけるんだ。子供たちと俺達を天秤にかけて、自分の正直な答えに従うべきだと思う。君は死んじゃいけない。帰らなくちゃいけない君は生きるための最善の手段をもって、何を犠牲にしても、何の犠牲を払っても、リリトの民の下へ帰らなくちゃいけない。だから俺たちも連れて行ってよ、エティオーグへ。」

 クリアンカが言葉を選ぶ。言うべきか迷っていた段階からどのように伝えるかという局面に。その間、静寂すらも静止する。

「私は皆さんを信頼しすぎてしまった。この数週間、心地良い日々でした。ですから、私が一番恐れてしまっていること、それは自らの死ではなく、敢えて言うなれば我々全員の敗北でもなくて、一人もしくは二人の友を失うことでもたらされる悲しみ。万が一私が生き残ってしまった時のことを考えると――」

「馬鹿な奴だ。」オルガが即答する。

「んなことは覚悟の上だ。そん時に考えれば良い。」

「後悔するかもしれない。でも今はまだ後悔していない。前に進めるよ。」エルも続く。

「決まりね。」セシリアが締めて皆のベクトルが一致した。クリアンカは、ありがとう、ございますとだけ声を発した。一行は再び始まりの地、エティオーグへ。


 ・・・エル、オルガ、ちょっと来なさい。あんたたち本当にフォルテナの名前を聞いたことないの?え、何で?どういう人生を送ってくればフォルテナを素通りして来られるわけ・・・

 クリアンカに少し、笑顔が戻った。



 「フォルテナはどうして我慢できるの?友達が殺されたのにどうして黙っているの?」

「・・・」

「フォルテナは強いんでしょう。誰にも負けないんでしょう。だったらあいつらを追いかけてやっつけてよ。なんでやられたままなんだよ。あんな奴ら殺して―――」

「クリアンカ、それはできない。」

「何でだよ。フォルテナの弱虫。意気地なし。大っ嫌いだーーー!うわぁーーーーーー!!」

「すまんな、クリアンカ。儂も同胞を殺された悲しみは同じ・・・儂も走り去りたい気分なのじゃが、家屋を踏み潰すわけにも行くまいて。しかしな・・・ふぅ~。山神よ、また山を壊してしまうことを許してくれ。どうも儂の八ッ当たりは被害が大きくて敵わん。敵わんが、我慢の限界なのだよ、山神よ。」



 遠目から煙の上がっている街の姿が戦いの現実を突きつけた。近付く毎に炎が大きくなり、その業火の中心に巨人が見えた。紛れもなくフォルテナ。自分の体も支えきれず横になっていた、死期を悟ったリリト族伝説の勇者が魔族の力だろうか、肉体や外見に回春は現れていないが、その破壊力は死都と化したエティオーグが物語っていた。

 少しお待ちください、そう言ったクリアンカが空に浮かんで早10分。屋根より高い高度で腕を垂らして脱力したまま、食い入るように大魔天使の破壊活動を見守っていた。この数年はほとんど寝たきりの状態で大槍を扱う姿は愚か、起き上がっている記憶も掠れてしまっていた。だから、目の前に展開される元気過ぎる暴力的破壊活動に脳内を思い出が充溢(じゅういつ)した。相も変わらず大きいですね、そう言うとリリトの戦士は鵬翼の白槍を握り、仲間の下へ降りてきた。

「お待たせ致しました。行きましょう。大魔天使フォルテナを天に還します。」


 大魔天使フォルテナ。その武器は伸縮自在と言われる魔槍『カレドヴルフ』。破壊と殺戮を存分に翼賛するという魔神器(まじんぎ)。エティオーグのどの建造物よりも背丈のあるフォルテナに似つかわしい姿で、主の破壊活動に一役も二役も買っていた。フォルテナから溢れる殺気に加えてこの死都エティオーグの風景、火の海や崩壊した家屋、哀し気に手折れた大木だけならば見慣れた感もあったが、底の見えない縦穴、半分欠けた丘陵、自分の身の丈もある足跡には顔色を無くしてしまった。それでも逃げるわけにはいかない。この大地(ヴェルハウゼン)での最後の戦いが始まった。


 背後からフォルテナへ歩み寄るクリアンカ。魔族はまだかつての同族に気付いていない。既に破壊すべき箇所が少なくなったエティオーグを更に踏み躙ることに夢中だった。あなたの八つ当たりは被害が大きすぎて困ってしまいますね、そう呟くとクリアンカは眼鏡に触れ付近の岩に向けて手を伸ばす。小さな稲妻が走り、ゴギャンという音によってフォルテナへその存在を告げた。そして応えるフォルテナ。動きを止め、振り向き、見下ろし、認識したはずだった。けれどもかつての同族と気付いていないのか、かつての義子を覚えていないのか、姿も力も小さな虫けらに興味が沸かないのか、魔槍を振り被り、躊躇うことなく振り下ろした。槍が地面に突き刺さり目に見える突風がエルとオルガ、加えて2人の背後に匿われるセシリアを襲う。もちろん野郎2名が難なく防ぐ。クリアンカも槍の動きを見切り改めてカレドヴルフの威力を確かめると、全身を舐めるように見上げていき顔へ到達。翼を翻すと羽が一回り大きくなる。最初から全開。クリアンカは雄叫びを上げながらフォルテナの顔面目掛けて飛翔した。

 まずは額を薙ぎ、肩口に槍を押し込む。それを引き抜くと左耳に向けて突き刺した。クリアンカの武器に血糊が付着、およそ5メートル舌にいる3人には少量の血液と体液が降り注いだことからも傷は負わせているはずだった。けれども魔族に苦しんだり痛がる仕草は見られなかった。ただし自分に傷を負わせた曲者の存在には我慢ならないようでクリアンカの姿を窺うと、無表情のまま左手で害虫を払いにかかるのだった。その程度の打撃を避けられないクリアンカではなかったが、風圧だけで左肩から引き剥がされてしまった。ここでオルガがクリアンカと入れ替わる形で攻撃に移った。

「デカ物相手はまず足元からってな。」そう言いながら右足の向こう脛に斬馬刀と日本刀で斬りかかった。縦、横、斜、遮二無二。クリアンカの槍撃が効いていないはずはない。証拠に流血が見られる。歳食いすぎて不感症か、好都合だ。痛みを感じる前に脚を破壊してくれる。けれどもそんなオルガの思惑は、即座に彼自身で否定せざるを得なかった。

「フンッ、そういうことか・・・」クリアンカにしても同様だった。手応えはある。血も流れる。ただし浅いのだ。相対的に。フォルテナの巨体に対して眇(びょう)たる傷口なのだ。要するにほとんどダメージを与えることができていなかった。クリアンカの左耳への一突きにしても、フォルテナにしてみれば耳に指を突っ込みすぎてちょっと血が出た、程度の軽傷とも呼べないものだった。当然フォルテナが体勢を崩すことなどあり得るはずもなく、それ所かオルガに対してカレドヴルフが打ち下ろされようとしていた。

「ブベンの太刀筋に比べたら焦れってェほど鈍(のろ)い、が・・・」オルガはフォルテナの振り下ろす大槍の一撃を簡単に見切った。槍の描くであろう軌道から脱出して身の安全を確保したが、引き続き身構えたまま槍の行方を目で追った。爆発でも起こったのではないかという大きな音と共に、地面を叩き割るか引き裂くかという勢いで大地に減り込むカレドヴルフ。そこからの衝撃波によって種々雑多の物が飛び交った。砂、土、石、岩、木片、鉄屑、レンガ、草木、仏像、小動物が散乱し、オルガにも遠慮なく覆い被さった。けれども大剣を横向きに防御の姿勢をとったオルガは一歩も後退りしない。目に見える威力に加えて轟音が畏怖の念を抱かせているはずだったが、それでも暴れる風を正面から受けきった。

「・・・鈍い、が・・・威力は申し分ねェな。羨ましいくらいだ。」

 乱舞する砂塵が視界を遮る中、ひとつの影が突っ切った。何だ?湧いた疑問と同時に解答を導き出すオルガ。エルだ。フォルテナの振り下ろした巨大な槍を伝って大魔天使の顔面目掛けて直(ひた)走る。体が大きすぎる為かエルのスピードについていくことができないのか、それとも高齢が理由なのか、フォルテナはその存在に気付くことなくエルの攻撃をまともに受ける形となった。エルの武器は細剣ではなく小太刀『アディリスの鱗』。土属性を持つ小太刀による剣撃、というよりは打撃、ほとんど体当たりに近い攻撃。『魔弾岩(まだんがん)』。エルの身体とフォルテナの顎との間に一瞬、人体程の大岩が出現したかと思うとフォルテナの視線が天に向かった。思わず一歩、とてつもない大股で後退するフォルテナ。まるで攻撃が通用しないというわけではなかった。遣り様によっては十分に倒すことができる。気を許してしまったエルは反射的に繰り出されたフォルテナの左手によって、ものも見事に振り払われてしまった。叫び声はあっという間に遠ざかり、半壊の家屋に激しく埋もれていった。それでもすぐに、土属性の結界に包まれたエルが這い上がってはきたが、障壁によって大事には至っていない様子ではあったが、掌打によるものが障害物に当たったか、流血が見られた。赤き血・・・真っ赤。・・・赤。点在する朱色が太陽光に照らされ、フォルテナの上半身を暖色のカーテンが覆った。『フレイム・オーケストラ』の影達が大魔天使を取り囲み襲撃の地固めを整えていた。

 「顔だ!顔面に炎を集中させろ!」オルガの指示に対して無条件に炎球達が動き出す。標的の顔、そして後頭部に吸い込まれていくセシリアの法術が至る所で発煙を引き起こした。首と手を振り乱して火の粉を除けにかかるフォルテナ。チクリとアツイでは痛みの次元が違うのか、圧倒的な炎球の数量によるものなのか、はたまた煙たいだけなのか、大魔天使は剣撃を受けるよりも明らかに嫌がる素振りを示していた。(上々だ。どんだけ小さい火の玉でも熱いモンは熱い。やられた奴にしか分からねェがな。)剣撃よりも法術、狙うは顔面。一連の炎撃に続いて追い討ちをかければ――その思いは法術を扱えない者の胸中も同じだった。苦しみ◯くフォルテナに顔を曇らせるクリアンカを見ぬ振りしたオルガがフォルテナの背面に移動を始める。やや遠方、半壊した家屋の上で法術に目を凝らすエル。トン、タン、テン、ポンと点在する4人。その中で最初に動きを見せたのは火達磨の魔族だった。

 光芒(こうぼう)が放たれた。



 「ダメだ、ダメだ!クリアンカ。そんな手ぬるい攻撃では虫も殺せんぞ!」

「グッ、クソ・・・地雷矢!」

「遅い。そりゃ。」


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「イテテテテ・・・」

「大丈夫か、クリアンカ?」

「全然大丈夫ではありません。痛いし、羽も毟(むし)れたし。」

「フォッ、フォッ、フォッ・・・だらしないの~。幼子の君は何があっても立ち向かってきたがの~。」

「無知だっただけでしょう。」

「そうかもしれんな。そうかもしれん、が、クリアンカには強くなってもらわねばな。最低でもこの儂を超えるくらいまでにはなってもらわねば困る。」

「一体いつになるのやら。」

「ま、焦ることはあるまい。ご覧の通り儂もまだまだ元気じゃしな。」

「全く。元気すぎて手に負えませんよ。」

「クァッ、クァッ、クァッ・・・」



 光芒が放たれた。

 火の赤に負けず、煙の白にも負けず、フォルテナの口から放射された怪光線は炎を破り煙を溶かし、憎き法術の発動者を目掛けて、一筋の白色光線が滑翔した。自分の操る法術の効果に目を凝らして分析を続けていたセシリアの反応が遅れる。それ以上に光線の速度が速い。当たる、そう思った時にはセシリアの体が宙に浮いて横滑りしていた。気を失っていたわけではないが我に返ると、無意識の内に翻るスカートを抑えながらエルに抱き抱えられていた。逸早くフォルテナの攻撃、つまりは顔面の異変、口元の光源に感応したエルが誰よりも速く、『朔風の足袋』によって両踝に翼を携えてセシリアを横からかっさらっていった。刹那エルとセシリアの背後では直線上に亀裂が入り、海面まで到達していた。土は深く抉(えぐ)られ、短時間ではあるが、海が割れた。無傷で済んだことにホッとするよりも見舞われたいた時のことを考えるとゾッとした。怪光線の傷跡は残ったがフォルテナによる単発の攻撃は止み、セシリアの炎球も消えた。

 2人の下へ駆け寄るオルガとクリアンカ。

「でかしたぞ、エル。どうやら奴には剣よりも法術の方が効果的みてェだ。ここからはセシリア中心に攻撃を組み立てる。いいな、セシリア。狙いは顔面、とにかく顔だけ当てればいい。」

「う、うん。分かった・・・何よ、ちょっとくらいは私の心配してくれても・・・」

「ん、何か言ったか?」

「何でもない!顔ね、顔をグチャグチャにすればいいんでしょ、分かってるわよ!」

「おっ、気合十分じゃねェか。」

「もう、バカ!知らない!」

「な、何々だよ。おっかねェな~。」時間の経過と共に大天使フォルテナの顔周辺から煙が消失していく。警戒を解かずフォルテナから目を離さなかったエルとクリアンカの目には焦げた跡が入ってきたが、効果覿面というまでは至らなかった。傷跡よりも瞳、怒りに満ちた大魔天使の双(そう)眸(ぼう)に4人は気を引き締めた。

 「では、私とエルで注意を引きつけますね。」

「エル、浮遊法術を。」というセシリアに

「いや、大丈夫だと思う。足場があれば問題ないよ。」のんびり話をしている時間もなく一言、二言交わすと、エルとクリアンカがフォルテナの顔面目掛けてエルは駆け、クリアンカは翔けた。まずはクリアンカが先行する。一直線に羽ばたくと左腕を伸ばして法術を放った。的は大きすぎる位なので外れる余地はない。確実に当たる。効果の程は定かでないが隙は生まれるだろう。そこに槍を捩じ込んで、今度は様子見などではなく貫いて主導権を握る、そんな思惑だった。だから放った雷撃がフォルテナの瞬きひとつで霧散してしまうと思わず急停止、突貫を止めた。そこに音を鳴らして襲い来るカレドヴルフ。クリアンカの反応が一呼吸遅れた。それでも空中で機敏に身をこなして既の所で回避、したかに思われた。

 白き翼が宙を待った。美しく、優雅、平和の象徴を思わせるように。その白色が故に不安が畳み掛けたが、どうにか致命傷は避けていた。それでも無傷ではなく右翼の下部3分の1、羽が欠けていた。落下することなく空には滞在しているが、とても不安定。キビキビとした動きがフワフワ、あまりに優しすぎる飛行状態となってしまった。削られた自慢の機動力。この機会を見逃すはずのない大魔天使、カレドヴルフを握る右腕に力が入る。対してクリアンカ、空中姿勢を保つバランスが崩れてすぐには素早い飛行はできそうになかった。少し待てば今の違和感に慣れることもできそうだったが、すぐには無理。躱しきれないと悟ったクリアンカは、再び迫り来る大槍に比べると随分心許ない相棒に力を託した。

 足場を渡るエル。最初の一踏みは膝辺りだったろうか。その後は壁を駆け昇る鼬(いたち)か忍びか、フォルテナが肌の違和感を察する間もなく首下まで辿り着いた。そして繰り出す小太刀の一太刀。一太刀と呼ぶにはあまりに不格好な体当たり。『魔弾岩(まだんがん)』エルが全身で無防備な顎へぶつかるとフォルテなは1歩、2歩、後ろへ退(すさ)った。大槍はクリアンカへ届かず。そしてここから暫くはエルの時間となる。

 左の耳介(じかい)から右の耳介へ。その鷲鼻、額や頭(つぶり)を伝いながら移動を繰り返すエル。さながら就寝時に嫌らしく飛び回る蚊にでもなった気分だった。これを義務か運命のように追い掛け回すフォルテナの左手だったが、捉えることはできぬ宿命。エルは左手の乱打を躱しながらレイピアで突く。一旦の攻撃で付けられる傷跡は微々たるものだが繰り返しゝ同じ所を、眉間の全く同一の箇所を何度もゝ突き続けた。それだけではない。エルの移動速度が時を追って加速する。追われていたフォルテナの左手の背後をとって追走するかの動きを見せるのだった。

 そんな追いかけっこを遠めに見ながら、オルガがセシリアに話しかけた。

「『針の穴を通す糸の中心点を貫ける』。1年前にエルの言ったことだが、覚えてるか。」

「何よ、こんな時に。覚えてるわよ、最後の夜のことでしょう。誰かさんと違ってあまり自慢とかはしないんだけど・・・珍しくエルも酔ってたからね。」

「誰が飲ませんたんだか・・・まぁいい。エルの言葉に偽りはなかった。見事だ。あんだけ動き回りながら寸分の狂いも無ェ。だがな・・・あれじゃあ貫くまでに百年かかっちまう。ボヤボヤしてねェで法術の準備をしときな。」

「分かってるわよ(オルガだって散々飲ませてたくせに・・・っていうか、話しかけてきたのはそっちじゃない)。」

 平衡感覚を取り戻し、エルに加勢するクリアンカ。傷ついた翼は痛々しかったが見た目には動きにさほど影響はなく、こちらもフォルテナの掌を脱しながら顔面に槍を食らわせていた。針の穴を通す類の攻撃ではないが少なからず出血が見て取れることからも、全く刃が立たないというわけではなかった。さすがに息の乱れを顕すエルと共に次々と攻撃を繰り出した。一方我慢ならないフォルテナは、左手に加えて大槍を握ったまま右腕も振り回す。当たる当たらないではなく、この鬱陶しい虫ケラをどうにかして追っ払う為に両腕を激しく振り乱した。けれども当てずっぽうのぶん回しが効を奏することはなく、その効果といえば辺りに無邪気な暴風を発生させてセシリアの集中に障る程度だった。それもオルガが自らの肉体を盾にして遣り過ごす。何ら問題はなかった。

 それにしても、距離を置いて観察すると、改めて体の大きさの違いに愕然としてしまう。巨大な顔を経巡(へめぐ)るエルとクリアンカはまさに蚊か小蝿。人よりも匹で勘定したほうが適当かと思わせる程に。


 法術の手筈を整えたセシリア。『フレイム・スタッカート』はいつでも発動可能。待機した状態のまま攻撃を繰り返す2名の様子を、オルガの背中越しに見つめていた。◯くフォルテナ、嫌がるフォルテナ、両腕を振り回すフォルテナ。そして、法術を発動するフォルテナ。空舞うリリト、天空の戦士。地上よりも死角の増える空において全方位型の攻撃・防御は基本中の基本。生存のために不可欠の術。フォルテナの放った法術は『雷破』。フォルテナの全身から放射された黒味を帯びた電光が2匹の小蝿を叩き落とした。

 怪異な気配を察したエルは攻撃の手を止め瞬時にフォルテナの体から離れはしたが、聊(いささか)か間に合わなかった。巨体からドス黒い稲光が発せられたと感覚的に認識できた時には両手両足が痺れ、全身に軽い痛みが走った。そのまま地上へ落下、辛うじて足先から着地したエルではあったが屈んだ姿勢から動くことができなかった。失敗(しくじ)ったと思った時には遅かった。傷はない。傷はないが立ち上がることはできなかった。どうにもこうにも力が入らない。力を込めると痛痒さからこんな状況にもかかわらず表情が崩れてしまう。特に膝、ここが言う事を聞かない為にその場から動けなかった。その一方で首は回る。皮肉にも首を上げてフォルテナの迫り来る様子を伺うことはできてしまうのだった。

 対するクリアンカ。何も感じない。『雷破』を扱えるクリアンカであるから法術の効果についても熟知している。恥ずかしながら無二無三に槍撃した結果、法術の気配を把握できず真っ向から雷撃を受けてしまった。けれども別段、自身の肉体に異常は感じられなかった。

 「同属の相殺・・・」セシリアの呟きが正解だった。

「ん?リリト族同士ってことか?」オルガが二刀の握りに力を込める。

「ううん、違うわ。雷属性の法術を扱う者同士ってこと。」先にフォルテナがクリアンカの法術をいとも簡単に斑消(むらぎ)えさせたことにも説明がつく。

「じゃあ、クリアンカやフォルテナには雷が効かねェってわけだ。」剣を構え腰を落として狙いを定める。

「100パーセントってわけではないけれど、ダメージはうんと小さくなるはずよ。」セシリアは後ろへ下がって距離をとり、巻き添えを食わないように心を用いた。

「そうか。」動けないエルを助くべく放たれる剣技。‘till the end of the spiral-chapter red’.

 法術『雷破』の効き目を確かめるまでもなくクリアンカに背を向けるフォルテナ。大魔天使が見下ろすは法術の奇効で一時的な行動不能に陥っている、チコマカ五月蝿い小さき人間族。動きさえ封じてしまえば潰すことなど容易。エルはフォルテナを見上げ意味もなく睨めつけることが精一杯だった。槍を振り上げるフォルテナに対してクリアンカが後頭部目掛けて吶喊する。必殺などということは頭になくエルを守るべく、どうにか巨人の注意を自分に引きつけて時間を稼げるよう槍を突くつもりだった。

「フォン!」両腕ばかりに気をとられていたとか、同じリリト族でありながら背後を取ったことに気を許した、というのは酷だろうか。背後の敵を羽で跳ね除けるなどという荒業、クリアンカだけではなくフォルテナを除いた全てのリリト族にとって思索範囲の外だった。翼はそんなに強いものではないのだ。だから普段は体に巻きつけるようにしている。筋肉みたいに鍛えることはできないし、羽は生え変わっても翼が肩甲骨辺りの根元からちぎれてしまえば再生することはない。飛翔を止めるわけにはいかない。リリトの証を失うわけにはいかない。翼は守り慈しむもの。リリトの民はそう教えられ育てられるのだ。だのにフォルテナの翼は硬く、重かった。生まれて初めて自分以外の翼によって飛ばされたクリアンカ、気が付けば海岸沿い、海水に浸っていた。


 意識ははっきりしていて、予期せぬ静電気に驚かされた覚醒が継続している程にシャンとしてしまっていて法術に包まれはしたが傷が痛むとか気が遠くなるということはなく、そのことがどうにも憎らしかった。頭上に大きな影が覆い被さろうと、地面に漆黒の巨影が広がろうとも、体がほとんど言う事を聞いてくれなかった。どうにか小太刀に力を込めて魔導石『土精の吐息』を発動させて障壁は張ってみたものの、耐えられるかどうか頼み少ない。ひたすら右足に力を込めるエルだったが、反応無し。血の巡りが悪化した感覚が依然として強く、いやはや参ってしまった。こんな時に思い出され引き出される記憶が、幼少時にイタズラがバレて長時間正座させられた苦い思い出なものだから、走馬灯がなんたらかんたらみたいで嫌になってしまった。

 ただし断っておかなくてはならない。首が動くということは上だけではなく左右も見渡せるということを。悲観的になることはなく、むしろ楽観的に置かれた状況を整理していた。己の身よりも吹っ飛ばされたクリアンカの方が心配だった。少し首を動かし目を遣るだけで安心して回復を待つことができる。その理由はもちろん、照れ臭いので口にはしないが。

 ‘till the end of the spiral chapter-red’.二色二本の螺旋が混交することなく、付かず離れず勢いよくフォルテナの横顔、耳たぶ辺りに食い込んだ。エルのレイピアによる攻撃とは音も残響もまるで異なった。ペンで突っつくかハンマーで殴るかという具合に。加えてオルガの剣術らしからぬ妖艶さ、それは二本の螺旋が醸す丹精の妙。1つは水色、1つは赤、その接合線には暗紫色。三色の螺旋と見紛う剣技は不思議と勇気を与え、心の癒しすらも添加した。だから前者はともかくとして、後者には全く当てはまらないようなオルガの鯨波、

「エル!動け!その場から離れろ!!」という指示に対してどうにかこうにか従えてしまうのだった。エルはフォルテナがバランスを崩している隙に、あいにく首がちょこっと曲がって程度ではあるが、オルガとセシリアの2人と合流した。1つ息を吐くエル。大剣を肩に乗せるオルガ。2人が言葉を交わすことはなくチョロっと視線を合わせただけで思いが通じている姿に、男の子はいいな、素直に羨ましく思うセシリアだった。それでも今は戦いの最中、気持ちを切り替え、砲術を切り替えた。そう、雷には水。『フレイム・スタッカート』の発動準備を解くと、改めてミカガミの杖に加持を込める。魔神器、ミカガミの杖に。

 

 凄い。殊に水属性の法術に関しての補正効果、術者への恩恵は目を見張るものがあった。炎を操っていた際にもその効力は感じていたものの、いま胸を締め付ける感情は、驚きを超えた喜びの上を行く未知への恐怖を丸め込む快感。これが魔神器。これならば大魔天使フォルテナを抑えることも可能かもしれない。3人の力になれるかもしれない。やっと戦力としての存在価値を見出せる。そう考えると自然と肩に力が入ってしまっていることに気付き、静かに目を閉じる。まぁ、後々、これまでの人生で味わったことがないくらいのハラペコに襲われるであろうことはとりあえず置いておこう。

「『水(a q u a) 凍てつきし雨露細雪(うろ ささめゆき)』!」突如として現れた寒冷。吹雪舞い散るというわけではないがフォルテナの顔面周辺を雲霧が覆い、視界不良で何が起こっているか定かでないが、法術が発動されたことは間違いなかった。

 直後、セシリアの体に芽吹いた変調。たった一発の法術によって、セシリアは途方も無い疲労に全身を蝕ままれた。大気も凍てつく水属性の法術によって発汗が止まらない。首筋から胸元、脇にかけて大粒の雫が流れ、恥ずかしいことに脇周辺の衣は色を濃くしてしまった。日常であればおそらく男子の多くが目を奪われる珍事。けれどももちろんそんなことに誰も目を向けていられなかった。誰しも、当の術者セシリアも、受けたフォルテナも、傍観者の3人も我が目を疑った。目を疑いながら戦機が熟すのを得心した。フォルテナの左側面から唱えられた法術は巨人の左腕を凍結させていた。咄嗟に顔を庇ったのだろう、肘が肩と同じ高さまで上がった状態で固定されており、加えて顔面と頭髪の一部、首筋の一端が氷を纏っていた。術者の法力、魔神器ミカガミの杖、そして水属性に対して抵抗力の低いフォルテナ。効果は申し分無かった。特に被害の大きかった箇所が左腕部。肩から手首にかけての広い範囲で凍結していた。そしてエルの大声が焼け野原を駆け抜ける。

「オルガ!俺をあそこまでぶん投げてくれ!!」死都エティオーグが終局の音を奏で始めた。

 エルを大剣の道中に乗せたオルガは雄叫びを上げながら、凍てついたフォルテナの左腕部目掛けて投げ飛ばした。相も変わらぬどころか一層拍車がかかった馬鹿力に呆れつつも、感謝しつつ感嘆しつつ砲弾になって風を切るエル。小太刀は鞘に収まっていて、攻撃の手段には細剣を選択した。『玄翁虎落笛』。長大な風の槌、とは言ってもせいぜいフォルテナの掌程度の大きさなのだが、エルがオルガの一投に身を任せながら全身を使って振り抜いた槌が巨人の左腕を砕いた。ガラス細工を割ったようなキラギラした残影と共に肘から真っ二つ。腕は真下に、エルは勢いのままフォルテナから数メートル後方に落下した。しかし落ちたのはそれだけ。切断部から血液が流れ落ちることはなかった。末恐ろしいことに左腕の皮膚、筋肉のみならず血液から骨の髄まで結晶化されたいた。

 ブォォォォオオオオオオオーーーーーーーーーーン!!天を仰ぎ、苦しみと怒りを声の限りに吐き出すフォルテナ。とうとう目に見える傷を与えた。どうにかこうにか、腕一本を◯ぎ取った。堤を崩す蟻の穴よりは大きなきっかけに違いはなかった。それでも大地と海に動揺を及ぼすフォルテナの喊声(かんせい)にクリアンカは戸惑い、セシリアが怖気(おぞけ)立ち、エルは手応えを実感しながら落下、そしてオルガは、時を移さず大魔天使の右足目掛けて走り出した。左腕の砕氷、両断、落下。誰しも時を止めて息を飲む中で滞ることなく追撃を選択できるオルガは、経験値で一枚も二枚も他の者を上回っていた。‘a mine of sword dance ’.無数の太刀が大魔天使の右膝を狩るが如く、刈るが如く、駆られるが如く。間もなく膝は悲鳴を上げて巨体を支えきれなくなった。

 右膝が折れ曲がり、フォルテナは膝を抱え込むように片膝を立ててうずくまった。その振動は土を伝い海面にまで届いた。微動する海岸沿いの海水。けれどもそこにクリアンカの姿はない。濡れた翼を顧みることなく、まさに崩れんとする大魔天使に向けて滑翔した。右手に鵬翼の白槍を握り、動揺とは無縁の宙を独り征く。狙いは首筋。氷結した箇所であれば場所が場所だけに致命傷となり得るかもしれない。ましてや動けないフォルテナ。勝機。紛れもない勝機なのだ。高速に身を任せるクリアンカの翼が糸を引く。水とも汗とも涙ともしれない雫が煌き、儚いリリト族の足跡を印する。過去を断ち、現在を受諾し未来を勝ち取る飛翔の証。最後の一閃。そうあるべきだった。


 「クリアンカ・・・」大魔天使フォルテナが初めて発した極小の言葉。低く静か、重く悲し気ではあったが不思議とよく通ったその単語は、クリアンカへ届けられると共に穂歌の3人も聞き取ることができてしまった。

 クリアンカの瞳にはフォルテナの微笑みすら映ったという。クリアンカの耳には遠い日の歌、自分を励ましながら戒め、明日への希望を優しく解いてくれたフォルテナの囁きが届いたという。クリアンカの脳はフォルテナとのすばらしい日々、美化された記憶も含めて、忘れたくない思い出に埋め尽くされていた。エル、オルガ、セシリアの共通認識。・・・浅い。

 フォルテナに対して正面から突貫したクリアンカは凍りついた首を標的とした。そして、名を呼ばれた。それでも構わずフォルテナの後方まで突進を止めなかった。残念ながら、誰より彼より自分自身が槍先の振れたこと、不堪(ふかん)な槍撃を悟っていた。

 再び翼が小蝿を叩き落とした。エルの近くに墜落したクリアンカだったが地面スレスレ、地面にぶつけられる前にうまく羽で抵抗を作り出した。リリトの戦士を中心に砂埃がまったかと思うと、無事に2本の足で立っていた。肉体に目立ったダメージは見当たらない。身体には。クリアンカは振り返り天を見上げ、フォルテナの存在を確認する。フォルテナも黙して押し潰す勢いでクリアンカを見下ろす。昔に比べれば大きくなったクリアンカではあるが、フォルテナを前にすると悲しいまでに霞んでしまうのは致し方のないこと。淡い期待を胸に視線を外さないクリアンカ。そして、それに答えを導くリリトの勇者。

「ク・リ・ア・ン・カ・・・」そう漏らしたフォルテナの表情に変化は現れなかったが、名を挙げられたクリアンカの目には強い光が灯った。乱れ惑う感情を殺すようにゆっくり、祈りを込めて名を返した。

「フォル・・・テナ・・・」リリトの絆が全ての呪いをを打ち破る。魔族の呪縛を、魔導石の呪術を、失くした同士の紐帯を。そうあってほしかった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クリア・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・カ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・死ね・・・!!!」瞳から希望の光が消えた。微動だにできないクリアンカ。構えてもらえぬ槍は諦めたのか、悲しげに灰色の土へ頭を垂らしていた。その上空ではカレドヴルフが今まさに、振り落とされる。クリアンカに逆らう気力は残されていなかった。絶望、そう、それは死に至る病。

 『風塵鋼土(ふうじん こうど)』。振り落とされるカレドヴルフと立ち尽くすクリアンカの間にまず割って入ったのはエルだった。小太刀アディリスの鱗より放たれた盾とも結界ともとれる障壁によってどうにか巨槍の一撃を受け止めた。衝撃のみならず騒音までも吸収するのだろうか、ツォーンという超音波にも似た波音が広がり、槍の進撃を食い止めた。食い止めはしたが、赤土色をしていた土属性の盾は瞬く間に色を失い、透明色へと変化し、やがて点滅・・・魔導石によって作り出された力は・・・

 このタイミングを狙っていたわけではないだろうが、

「よく堪えたな、エル。」続いて援護に入ったのは、憎らしい程の時機に現れたオルガ。エルの背後から覆い被さるようにドラグヴェンデルを両手で握り加勢した。さぁ、力比べ。リリトの勇者にエルとオルガが挑む。その後ろで動けないクリアンカ。目の前の押し合いが目に入っているかも怪しい。その攻防も振り下ろすとかち上げるとでは有利・不利は明白だった。経過していく常〃の何倍もの長さに延長された一秒毎にヒリヒリと状況は悪化・・・

 無論、恩着せがましい感情はないのだろうが、

「2人とも、ごくろうさん。」最前にエル、密着するようにオルガ、数歩の距離を置いてクリアンカ、その隣にセシリア。法術師がミカガミの杖を振り上げると4人を光が包み込み、フォルテナの槍を弾き返すのだった。ごくあっさりと。そのまま2歩、3歩と後退する巨人。4人との間合いが広がった。そして、変化する4人の距離。

 「クリアンカよ・・・」声をかけたのはオルガ。

「・・・はい。」

「覚悟が無ェなら今すぐ去れ。同情の余地無しとは言わねェ、だがな。過去に縋(すが)って未来を捨てるなんざ、馬鹿らしくて見てらんねェ。」そう言うとオルガは、クリアンカを振り返ることなくフォルテナに向けて歩き出した。斬馬刀と日本刀の奇妙な組み合わせを携えて。

「リリトの子供たち・・・」続いてエルが口を開いた。

「君が死んだら、俺はあの子たちに会わせる顔がない。だから俺は君を守ろうとした。残酷だけれど、俺たちはフォルテナを殺した上で君を子供たちに送り届ける。クリアンカにとっては辛いことかもしれないけど、子供たちは喜ぶよ。俺は子供たちの笑顔を選ぶ。」振り返ることなく歩き出したオルガに対してエルは、殺し合いの最中とは思えない無邪気な顔で振り返り、オルガに続いた。

「帰りましょう・・・」最後にセシリア。

「みんなが帰りを待っているのはあなたよ。それが分からないほど、単細胞ではないでしょう。」クリアンカの隣で軽く片目を閉じて微笑んだセシリア。そして表情の作れないクリアンカを気にすることなく、両の瞼を閉じて法術の詠唱に入った。

 声を出して応じることはできなかった。けれども、いや、だからこそ、クリアンカの右腕に静かながらも優しい、ただし曲がることのない覚悟が宿った。


 作戦の打ち合わせなど皆無。それでも4人の意識は共通していた。エルとオルガで攪乱してフォルテナの注意をひきつける。その間セシリアは法術の詠唱に集中し、止めを刺すのはクリアンカ。

 まずは2人がフォルテナの注意をひきつけるべく顔面周辺を激しく駆け回った。エルは相変わらずの俊敏な移動、攻撃を見せる一方で、オルガにとってはいわば苦手分野。大魔天使によじ登り始めてすぐ、攻撃手段をダインスレイヴ1本に絞った。尻餅ついたり3本の手足で体を支えながらどうにか食らいついて、比較的足場の安定する肩周辺に日本刀を突き刺した。全く、エルの身軽さには嫉妬するぜ。披露は溜まり息も切れゝ。オルガは3度手の平に払われ、1度落下した。それでもエルとオルガの動きは、大魔天使フォルテナの意識をセシリアから遠ざけるには十分だった。程なくセシリアは法術の準備を終える。

「クリアンカ・・・いつでもいけるわ。・・・・・・・・・大丈夫?」弱々しく探るように問うたセシリアに、片翼の3分の1が痛々しく千切れた両翼を逞しく翻して応えるクリアンカ。

「ああ。いつでも構わない。終わらせてやろう、せめて苦しまないようにな。」クリアンカの口が悪くなった。箍(たが)を外した。本気になった。フォルテナを殺しにかかる。

 「水(aqua)―――!!」法術の発動を告げるセシリアの大声に反射反応を示したエルはオルガ目指して突進した。細剣、小太刀共に鞘へ収め、オルガの鳩尾(みぞおち)に右肩からぶつかっていった。オルガはよける仕草はおろか構えることも衝撃に備えることもしない。待ってましたとばかりにダインスレイヴを持ったまま万歳をして待機した。オルガの身ごなしではちょっと何かにつまずいたり、最悪フォルテナに捕まりでもしたら巻き添えを食う恐れがあった。もしくは法術を発動できない。オルガまで氷漬けになっては元も子もない。全速前進、オルガに横っ飛び、体ごと突進するエル。オフッ、と身を任せるオルガ。2人はそのままセシリアと、出番を待つリリトの戦士の下へ落下していった。

「水―――!!凍てつきし雨露細雪!」

「エル、オルガ、そしてセシリア、下がっててくれ。あとは俺が蹴りをつける。これで最期だ。」金色を帯び始めたクリアンカがそっと浮き上がった。


 雲が晴れ、顕になる大魔天使。膝を追って屈んだ姿勢、顔を隠すカレドヴルフ。さすがは魔神器といった所か、顔面の凍結は防がれていた。それでも、それだからこそ、肩から首にかけては申し分なく凍てついていた。難を避けた顔面、その目から伝わるは身も凍る殺気。その瞳、首が回らない為に正面しか見据えることはできないが、十分それで事足りる。視線の先にはリリトの戦士。ゆっくりと羽ばたきながら浮遊している。視線は合わせない。エルとオルガの言っていた覚悟、か。生きて皆のもとへ戻り、子供たちにも話さなくてはなるまい。長老が死んだこと、俺が殺したことを。どんな顔をするだろう。昔のことから自分のことも含めて、魔導石の話をする必要もありそうだな。受け入れてくれるだろうか。最も、うまく話せるかどうかがまず問題なのだが。

 鵬翼の白槍にて一度空を裂き、構え、空を蹴った。同時にフォルテナも動く。屈んだままの姿勢でカレドヴルフを、不愉快な小蝿まで最短距離をいくように振り下ろすのではなく、突き出した。進撃を止めぬままこれを躱すクリアンカ。ギャルリ・ギョルリと巨槍の周りを旋回しながら首を狙う。ここでフォルテナの口元に異変。正確には大槍を突き刺すと同時に発動させていた。怪光線。地を割り海を裂く魔性の光。それでも飛翔をためらわないクリアンカ。ギュルリ・グルリ。怪光線の周囲も旋回するリリトの戦士。突貫は更に加速。カレドヴルフは空しく空を切り、光線は平穏な海水を躍らせた。フォルテナにクリアンカを止める手立てはなくなった。そして。


 「『死電(しでん)』。」

 槍に山吹色が迸り、翼を、純白の翼を金色に染める。殺気に彩られたクリアンカの視線を受け止めているであろうフォルテナの距槍を回避し、光を躱し、喉元目掛けて滑翔。全身の光が鵬翼の白槍に集約され、大魔天使を貫いた。氷に覆われた首を砕き、頭部を切り離した。断末魔が叫ばれることはなく、ただ氷の砕ける音だけが無情に響き渡った。刹那、その巨大な全身は脚部から砂と化して崩れ始め、サラザラ積もり砂山を作り上げる。浮いたまま振り返ることのないクリアンカ。光と殺気は失われ、槍も輝きを失いつつあった。大きな砂山に墓標として刺さるカレドヴルフ。ここエティオーグに、大魔天使フォルテナ眠る。

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